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2016年9月28日 (水)

3Kから、4Kへ

安倍政権は、少子高齢化に伴う生産年齢人口の減少を前提に、一億総活躍社会などと称して、外国人労働者の活用促進や女性の社会進出を盛んに進めようとしている。
そうした馬鹿げた議論を強力に後押しするのが、「日本人や若者は3K職場で働きたがらない」という質の悪い言い訳だ。

「3K」という言葉自体は、バブル経済の時代から存在しており、旧くは建設・土木、ゴミ処理業界などをイメージした「汚い、きつい、危険」という意味で使われ、最近では、看護師、介護士、小売業界などを指す「きつい、給料が安い、帰れない(新3K)」といった使い方もある。

新3Kの「(ノルマが)きつい、給料が安い、帰れない」という言葉を聞くと、若者に嫌われる業種が、これまでの製造業からサービス業へと変遷している様子が窺える。

“常識外れのノルマを課され、パワハラマネージャーから毎日のように度を越した叱責を受け、早朝から深夜まで働き通しなのに、月給は手取りで15万円程度しかない”なんていう典型的な3K職場で、今日も多くの日本の若者が黙々と働いていることだろう。

また、運送業界や飲食業界では、違法な業務委託形式を悪用した残業代の不払いや社保・労災の未加入、業務用品代の負担強要などの不法行為が横行し、多くの若者が苦しめられている。

だが、不遇な職場環境に身を投じざるを得ない日本人や若者に同情を寄せる声は、意外など小さく、「若者は職場を選り好みし過ぎている」、「この不況下で給料を貰えるだけでも有り難いと思え!!」、「中小企業は給料を上げる余裕なんてない、ぜいたくを言うな!!」、「俺たちが若い頃は、云々…」と批判や叱責が先行するありさまで、日本人が働きたがらないならベトナム人や中国人を移民として受け容れるしかない、というアホな結論が待っている。

そもそも、3K職場で働くということは、あたかも、DV夫と結婚するようなもので、それを容認し、放置したうえで移民を推奨する連中の意見は、“頭のおかしいDV夫の理不尽な暴力に耐えられない日本女性は甘えている。しょうがないから、健気なフィリピ―ナやタイ人にでも嫁に来てもらおう”と言ってるのと同じことだ。

彼らのように、基本的なモラルに欠け、現状追認しかできない輩は、DV夫を矯正する意思など持っていないし、そうした努力をする気もない。
それどころか、被害者側に我慢や寛容さを強要して悦に入るような呆れた態度を取るから、始末に負えない。

この手の「3K容認論者&推進論者」は、得てして近視眼な連中ばかりだから、日本の3K職場に対する外国人労働者のニーズが永遠に続くものと勘違いしている。
だが、このまま低成長期が継続すれば、東京のコンビニや牛丼屋のレジに中国人が溢れ返る光景も、やがて見られることもなくなるだろう。

現在でも、中国や東南アジア諸国を中心に、自国の所得の低さゆえに、日本の最低賃金程度でも出稼ぎに来たがる外国人は多いが、それに甘えられるのも今のうちだけだ。

上海辺りの平均年収は140~150万円ほど(※中国人の年収を語る際に「平均値」を用いるのは適切ではないという指摘もあるが…)だが、毎年10%前後の伸びを示しており、平均年収が低迷の一途を辿る日本の水準に追いつく日も、そう遠くはない。

また、アジア圏に近いオーストラリアでは、すでに国民の平均年収が日本の2倍近くまで高騰し、日本では低賃金の象徴たる“飲食業界”でも平均年収は540万円にも達しているそうで、外国人労働者も、わざわざ、蒸し暑い日本くんだりまで来て安月給で働くインセンティブもないだろう。

移民容認で凝り固まったバカ者は、黙っていても外国人が、憧れの日本に働きに来てくれると妄信しているようだ。
しかし、成長を忘れた日本と高度成長を続ける周辺諸国との環境格差が、そういった根拠なき妄想を軽く吹き飛ばす日も近い。

