無料ブログはココログ

2012年5月 1日 (火)

バラマキをバカにするなら、それ以上の成果を上げてみろ

 「既得権益を打破して社会の構造や在り方を変え、ムダを省いて成長分野に資金を配分してお金の流れを良くする必要がある」
 新自由主義や構造改革に浮かれた夢追い人にデフレ脱却の処方箋を尋ねると、いまだにこんな幼稚な答えが返ってくる。
 この手の世迷いごとは、TVや新聞、雑誌のインタビューや寄稿、識者とされる人のブログなどあらゆるところに溢れ返っており、経済のことを身の回りの半径3mの範囲でしか考えない読者や視聴者をあっという間に洗脳してしまう。

 彼らは、多額の借金を抱える日本では国内の資金(カネ)量をむやみに増やすことはできず、必要なら輸出を促進して海外から補充するしかないという不思議な発想を前提にしている。
 ニクソンショックに端を発する管理通貨制度が始まって40年以上経つのに、いまだに国家の財政政策を家計簿と同一視する“主婦感覚”から抜け切れないせいか、成長セクターへの投資資金の原資をなぜか無駄の削減に求めようとする。なにかといえば、バカの一つ覚えのように公共事業や外郭団体の削減とか公務員の給与削減を叫び、結果として消費や投資をシュリンクさせデフレを助長してしまうのだが、自らを旧悪を退治する改革者に模して悦に入っているから手に負えない。
 この手の愚か者は、公共事業がムダだとか、公務員が怠け者だと狭い料簡で決めつけるが、そこに投じる資金の行く先が全て民間事業者であることに思いを馳せることはない。公共事業にぶら下がる数多の民間事業者にしてみれば、川上から流れてくる仕事を堰き止められたようなものであり、たまったものではない。
 では、彼らの言を借りて成長セクターに資金を廻したとして、果たして経済成長を実現できるだろうか。例えば、新エネルギーの開発に莫大な資金を投じた場合に、先ずは官民を問わず出資が活発になり関連する研究開発が促進され設備投資も行われるだろう。
 だが、その結果、飛躍的に増大したエネルギー供給能力を一体誰が受けとめられるのだろうか。また、限定された産業分野に資金を集中的に投じれば、ビジネスチャンスを求めて多くの事業者の参入を誘発することになり勝者なき競合が生まれることになる。
 そこに残されるのは、膨大な供給力と縮小する需要とのアンバランスによるデフレ促進や競争合戦による死屍累々のみであり、最期は外国資本に安値が買い漁られるのが関の山だ。まさに、第二のエルピーダメモリーを生むだけの結果になろう。

 Aを削ってその分をBに廻そうとすれば、Aから不満が噴出するだけでなく、Bに群がる参入業者間の不毛な競争を煽るだけで資金が循環する範囲も限定されるため大した経済効果を生むことはない。改革者を気取って世の中を掻き回すような迷惑行為に手を染めなくても、財政政策や金融政策をフル稼働させAだけでなくBにもふんだんに資金を供給してやればよいだけだ。
 強者だけを富ませても経済成長することはできない。

 そもそも、やたらと改革を叫ぶ単細胞な人は、何でも自分基準で考えてしまうから上手くいかない。
 彼らの目に映る他人は、たいがいが変革を嫌う怠け者か時代遅れのお荷物の何れかであるようだが、その落ちこぼれ連中の中から自分基準のハードルをクリアできるものだけが生き残ればよいというのが彼らの思考の原点だ。だからこそ、大阪の中学生市長や現政権の素人財務大臣のように、自分のことはさておき、他人を見る目は異様なほど厳しく冷たいものになる。
 橋本政権における行政改革や小泉バカ政権における構造改革を通じて、こういったバカげた思考に基づく社会実験をわがもの顔で実行した結果、企業の業績や雇用の不安定化や自殺者の大幅な増加、技術者や生産拠点の海外流出、リストラ合戦による社会の不安定化、地域経済の疲弊など失政のオンパレードである。

 一国の政策を考えるときに、重要なのは目線を国民の最頻値(統計値におけるモード)に合わせることである。合わせるべき目線のレベルは平均値でも中央値(メジアン)でもなく、ましてや世間知らずの改革者気取りが他人に強いるようなやたらと高すぎるレベルでもない。
 自分の勝手な幻想に合わせて高望みしても、世間の人がついてこれないようなものでは何の意味もない。ちょっと外に出て辺りを見渡せば、マスコミや識者が言うような高邁な思想を理解し、それについてこれそうな人間なんて殆ど居そうにないことくらいすぐに判るはずだ。
 目線のレベルを最頻値に合わせ、その層を中心にできるだけ多くの国民がメリットを享受できるような施策や経済対策を打つことこそが基本になる。メリットを享受できる国民数が多ければ多いほど資金循環のサイクルが多方面かつ広範囲に広がり、それにより国内全体のインフレ期待が刺激され消費の活性化や経済成長につながるのだ。
 たった1人の成功者が10億円を独り占めするよりも、1千人の勤労世帯の給与が100万円UPするほうが景気の刺激力ははるかに高い。
 個々人が使える金額などたかが知れており、大富豪でも大邸宅や高級車(クルーザーも?)を揃えてしまえば、あとは大してカネを使うこともなくなってしまい、貯蓄や金融商品への投資など世の中的には役に立たない使いみちしか残らない。トリクルダウン理論など単なる妄想に過ぎない。

 ただでさえ、米国やユーロ諸国の経済低迷による世界的デフレ懸念、中国バブルの崩壊懸念、中国と東南アジア諸国との領土問題、朝鮮半島や中東情勢の悪化などげんなりするようなニュースばかりが世界を駆け巡っており、その都度日本経済は少なからぬ影響を被る。
 こうした外的要因によるショックをできるだけ緩和させる、あるいは、ショックへの耐性を強化するには、社会的な基盤を強化しておくことが何より重要である。
 すなわち、教育・科学技術・医療・福祉・防災・治安・消防・国防・食糧・エネルギー・物流ほか社会生活や経済を支える基礎構造を強固なものにしておくことが大切になる。
 例えば、食糧であればコメや小麦、大豆など基幹となる作物や家畜の飼料などの自給率や国内調達率を上げて行くこと、主要な作物の種子をしっかりと国内で確保するなどといった基礎固めをしておけば、外的要因によるショックへの耐性が高まるだけでなく、対応のバリエーションも増えるだろう。

 IPhoneやIPadのようなクリエイティブな製品さえあれば一国の経済が繁栄するという思い込みは、世間知らずの識者にありがちな単なる勘違いである。
 こういった一発逆転のサヨナラホームラン頼みの社会構造ではなく、人口構成の最頻値に目線を合わせ、社会基盤を形成する幅広い裾野に向けて広く厚く資金を投じることにより社会の隅々まで資金が循環することになる。
 世間では、これを“バラマキ”と呼ぶが、そんな的外れな批判を意に介する必要はない。
 広く厚くあらゆる層に資金を循環させることにより、国全体としての需要力が高まるだけでなく、需要力の発生範囲も広範囲になり様々なビジネスチャンスの素地が形成させることになるだろう。そして、そのことが新たな供給力を育成する源にもなる。

 「魅力的な商品だから売れる」のではなく、「需要家の懐が潤っているから売れる」のだ。
 商品が魅力的かどうかなんて、売れたという結果を装飾するために創られた後講釈に過ぎない。

2012年4月26日 (木)

生類憐みの令

 先週はヒグマにまつわる大きな事件が、北海道と秋田県で奇しくも同じ日に起こった。
 札幌市では2日間にわたり民家の間近に出没した若い羆が射殺され、秋田県八幡平では倒産寸前のクマ牧場から逃げ出したヒグマに襲われて高齢の女性飼育員お二人が死亡するという大変いたましい事件があった。
 件の秋田の事件に関連して、前々からクマ牧場の管理運営体制に文句をつけてきたNPO法人の代表は、取材に対して「(牧場の環境は)問題外としたうえで、今後については「『閉園』したとしても、環境を改善し、子どもを増やさないようにして、寿命を全うするまで飼うしかない」とコメントしたそうだが、全くリアリティーが感じられない。まさに他人事である。閉園した後の飼育コストやエサ代を誰が面倒をみるかなどといった現実的な課題を全く無視した呑気なコメントだ。
 どうせ、最後は県庁あたりに責任を押し付けようとする無責任な姿勢が目に浮かぶ。行き届かない管理が仇となり、第二の事件が起こってもよいというのだろうか。
 残されたクマにとっても、狭い檻の中で乏しいエサしか得られないようなら、薬殺か射殺してあげる方が楽だろう。

 一方で、札幌市で若いヒグマを射殺したことに対して、札幌市役所宛てに100件もの抗議の電話が入ったということだ。
 ヒグマの射殺と同じ日に、秋田で凄惨な事件が起こったというのに、若いヒグマを殺すなんて可哀そうだとか、山に返せばいいのにとかいった類の世間知らずで幼稚な抗議をする市民の神経はまともなのだろうか。
 今回射殺されたヒグマは、若いとはいえ体長135センチ、体重が120キロもあり、これは、本州で多数の人身被害を起こしているツキノワグマなら成獣クラスの体格に匹敵する。
 ちなみに、ここ5-6年間のクマによる人身事故(ケガや死亡)の件数(環境省資料、死亡者数はH19以降未公表)は、H18/150人(うち死亡5人)、H19/50人、H20/55人、H21/64件、H22/150件、H23/81人(速報値)に上り、いずれの年も全体の9割以上が本州で発生している。つまり、クマによる人身被害の殆どが体格の小さなツキノワグマによるものというのが実態であり、今回射殺された若グマクラスの体格でも成人に対する殺傷能力は十分といえる。しかも、出没地点はまさに住宅街の人家のすぐ裏手であり、近隣住民の安全を考えれば、射殺するなと言う方がどうかしている。
 札幌市では、近年、住宅地や公園などへのヒグマの出没件数が増えていたようだし、昨年は、市内の中心部近くにまでヒグマの成獣が出没して大きな騒ぎになったと記憶している。それだけに、今回の射殺という適切な処置に対して、胸をなでおろした市民も多かったと思う。実際に自宅の裏にヒグマがウロウロされてはたまらないだろう。他人事だと思ってグリーンピースまがいの戯言を吐く連中には、それほど文句を言うのなら、お前の家で飼ってみろと言いたい。
 この手の問題が起きると、お約束のように、野生動物との共生とか、絶滅危惧種がどうのこうのと言いだす連中は、罪もない住民が、秋田で起こったような不幸な事件に巻き込まれても構わないというのだろうか。わざわざ山奥に分け入ってまで野生動物を殺してしまえとまで言うつもりはないが、人間の生活ゾーンに無断で侵入し、人身被害が見込まれる動物は駆除するよりほかない。
 また、クマやイノシシなどの野生動物の被害の話になると、決まって、人間の手によって野山が開発され山に動物の食べ物が乏しくなり、動物が人家の近くに出没するようになると言いだすバカがいるのは困りものだ。
 そういう輩には、ぜひ野山に足を運んでみることをお勧めする。それが無理なら、飛行機の窓から下界を覗いてみてはどうか。
 昭和の高度成長期ならいざ知らず、山林の乱開発なんて20-30年前に終わっている。地方の山林地域で車を走らせると、耕作放棄地や朽ち果てた家屋や畜舎、倉庫などが目につき、公共工事の縮小のあおりで除草作業をしていないせいか道路の側面がびっしりと雑草で覆い尽くされている光景を目の当たりにする。
 人間が自然を破壊していたのなんてとうの昔の話で、いまや人間が緑に駆逐されようとしている。東京周辺でのほほんとしている連中には理解できないと思うが、少々郊外に行けば乱開発どころか、人間が自然に追い立てられているありさまだ。
 
 また、害獣の駆除についても、鳥獣保護法という時代遅れの法律のせいで、対策は常に後手後手になっている。
 クマやイノシシ、シカ、サル、アライグマなどの動物による食害やカラスによるゴミの散乱などにより人間がこうむる悲願は甚大だが、そう簡単には害獣を駆除することはできない。
 いちいち都道府県の許可を取らざるを得ず、下手にケガでもさせようものなら、こちらが逮捕されてしまうケースもある。実際に、北海道で農作物を荒らすヒグマを捕獲する囲いワナを仕掛けた人が逮捕された事例もある。
 これからカラスの産卵期になると、子育てで攻撃的になるカラスに気を付けましょうといった回覧板が町内会で回ってくるが、そこにはカラスを退治しようなどとは決して書かれることはなく、カラスのご機嫌を損なわないようあなたが気をつけるようにといった類のバカバカしいアドバイスがびっしりと書き込まれている。
 いったい、なぜこれほどまでに人間側が我慢を強いられ続ける必要があるのだろうか。
 人間に害を及ぼす鳥獣を駆除することが許されず、黙って手を下そうものなら人間側が罪に問われてしまうというおかしな構図は、どこかで聞き覚えがないだろうか。
 これは歴史の教科書で誰もが必ず学び、恐らく日本人の殆どが天下の悪法だと口汚く批判してきた「生類憐みの令」そのものである。

 ヒグマの射殺だけでなく、被災地のがれき受け入れに対して勘違いも甚だしいヒステリックな抗議電話を入れるような暇人は、その無駄なエネルギーの有益な使い道を足りない頭で考えるべきである。