3K職場の人手不足を懸念する声に対して、ネットでは、「運送業界に足りないのは運転手じゃなく、運転手に払う給料」、「金払え、いくらでも人はいる」、「パート募集が土日含む週5日の8時間勤務、しかも時給770円じゃぁ、主婦は働けない」といった的確な本音が語られている。

為政者や識者の連中だけではなく、現に実社会で汗をかく一般の社会人たちが、こうした声なき意見を、負け犬の遠吠えと取るか、将来の生産力維持向上のための糧と取るかによって、30年後、50年後の国際社会における日本の地位が左右されるのだ。

適切な経済政策や労働規制、資本移動規制などの対策を放り出しておいて、労働コストの削減ばかりに熱中する国に未来はない。

やがて、3Kどころか、「(外国人すら)来ない」という新たな“K”が加わり、アジア最貧の4K国家に落ちぶれる日が来てしまうかもしれない。

2016年9月27日 (火)

購買力の裏付けこそが、需要と供給の最大のエンジン

『日本経済を成長させ本格的な回復軌道に乗せるためには、労働市場の改革や規制緩和によって潜在成長率を向上させ、民間企業の活力を高めることが必要不可欠だ』

経済財政諮問会議や規制改革推進会議などの政府の諮問会議の資料、経産省など各省庁の予算資料、日経新聞やビジネス誌の記事等々、あらゆるところでこんなセリフを目にすることが多い。

安倍首相も、昨日の第百九十二回国会における所信表明演説で、「一億総活躍の「未来」を皆さんと共に切り拓いてまいります。その大きな鍵は、働き方改革です。働く人の立場に立った改革。意欲ある皆さんに多様なチャンスを生み出す、労働制度の大胆な改革を進めます」、「農政新時代。その扉を開くのは改革です。農家の所得を増やすため、生産から加工・流通まであらゆる面での構造改革を進めていきます」と叫び、(決して手を染めるべきではない)労働市場改革や規制緩和を促進することを宣言した。

安倍首相をはじめとするサプライサイダー(成長阻害要因は供給力不足や生産性低下によるものと主張する連中)は、
①国内外には常に旺盛な需要が存在する
②にもかかわらず、そうした需要に応え得るだけの魅力的な商品やサービスが、国内には存在していない
③しかも、少子高齢化により国内の労働人口は減少する見込みで、将来的な供給能力の低下が懸念される
④こうした状況を打破するには、労働改革や規制緩和しかない
と論を進めたがる。

そして、最後には、多様な働き方、高齢者・女性・外国移民の活用、あるいは、同一労働同一賃金なんかを盾にして、解雇要件の緩和や労働コストの引き下げを狙う、というのがお決まりのパターンだ。

しかし、サプライサイダーの妄想は、①の旺盛な需要の存在というポイントで、既に間違っている。

「需要」という言葉をネットで検索すると、『商品に対する(購買力の裏づけのある)欲求』という解説が付されている。

広い世間には、“日本は成熟社会に到達し、人々は、これといって欲しいものがなく、買ってみても感動というレベルまでには至らない”なんて妄言を吐く連中もいるが、そんな変わり者は、死を待つだけの病人以外に存在しない。

市井で暮らす普通の人間なら、有り余るほどの『商品に対する欲求』を持っているもので、先立つものさえ手に入れば、すぐにでも買いたい物なんて、いくらでもある。
週末のスーパーで行われる玉子やキャベツの特売に、開店前から長蛇の列ができるのを見ても、その欲求の強さが解かろうというものだ。

“感動というレベル”とはまるっきり無関係の安売りの玉子でさえ、人々を惹きつけて止まないのだから、サプライサイダーの言う“国内には魅力的な商品がない云々”という妄想も、単なるデタラメであることが解かる。

ちょっとその辺の商業施設をぶらつくだけでも、洗練されたデザインの服や家具、時計、優れた機能を持つ家電製品などが目に入ってくるし、街のレストランには涎の出そうなおいしい料理がズラリと並んでおり、誰もが、そうした魅力的な商品に対する欲求を擽られ続けている。