2012年4月18日 (水)

「借りるカネ」なら、もう結構

 経済用語に関する誤用や誤解を招く表現は多い。
 新聞や雑誌などのメディアでよく目にするのが、金融政策を通じて「政府や日銀により市場に資金がじゃぶじゃぶに供給されている」というもので、この後には必ず、これだけじゃぶじゃぶに資金が溢れているのに一向に景気が回復しない、とか、日本の経済構造が変わってしまい景気を刺激しても仕方がない等といったニュアンスの戯言が続く。
 確かに資金は“じゃぶじゃぶ”にある。問題なのは、それらが「貸すためのカネ」ばかりという点にある。
 日銀が金融政策を通じて金融機関等から国債等を買い取り、その買取資金が金融機関の口座に溢れかえるさまを見て資金がじゃぶじゃぶだと騒いでいるようだが、そんな呑気なことを言っていられるのは、景気が過熱して 市場の資金が不足し金利が上昇局面にあるようなケースの場合である。
 直近の日銀資料では、国内銀行の預貸差(預金-貸出の額)はH24/2時点で185兆円(預金595兆円-貸出410兆円)とH21年末(預金567兆円-貸出417兆円)と比較して35兆円も増加している。しかも、貸出金利の平均はH23年末/1.655%からH24/2/1.442%へ低下している。これだけの預貸差拡大や金利低下は、借入意欲や借入ニーズの低下を示す市場からのシグナルと言え、個々の企業の問題は別として、平たく言えば、企業か家計かを問わず当面借入は必要ありませんといったところだろう。
 一方で金融機関の貸出意欲はどうかというと、金融機関の貸出態度判断DIの推移を見ると全規模で7%pt、中小企業でも0%ptを超えて(日銀、H24/3時点)おり、リーマンショックで一時的に落ち込んだものの、その後は貸出に前向きな姿勢を示している。
 前述のように、銀行にとって強制的な借金とも言える「預金」が一方的に増加し続けている環境下で、企業や家計が借入返済に熱中する有り様では適切な資金運用ができずに商売あがったりである。だからこそ、行き場のない余剰資金(預金)を国債購入に振り向けるしかなく、金融機関の国債保有高は増加している。

 世間では銀行に産業育成の役割を期待しているのか、銀行の融資姿勢を消極的と批判し、もっとリスクを取って日本をリードする新産業を発掘せよとけしかける。
 また、担保や保証人依存で事業性を評価するスキルがないとか旧態依然とした融資から脱却しろなどといった批判もよく耳にする。
 だが、残念ながら、いまの銀行にはそんな過大な期待に応える能力も方針もない。
融資の現場をよく知らずに好き勝手なことを言う人は、「新産業」と呼ばれるベンチャー企業や既存企業の事業計画のレベルを理解していない。
 企業全体の借入や投資意欲が低迷する中で、そういったベンチャー企業や既存企業の新規事業などの投資意欲は確かに高いものがある。1千万円に満たない売上しかない企業が1億円近い設備投資を計画した挙句に、必要資金の100%を融資で賄おうとする頭のおかしな事例など事欠かない。
 これまでに筆者が相談を受けてきた数多の経験からして、こういったベンチャー企業に限らず創業者やものづくり系の企業経営者の類いは機械や設備投資に異様な情熱を燃やすことが多いが、彼らの脳裏に綿密な返済計画があるかどうかは疑わしい。大概は、多額の融資を受けて購入した機械を稼働させることができずに、ただうっとりと眺めるだけで終わってしまう。また、ベンチャー企業や経営力が脆弱な経営者ほど身の丈をはるかに超えるような社会貢献をやりたがるから始末に負えない。
 また、時勢や時流に乗っかろうとする安易や事業計画も多い。携帯電話の普及期には携帯サイトの作成サービスや携帯関連ビジネスを、生キャラメルが流行れば地域の食材を混ぜた生キャラメルを、環境問題が持て囃されると風力発電だのバイオマスボイラーだのと見境なく流行りものに飛び乗ろうとする案件が実に多い。こんなものは流行り始めてから参入してもすでに手遅れである。マーケットが成長する前から愚かな参入者がどっと押し寄せた挙句に、すぐに価格競争が始まり値崩れを起こすのが関の山だ。後に残るのは、使われない製造機械と不良債権の山だけである。いったい何年経営者をやってきたのかと呆れ返る。
 日ごろ、銀行の融資姿勢を批判する外野の人間は、預金者の立場としてこういった幼稚な起業家の連中をどう評価するのだろうか。自分の預金を犠牲にしてまで、彼らを支援すべきと自信を持って答えられるのだろうか。

 このように、融資の現場では、資金の出し手と借り手の間のミスマッチが頻発している。貸したい相手は借りたがらず、貸したくない相手ほど借りたがる。これでは、いくら金融市場に貸すためのカネがじゃぶじゃぶと溢れていても役に立つはずがなく、ましてや経済成長につながるはずがない。
 しかし、金融機関として、こういったベンチャー企業に同情すべき点もあるし、こういったイノベーターの出現は将来の経済発展を促すダイナミズムの源泉になるのは間違いないことなのだ。このようなデフレ期に企業せざるを得ないことは、タイミングが悪く気の毒な面もある。
 創業者の事業リスクが高いのは今に始まったことではないが、かつての高度成長期やバブル経済期のような成長期であれば、マーケットにもベンチャー企業が参入する余地が生まれて事業化の可能性は今よりはるかに高まるだろう。

 いま必要なのは「貸すためのカネ」ではなく、「収入になるカネ」なのだ。そして、それは金融政策だけでは生まれない。
 財政政策にまで踏み込んで実体経済に潤沢に資金を供給し続けることで初めて、ベンチャー企業や中小企業の挑戦が夢から現実へと変わるだろう。
 バラマキだのといった批判を気にする必要などない。広く厚くあらゆる分野に資金を投入するからこそ、経営体質がぜい弱な企業にもビジネスチャンスが生まれやすくなるのであり、それを繰り返すことにより徐々に企業の経営基盤が強化され、ベンチャー企業から一人前の企業へと脱皮できるのだ。選択と集中とかいった幻想につられて特定の産業分野に資金を集中投下するのは愚かな選択である。過剰な参入競争による価格競争や意味のない消耗戦を招くことは目に見えており、結局は川下に位置する大手企業の一人勝ちで終わるだろう。

 財政の蛇口を閉めたまま見せかけだけの金融政策に固執していては、ベンチャー企業や中小企業と銀行との間の不毛な罵り合いは永遠に続くだろう。

2012年4月 8日 (日)

風評被害の発信源

 震災がれきの処理問題をマスコミが連日のように報じている。
 大震災から1年以上経過するにもかかわらず山のように放置されたがれきを見せられて、被災者の方々もさぞ無念な想いを抱いておられることとお察しする。
 だが、がれきの広域処理問題に関しては、札幌市や福岡市をはじめ、多くの自治体が受け入れを拒否している。特に、被災地から距離的に離れた地域ほど、がれきに付着する(どうせ大した量ではない)放射能による風評被害を恐れて受け入れに対する拒否反応が強いようだ。

 筆者が薄気味悪く感じるのは、がれきの受け入れを拒否する各首長の小心さよりも、彼らに無言のプレッシャーを掛け続ける『民意』である。実際に、がれき受け入れに対する自治体住民へのアンケート結果や自治体へ寄せられた意見などには、放射能による健康被害を懸念する声、周辺の農産物や観光資源への風評被害を心配する声、がれきは被災地で集中処理すべきとの意見などが多くあるほか、放射能を拡散させるなといった頭の悪い意見も散見される。
 昨年末のエントリーでも指摘したが、多くの国民の口から発せられ、街中に氾濫した“絆”とか“がんばろう東北”とかいう美辞麗句は一体何だったのだろうか。大震災なんて所詮は他人事で、被災者や被災地のことなんて構っていられないという薄汚い本音が垣間見える。2011年の今年の漢字に選ばれた「絆」という文字が、いかに軽い気持ちで使われていたのかがよく判る。

 一連の震災がれき報道や受け入れを拒否する住民の声を聴いていると、福島第一原発から200㎞も300㎞も離れた被災地のがれきまで犯人扱い(放射能汚染)されていることと、まるで福島第一原発から漏れ出した放射能のすべてが震災がれきのみに吸収されたかのような報道や過剰反応に対して強い違和感を覚える。
 反原発ゴロや放射能に過剰反応する頭のおかしな人々が云うように、福島第一原発の事故により放射能がバラまかれ被災地全体のがれきに健康を害するような放射線量が含有されているとするならば、すでにがれきだけでなく周辺の人や構築物、鉄道や車両、山林などあらゆる物質が汚染されているはずだ。
 放射能は、わざわざ「がれきだけ」を選んで、そこに居座っている訳ではないからだ。
 そうだとすれば、がれきだけを拒否しても何の解決にもならない。すでに震災後に大量の人員や物資、車両などが被災地から全国へ移動し、今日もそれは続いている。被災地へボランティアに赴いた人は大丈夫なのか、被災地でチャリティーコンサートをしたアーティストは大丈夫なのか、被災地や周辺地域で日常生活を送っている多くの住民は大丈夫なのか。岩手のがれきが放射能汚染されているなら、仙台市民も同じように被ばくしているのではないか。それなら、なぜ、がれきだけを特別視して受け入れを拒否するのか。
 そもそも、がれき受け入れを拒否する人々の頭の中に合理的な判断や冷静な視点は存在しない。
 そういう類の人間は、自分の頭や常識で考えようとせず(そもそも常識がないのかも…)に、マスコミが撒き散らす風評被害に踊らされてその片棒を担いでいるだけなのだ。常識のない外国人ならいざ知らず、当の日本人がマスコミの連中と一緒になって災害に苦しむ被災者の傷に塩を塗るような汚いマネをすべきではない。

 また、震災がれき受け入れに関する調査で、最後に決まって出てくるのが『国が明確な基準を定めるべきだ』というフレーズだろう。
 日ごろは行政や政治に文句ばかり付けて小さな政府を礼賛するくせに、なにか事が起きるとすぐに国を頼ろうとする意気地のなさは何なのだろうか。どうせ、なにか基準をこしらえても、原発再稼働の時と同じく、拙速な議論だとか国は信用できないとか言って文句をタレることは目に見えている。被災地に協力できない自身の卑怯さを直視したくないからといって国に責任転嫁するのは止めた方がよい。

 被災地や被災者は災害により家族や資産、職を失った挙句に長期間にわたり放置され、復興への気持ちが萎えかけている。そんな折に、震災がれきの処理などといった初歩段階の問題で躓いている場合ではない。
 各自治体の首長や住民は、いまこそ震災直後の真摯な気持ちに立ち返り復興を後押しすべきだ。

2012年3月26日 (月)

目的より手段が大切な人々

 消費税の増税問題に関して、連日のように民主党内の社会保障・税一体改革合同会議の様子が報道されている。増税法案の中に名目GDP成長率3%、実質GDP成長率2%の景気弾力条項を盛り込むことの是非を巡って党内の増税賛成派と反対派がモメているというものだ。
 筆者などは、デフレ不況で喪失した国富を取り戻すには、そもそも名目GDP3%という設定水準自体が低すぎると考えるが、それはさておき、この景気条項を盛り込むことに対して、民主党の前原政調会長が「景気条項を入れてしまうと増税ができなくなる」と発言したことに呆れ返ってしまった。
 このほかにも、「公務員採用数大幅削減は若者のため」とか「TPPはビートルズ」等々、この一週間の間に民主党や政権首脳部から常識が疑われるようなレベルの低い発言が続いている。
 こういった幼稚で開き直った発言がぺらぺらと口をついて出てくるのは、政権に巣食う連中にとって本当に大切なのは“消費税増税”とか“TPP参加”といった手段なのであり、国民経済の成長などという目的なんてどうでもよいと思っている証拠である。だからこそ、説明のたびに消費税増税やTPP参加の理由や背景がコロコロと変わるし、国民にとってのメリットが納得できる数値で示されることもない(示しようがないだろうが…)。
 “景気なんてどうでもいいから、とにかく増税させろ”という本音を隠せないからこそ、景気条項が増税の邪魔になるなどとつい言ってしまうのだろう。
 バブル崩壊以降の経済論壇では、構造改革やサプライサイドの強化を唱える者、インフレターゲットなど金融政策の強化を唱える者、公共事業などの財政政策と金融政策のポリシーミックスを唱える者などが中心となり、経済論議が行われてきた。その中で実践されたのは、新自由主義的な主張に基づく構造改革とあまり意味のない金融緩和政策であり、自民党から民主党への政権交代後も、このくだらない経済政策は一貫している。
 筆者は、そういった異なる経済政策間に意見の相違はあれど、『日本の経済成長を目指す』という方向性や大義は共有されているものとぼんやり考えていた。つまり、手段は違えど目的は同じものと思っていた。
 しかし、昨年の大震災後の被災地に対する冷たい対応や被災地の復興を放り出したままでの原発騒ぎに続き、今回の消費増税やTPP参加のためのなりふり構わない態度を見ていると、彼らにはもはや国民経済を成長させようというまともな発想や思想が全くないと言わざるを得ない。デフレ環境下、しかも震災により被災地の生活や経済が大きく破壊されている状況下での増税やTPP参加、公務員給与削減などのデフレ促進策の強行など正気の沙汰とは思えない政策が平気で実行されようとされ、マスコミも揃ってそれを後押ししている。
 国民一人一人がどう思っているかは判らないが、政権与党をはじめ自民党執行部、財務省、経済産業省、マスコミ、エコノミスト、識者など社会の中枢に近い層の大半は、経済成長を目的とするどころか、すでに経済成長に対する興味や希望を失い、増税とかTPP、○○改革などといった個人的興味や願望を優先させようとしている。
これは極めて由々しき事態である。
 世の中のあらゆる社会体制は経済活動をその基盤としており、社会や国家の発展、国民生活の向上等は経済成長なくしてあり得ない。つまり、経済成長なくして国民生活の向上や国力の強化などあり得ないのだ。
 経済成長の停滞や低下は国力の低下を意味し、現にデフレ不況の罠に嵌まり込んだ我が国のプレゼンスは低下する一方であり、国民の生活レベルも低下の一途を辿っていることは否定しようのない事実である。
 財政赤字とか少子高齢化とかいったできない理由を次々と並べて経済成長に背を向けてきたツケが回ってきたのだろう。
 多少でも、いまの日本を変えたいとか、良くしたいとかいう希望を持つ者は、マスコミがタレ流す情報を鵜呑みにしてはならない。そこには、日本経済の行く末など全く気にも留めずに自己の信ずる教義(増税とかTPP参加)に殉じようとする狂信者の呪文が隠れている。
 TVや新聞、雑誌をボサッと読んでいるとこういう新興宗教にはまりやすいのでご注意願いたい。

2012年3月14日 (水)

『削減=改革』という勘違い

 この20年余りの間で、『改革』という言葉ほど誤った使われ方で世の中に氾濫したものはないだろう。
 新自由主義や構造改革の熱心な信者に先導されて、構造改革・行政改革・郵政改革・政治改革・社会保障改革・税制改革・公務員制度改革等々数え上げればきりがないほどの改革(中国による異様な為替操作のスピードを少々緩めることでさえ“人民元改革”と称賛されている)が行われてきたはずだが、そのお粗末な結果はご覧のとおりである。
 橋本内閣や小泉バカ内閣に連なる一連の“改革ごっこ”に洗脳された国民は、雇用や収入、社会保障などを浄財として巻き上げられた挙句に、荒廃した社会基盤を押し付けられ、文句を言おうものなら、努力(信心)不足とか自己責任の一言であっさりと片づけられるありさまだ。
 東日本大震災後に湧き起こった復興増税や消費税増税問題においても、「身を切る改革」などというレベルの低い議論に終始している。先日も、岡田副総理から、国会議員の歳費削減や国家公務員の新規採用者数大幅減といった小学生レベルの提案が、政権内部で事前の摺り合わせもなく飛び出す始末で、政治家どころか社会人としての基本的な常識も持ち合わせていない政府首脳の存在に唖然とさせられる。

 そろそろ、政府・官僚・国民・企業の間で、互いに支出削減実績を自慢し合うようなバカバカしいデフレ促進合戦は止めた方がよい。中高年のオヤジが自分の病気自慢をし合うのと同じくらい生産性のない話である。
 我が国が世界最長水準のデフレ継続記録を更新し続けていられるのも、この手の「支出を削る=改革」といった初歩的なミスから多くの国民が抜け出せないでいるからだ。国家と家計を同一視し、カリスマ主婦に倣って無駄を省けば社会が上手く行くと単純に信じ込む単細胞な国民はどうしようもない。
 前述のナントカ改革シリーズに共通する思想は、他人の支出や待遇を削るという点のみであり、その他のちょこまかした制度や機構の変更などは単なる付属品である。
 やたらと改革をやりたがるというより“改革という手段に逃げ込もうとする輩”は、マクロな視点で物事を解決するのが苦手である。発想を転換して根本的な解決策を探るような能力や意欲に欠けるため、ミクロな視点から抜け出せずに目の前にあるこまごました制度や機構をいじくりたがるのだ。だが、所詮は問題の大枠には手をつける勇気がないからやれることは限られてくる。そんな時に誰もが思いつくのが、他人の給与やポスト、あるいは外部への支払いの削減といった愚策である。
 何も無いところに新たな仕組みを創り出すのは大変な苦労を伴うが、既にある制度や仕組みに文句をつけて、それを削ろうとするのは誰でも考えつくことだ。
 ところが、新自由主義者や構造改革が大好きな自称改革者は、こういった単純な行為をさも難しいことのように喧伝して、自らを巨悪に立ち向かう改革者に擬えようとする。最近では、事業仕分けに気勢を挙げていたバカ議員や大阪・名古屋のこども市長(+阿久根の元バカ市長)などがこういった類のエセ改革者と言えよう。
 多くの国民は、デフレに起因する生活水準の切り下げに抗しきれずに莫大な鬱憤を抱え込み、公務員や政治家の待遇を下げて少しでも溜飲を下ろそうとする。しかし、そんなことをチマチマやっていても決して自分の生活が元に戻ることはない。公務員の給与引き下げは名目GDPに下降圧力を加えるものである以上、他人の給与が下がったと喜ぶのは、自分の首に掛かったロープを絞めるのと同じことだ
 以前のブログにも書いたが、自分の収入や給与がどこから来るのか想像できない者や実体経済において個々の企業や家計が相互に連関し合いながら支出と収入を創出し合っていることを理解できない者が多すぎる。
 「カネは天下の回りもの」という諺を知ってはいても、そのシステムを実体経済や実生活レベルに落とし込んで理解できないでいるのだろう。

 だが、先週末に各局で放映されたバカマスコミによる東日本大震災関連の幼稚な報道姿勢やそれにつられてやたらと“絆”を連呼する軽薄な視聴者を見ていると、『改革』という言葉が国民の生活を真に向上させる意味合いで実践されるのは何時になることやらと暗澹たる気持ちになる。

2012年2月26日 (日)

人件費が高くて何が悪い

 仕事柄、企業の経営者と話していると、食料加工品などの原材料費の安い仕入品目やITサービスなどのコストを捉まえては、「○○は人件費のかたまりだからなぁ~」というセリフをよく耳にする。
 こういったセリフを吐く裏側には、仕入先や発注先のコストが高いことを揶揄する気持ちやもっと相手(仕入先)の人件費を削ればもう少し安く上がるんじゃないの…といった厚かましい要求が見え隠れしている。
 因みに、全産業ベースでの売上高人件費比率((役員給与+役員賞与+従業員給与+従業員賞与+福利厚生費)/売上高)は、法人企業統計年報によると、ここ数年は13-14% (平成5-6年頃は17%超)で推移しており、思ったほど高いものではないという印象である。
 このケチな経営者だけでなく、我々は日常生活の中で、サービス事業、中でも接客などといった対人サービス事業に類するサービスへの対価を支払う際に、「○○は人件費のかたまりなのに…」などと言って、その値段にケチをつけることが多い。「人件費ばかりで、材料費も掛かっていないのに、ちょっと高すぎるんじゃないか」という気持ちの表れなのだが、裏を返せば、“モノ=有形物”を敬う一方で、目に見えず形に残らない“サービス”を一段低く見てしまうのだろう。
 サービスなんて形の残らないものにお金なんて払いたくないという「スマイル¥0信仰」が、その根底にある。
 それが高じて、中国人やインド人を雇えばもっと安くできるのに…と妄想した挙句に、日本は人件費が高すぎると他人の懐具合にまで口を差し挟もうとする。

 しかし、日本人の人件費が高いことがそんなに悪いことなのか。

 太古の昔の自給自足生活から始まって、必要な物資の物々交換を経て貨幣経済が浸透し、人々の生活レベルは飛躍的に向上した。
 本来、それ自体では空腹すら満たすことができない貨幣を物品やサービスの交換ツールとして活用することによって、人々の購買意欲は大いに刺激され、生産・製造できる品目や品種は爆発的に増加し、生活レベルや生活様式は大きく発展してきた。
 それは、人々を自給自足の生活から離脱させる一方で、何らかの形での労働やサービス提供、あるいは社会生活への参加を強要するようになった。
 そこで、人々は生活の糧を得るため、または、よりよい生活を手に入れるために働き、その対価として報酬(貨幣)を受け取る。それが人件費そのものである。
 誰しも生活レベルを維持向上させたいと思うのは当然のことで、そのために、より多くの報酬を得ようとする行為は何ら非難されるものではない。

 そもそも、“社会”という存在自体が、人々が安全かつ豊かに暮らすための方便として構成されたものに過ぎない。極論すれば、「人間がより豊かに生きて行こうとするための壮大なごっこ遊びをする場」にすぎないのだから、その構成員たる人々の都合のよいように上手く運営して行けばよいのである。
 自分の給料はさておき日本人の人件費は高すぎる、とか、大して材料費も掛かっていないのにずいぶん高いな、なんていうくだらない愚痴の先に待っているのは工場の海外移転による職場の喪失や永遠に続くデフレ地獄だけだ。終いには、他人の人件費にケチをつけていた自分の人件費まで削られる憂き目に会うだろう。

 先に述べたように、他人の人件費に文句をつける背景には、形に残らないサービスよりも形に残るモノを重宝がる思考があるのだが、原料や材料が勝手にモノに変わってくれるわけではないことは子供でも判るだろう。
 地下に眠る鉄鉱石が自分の意思で鉄骨に変わる訳ではないし、大海を回遊するマグロが勝手にシャリの上に乗っかってくれるわけでもない。
 資源や原材料が人々の生活に役立つモノに変わるには、当然、人の手を介する必要があり、それこそ人件費のかたまりと言ってよい。人の手で加工された鉄骨やマグロに切り身もまた、別の人の手によってそれを必要とする人のところへ運ばれて、初めてモノとしての用をなす。およそあらゆるものを人々の生活に役立つモノに変えるということは、無数のサービスの介在なくしてありえない。
 資源や原材料を人間に役立つモノに変える行為そのものこそが「資源」なのであり、それに見合う対価を支払うのは当然のことだ。
 日本がこれだけ豊かな経済大国になり得たのは、日本人の人件費が高く、それを上手く国内に還流させて内需大国を創り上げてきたからなのだ。このことを忘れて、日本人の人件費は高すぎるなどとケチをつけるのは、天に唾を吐くのと同じことだ。
 人が豊かになるために懸命に働き、それに見合う対価を得て消費や投資をすることで豊かになる、そのことが他の誰かの報酬になって…という具合に連関することで社会全体が発展していく、こういった社会構造の基本を忘れてはいけない。仕事なんてものは、人間の生活をより向上させるため、あるいは、それに必要な対価を得るためといった"人間側"の都合でやっているのだから、人間側のベネフィットを優先するのは当然のことだ。自分の給料は高くて当たり前だが、他人の給料は安くないと困る、なんていうわがままは通らない。他人様に十分な報酬があるからこそ、それが巡り巡って自分の懐に入るのだ。給料が勝手に天から降ってくるわけではない。


 戦後の混乱期辺りで思考が止まっている輩は、いまだに過度にモノを崇拝し、サービスや貨幣を蔑む傾向にあるが、こんな時代遅れの発想では、この先もデフレ不況から抜け出すことなどできないだろう。

 国民の間に、サービスや人件費に対する誤った思考が蔓延しているうちは、大阪のバカ市長が敬愛する時代遅れの評論家が、しきりと推奨する「知価革命」とか「知価社会」なんてただの妄想の類にすぎないことがよく判る。

2012年2月18日 (土)

『監視役』という気楽な職業

 「社会の木鐸」、「社会の公器」。
 これらは、新聞やTV、雑誌をはじめとするマスメディアが、自らを良識ある存在であるかのように称して使うには大変都合のよい言葉である。
 大所高所から世の中の動きを見つめて、自らの利に捉われることなく広く国民に進むべき適切な方向性を指し示す存在といったところか。
 これが生じて、立法・行政・司法の三権を監視する監視役まで自任し、いまや世論の流れをグリップする大権力機関と化している。その監視対象は三権のみに止まらない。
 医療事故が起こったと聞けば医師や病院を糾弾し、鳥インフルエンザや食品偽装事件が発生したと聞けば農家や中小企業をつるし上げる…といった具合に、事件や事故が起こった背景や要因、因果関係等を詳しく検証しようともせずに、非難の対象になるターゲットを瞬く間に仕立て上げて手当たり次第に糾弾する。そして、何か事件が起こると、朝から晩まで何度も同じ映像やフリップを垂れ流して徹底的な“悪魔退治”に熱狂する。
 彼らは、死刑囚に対しては温かい人権意識を持っているが、なぜか刑務所に入る前の人間に対しては異様なほどの攻撃性を示す。
 その割に、自分達の行動には極めて甘い。社員が痴漢で捕まった、番組でのヤラセ行為やデータのねつ造、視聴率操作のための買収行為など、犯人がマスコミ以外の人間なら死ぬほど糾弾されそうな事件が起こっても、それが身内の起こした犯罪の場合はちょっとしたお詫びだけで軽く禊ぎを済ませてしまう。
 誰でも批判・糾弾することができるのに、誰からも批判されないというまことに都合のよい立ち位置は、“絶対王権”に匹敵する。
 彼らの批判対象から外れるのは、マスコミ自身と宗教団体、部落解放同盟ほか一部のワケあり団体、動物くらいのものだろう。

 そもそも、マスメディアに限らず監視役や御意見番などと称して、他人の行為に文句をつけるだけの立場の人間は、なんとも気楽な立場にあるのだが、世間の常識に疎い本人たちはそれを理解できていない。
 上手くやって当たり前といった義務を課された職業や立場に置かれた人が社会機構の要所に配されており、彼らが安月給にもかかわらず黙々と働いてくれるおかげで世の中は上手く回っているのだ。社会資本のメンテナンスに従事する職業人、警察官や自衛官・消防官、教員、病院関係者ほか数えきれないほどの人々が、社会機構をスムーズに動かすために働いている。
 自称“監視役”や“ご意見番”たちは、そういった人々が支える安定した社会機構の上にどっぷりと座り込んで、支える側の人間のミスを血まなこになって探し回り、小さなミスを採り上げては厳しく糾弾して自らの溜飲を下ろそうとする。糾弾される側の人間には一切の弁解も許されないし、それまで積み重ねてきた努力も全く考慮されない。

 こんな馬鹿げたことを続けていては、社会基盤の崩壊は免れない。豪華客船の大広間でぜいたくな料理や酒を喰い散らかしている人間が、機関士や甲板員に文句をつけて叱り飛ばしているのと同じことだ。船員たちがやる気をなくして船が漂流し始めたときに、文句は言えても船を動かすスキルを持たない“お荷物”たちはどう対処するつもりなのか。

 バブル崩壊以降、マスメディアの連中は、無駄の削減とか身を切る改革とかいった類の国民の所得も意欲も削ぐような逆噴射政策を推し進めてきたが、まさに無から有を創り出す苦労を知らないバカ者だと言える。この手のバカは、すぐにガラガラポン的な手法を取りたがるが、一旦失くしたり、壊してしまったものを再建する苦労を理解していないから困る。
 既に存在するものにあれやこれやと文句をつけるのは容易いが、何も無いところから制度や機構等を一から立ち上げて行くには莫大な労力やエネルギー、コストが必要になる。
 パートの雇用調整感覚で、少子化を理由に教員を削減したり、犯罪件数の減少を理由に警察官を削減するのは簡単だが、そういった人材が必要になった時に、どう対処するつもりなのか。
 当たり前のことだが、有用な人材は頼めばポンと現れてくれるものではない。そういった人材の育成には長期間にわたる経験を積み上げが必要で、それには相応のコストが掛かるのは当然のことだ。
 無駄なハコモノ、無駄な組織云々と幼稚な頭で批判する前に、それらを上手く活用する方法を探る方が、はるかに手間もコストもかからないことに気付くべきだ。

 管理通貨制度の下でカネは即座に作れるが、社会に必要な人材はそう簡単には創れるものではない。

2012年2月 5日 (日)

経営と経済は別物

 今年のアメリカ大統領選挙に向けた共和党の予備選挙の様子が、たびたび日本でも報じられている。事前の予想通りロムニー氏が先行する結果となり、現時点で4つの州で行われた予備選挙のうち2つを制している。間もなく始まるネバダ州の予備選挙でも事前の世論調査で、2位以下の候補を大きく突き放しており、順調な滑り出しといったところか。
 件のロムニー氏は、投資会社の経営者として莫大な個人資産を有しており、予備選での広告戦略(相手候補の悪口ばかりの下らないCM)に大いに役立っているようだ。このほか、マサチューセッツ州の知事時代に皆保険制度を導入したこと、自身がモルモン教徒であること、一時期同性愛者を擁護する立場を取っていたことなど話題に事欠かない人物のようだ。実際に、相手候補から、収入額に比べて納税額が低すぎると批判され、個人資産を公開しろと迫られたりしていた。(アメリカの大統領選挙は、いつも同性愛とか中絶の是非とか宗教絡みの踏み絵が多く、対立候補へのネガティブキャンペーンばかりで意外と幼稚だ)
 ロムニー氏のプライバシーについてはさておき(どうせブッシュjr程度の人物だろう)、筆者が気になるのは、マスコミ各社が報じる「ロムニー氏は経営者出身であり経済に強い」といったフレーズだ。
 経営者出身の政治家や立候補者と言えば、最近では韓国の李大統領や先の都知事選挙に立候補した大手居酒屋チェーンのバカ会長が記憶に新しいところだろう。
 この手の「経営者=経済の専門家という思い込み」や「経営と経済を混同する勘違い」は、マスコミだけではなく多くの国民の間で非常に根強いものがある。企業活動は経済循環を構成する重要なパーツの一つであるのは確かなことだから、こういった勘違いが生じるのは仕方のない面もある。
 だが、経営者が経済の専門家なら、国内企業の7割以上が赤字(バブル崩壊以降ずっとこの調子)といった情けない事態を招く訳がないし、世界に冠たる大企業があまた存在し、モノづくり大国を自任してきた日本の名目GDPが1997年以降ずっと低空飛行を続けている(このままでは着陸しちゃうかも…)事実を何と説明するのか。
 経営者の思考は、収入の源泉となる売上高の推移に左右されやすい。売上が順調に伸びていればよいが、それが頭打ちになると途端に経費に削減に熱中し始める。仕入価格を抑えるための下請けいじめに始まり、手形の支払いサイトの延長、従業員の給与削減、交際費や出張費等の削減等々、関係者のモチベーションを委縮させる妙手を次々と繰り出してくる。
 しまいには、売上を伸ばすという最も大切な目標をあっさりと諦めて、まだ削れる経費はないかと血まなこになってリストラできそうな社員を探しまわり、財務諸表とにらめっこすることになる。経営者の視線が外界に向かわず、ひたすら内向きになって犯人探しをするようでは会社もおしまいだろう。
 これと同じことが、日本の政治でも起こっている。
 政治家や官僚、マスコミや識者、多くの国民は、名目GDPを伸ばして経済成長するという最重要課題を諦めていないか。企業や家計に関わらず、売上や所得の源泉となる名目GDPを伸ばすことなく経営状態や生活環境を好転させることなどできない。
 皆が、一介の経営者と同じ視点から売上を伸ばす努力を放棄して、ひたすらリストラや経費削減に熱狂し、あいつは怠け者だとか○○は経費を無駄に使っているとかいった類のレベルの低い非難合戦をしているようでは国が持たない。
 経営を野球選手に例えるなら、経済とはそれら各プレーヤーが個々の能力を最大限に発揮し合って気持ちよく活動できる環境そのものを指す。
 個々の選手は、成績が上がれば当然報酬も上がると信じ込んで自分の成績を上げることのみに精力を注ぎ努力を重ねる。そして、観客たる消費者は、相応の観戦料を支払って、プレーヤーの努力の成果としての素晴らしいプレーを堪能することができる。こういったエンタテイメントが何事もなく粛々と行われるのは、そういったフィールドをしっかり管理して提供する経済の存在があるからなのだが、多くの国民はこのことに気付いていない。
 経済状態がガタガタになってしまえば、いくらプレーヤー(経営者)が頑張ったところで観客も来ないし、報酬も上がらないのは当然のこと。プレーヤーが自らの成績を上げることに熱中していられるのも、この例でいえば、野球というフィールドがきちんと興行として成り立つような環境が整えられているおかげであることを忘れてはいけない。
 経営者など、経済全体から見れば、ほんのちっぽけな一介のプレーヤーに過ぎないことを自覚すべきだ。
 
 経済または経済全体の循環システムは「食物連鎖」と同じようなもので、経営者など、所詮は食物連鎖のシステムを構成するひとつの種に過ぎない。
 「俺はライオンだ」と威張り散らしても、自分の餌となってくれるシマウマやヌー等の草食動物の存在なくしては、今日明日の命をつなぐことすらできない。食物の供給源になってくれる草食動物の数が増えれば、狩りもしやすくなるし、食料に困ることなく健康を維持でき、良好な生活を送ることができる。
 経営者たるもの、こういった当たり前の事実や世の中を構成する大きな流れに気付かなければいけない。

2012年1月31日 (火)

国民を道連れにしようとする殉教徒たち

 先週始まった通常国会では、消費税増税に関する審議が大きなポイントと言われている。
 だが、テレビや新聞各社、雑誌などメディアの大勢は、増税やむなしの論調でまとまっているうえに、野党第1党たる自民党まで増税容認と取られても仕方ないようなグズグズした態度であり、以外にあっさりと増税法案が通ってしまうのではないか。
 なにせ、きちんと増税に反対しているのが国民新党と共産党くらいといった体たらくだし、民主党内の反主流派(小沢一派)も党を割るとか口先ばかりで、どうせ最後は尻尾をまいて逃げ出すのがオチだろう。
 経済状態が低迷し、家計にも企業にも担税能力が乏しい時に、あえて増税という選択に踏み切ろうとする神経は、筆者には到底理解できない。栄養失調の兵士を戦場に駆り立てるようなもので負け戦になるのは目に見えている。

 消費税増税に賛成するのは、財務省を頂点に与野党の政治家を始め官僚や財界、マスコミ、識者層、経済団体ほかいろいろといるが、以外と高齢者やサラリーマン層に指示者が多いし、増税分は社会保障の財源にしますと言えば、年金や医療費が気になる年寄りもコロリと参ってしまう。
 特に、多くのサラリーマンは、毎朝の情報源であり企業戦士の教典ともいえる日経新聞が大キャンペーンを張る消費税増税に反対するのはいろんな意味で難しいだろう。デフレ不況下で小遣いや給与が減りつづけ、本音では増税なんて勘弁してくれと思っていても、日経をはじめあらゆるメディアは"財政はもはや破綻寸前、ギリシャやイタリアを見ろ、増税やむなし、国民も身を切る覚悟をもて"と勇ましく煽り立てるし、経営者や上司、同僚、取引先と話していても「国の借金や老人ばかり増えて働き手が減るんだから、もう増税するしかないよな」なんて言われるものだから、自分ひとりが反対する勇気など湧いて来るはずがない。
 よしんば、国債増発で財政支出すべきなんて言おうものなら、これ以上借金を増やせる訳がないとか、今どき公共事業なんて時代遅れとか、いつまでも国に頼るななどと言われて白い目を向けられるか、怠け者扱いされる(あるいは土建屋の手下呼ばわり)のが関の山だ。
 新聞や各メディアに目を通せば、そこには○○グローバル戦略研究所 CEOとかいった怪しげな肩書きの輩が、“グローバル競争に勝ち抜くには筋肉質の経営体質を!、グローバル化に対応できない奴は人間にあらず”とでも言いたげな上から目線で、消費増税や開国は避けて通れない、行政をスリム化せよなどといっぱしのことを言っている。そういった親増税論や親開国論はあちこちのメディアを通じて大量に世の中にあふれ出ており、これに影響されるなと言う方が無理なのかもしれない。

 国民の大多数にとって消費税増税がデメリットにしかならないことは、広く認知されていることと思う。特に、これだけ経済状態が疲弊し尽くしている状態なら、なおさらだろう。
 だが、この手の玉砕必至な精神論は、世の中の状態が厳しい時ほど人々の心にスッと浸透しやすい。江戸時代の3大改革による不況誘引や浜口内閣による恐慌突入、小泉構造改革によるデフレ不況など根性論に基づく馬鹿げた緊縮財政政策は、国民生活の破壊を糧にしてこれまでも度々繰り返されてきた。世間知らずで融通の利かない権力者が、正論や原則論を振りかざして、根回しによらない正面突破といった手法に頼ろうとする時に不幸は起きる。
 消費増税を安易に支持したり、増税の前に行政の無駄を省けなどといったピント外れの意見が厄災を招く要因になることに気付くべきだ。
 
 それにしても、多方面から批判を受けたり、自らの生活や待遇にも悪影響を及ぼしかねない増税やTPP、行財政改革、規制緩和、構造改革などといった愚策を目の色を変えて布教する輩(財務省やその言いなりになっている民主党・自民党の一部の議員)の目的は何であろうか。筆者はいつもこのことを疑問に思う。天下り先の確保、省益の拡大、国税庁に脅されて等々いろいろな理由が取り沙汰されているが、いまひとつピンとこない。官僚にしてみれば給料やポスト、天下り先は減る一方で、業者からの接待もなくなるし、政治家にしてみれば歳費が減るうえにやたらと選挙民の目がうるさくなり、以前のようにのんべんだらりとした選挙活動もしづらくなっている。
 なのになぜ、苦しい思いをしてまで改革運動に連なる様々な愚策に血道を上げるのか。気が触れた者の行動を理解するのはまことに難しい。ひとつ結論付けるとするなら、それは殉教者の心理と似たようなものではないかと想像している。自分の生活に直接のメリットがないばかりか、自らの命を投げ出さざるを得ないような事態になっても、心酔する信仰が世に広まれば最高の満足感が得られるのと同じ心理なのではないか。
 こういった心理状態にある者は、利害関係や損得勘定に左右されづらいだけに厄介な問題でもある。しかも、国民生活を破壊する愚策に対する彼らの想いは、もはや信仰の域に達しているから、いくら利害や損得を数字で説明しても、その信念が揺らぐことはあるまい。
 隠れキリシタンやイスラム原理主義者のような殉教徒だけに、無理に説得しようとしても無駄だろう。
 だが、国民を道連れにする自爆テロだけはやめてもらいたい。
 

«デフレの正体は『カネ不足』