日本には、既に十分すぎるほど高レベルな商品やサービスが揃っており、人々の欲求が尽きることはない。
それらが消費されずにいるのは、欲求を具現化するだけの購買力を人々が持ち得ていないからに過ぎない。

問題なのは、サプライサイダーたちが、財政金融政策による国内需要の養成を嫌悪するあまり、海外市場の発掘に話を逸らそうとすることだ。

彼らは、少子高齢化に病む日本市場はこれ以上成長しない(=成長してはならない)と突き放し、旺盛な需要に沸いている(ように見える)アジア市場の開拓に勤しもうとする。

しかし、アジア市場、とりわけ、高度成長が期待されている東南アジア各国の実状を見ると、相変わらず海外からの直接投資頼みの経済構造のままで、いつまで経っても自国マターの供給体制および流通網の整備や自律的な国内市場の発達の兆しが見えない。

こうした国々は、一見、成長力に満ち溢れているかのように見えるが、その内実は海外資本頼みの砂上の楼閣のようなものだ。
彼らの力の源泉は、自らの創造力で勝ち得たものではなく、日本をはじめとする先進諸国から与えられたエサや小遣いでブクブクと太っただけのことに過ぎない。

こうした事実から目を逸らして、労働改革や農業や医療分野などの規制緩和を進めてしまうと、雇用の不安定化や労働所得の低下を招き、食糧や健康という生活基盤に係る産業力の破壊につながりかねず、高度かつ高精度な供給力とサービス提供力という日本の労働者層が持つ最大の強み(=真の国富)が喪失してしまいかねない。

そうなってしまえば、日本という国は、中途半端な人口規模だけが残る東アジアの後進国という哀れな地位に甘んじるしかない。

日本経済を成長させ本格的な回復軌道に乗せるために、いま成すべきは、労働市場の改革や規制緩和などではない。

ましてや、3K職場に安月給で働く日本人がいないから、という薄汚い言い訳を盾に移民を容認することでもない。
そんな現状追認しか考えられぬ守銭奴は、中国人を雇いたければ中国で、ベトナム人を雇いたければベトナムで、直接現地に行って商売をすればよい。
現地に行けば、掃いて捨てるほど中国人やベトナム人がいるのだから…

「需要」という言葉の定義の真ん中にある『購買力の裏づけ』を国内の経済主体に与えることが重要なのであり、その点こそが日本社会に渦巻く諸問題を解決する鍵を握っている。

日本の潜在成長率を向上させ、民間企業の活力を高めるために必要不可欠なのは、大規模かつ長期に亘る財政金融政策を粛々と実行し続けて、家計や中小企業のフロー・ストックを快癒させ、企業のメインマーケットたる国内市場を持続的に発展させること以外にない。

2016年9月23日 (金)

ゴールラインを引いても馬は走らない

一昨日に、日銀から「金利目標付き金融緩和政策」の導入が公表され、賛否両論が沸き起こっている…というより、金融緩和政策の効果が広く疑問視される中で、一部の論者を除き、冷ややかな視線が注がれている、といった方が正確か。

そんな中、経済論壇で唯一の日銀応援団でもあるリフレ派が孤軍奮闘中だ。

『より野心的になった日本銀行のリフレ政策 - 田中秀臣 街角経済学』
(ニューズウィーク日本版 9月21日 http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160921-00177398-newsweek-int)
「(前略) 9月21日の日本銀行の金融政策決定会合では、リフレ政策の「補強」が行われた。筆者はこの決定を、今年冒頭のマイナス金利政策導入の数倍好意的に評価したい。
(中略) 日本銀行自身が公式に名づけたように「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」であり、従来の量的・質的緩和政策を「補強」したものである。そしてこの「補強」は現状の日本経済においてインフレ目標の達成と、さらに実体経済のさらなる改善にきわめて有効な手段を日本銀行に与えたことになる。ただしリフレ政策への反感や無理解が深刻なマスコミや識者を中心にしばらくは政策への誤解や、歪んだ批判が続くだろう (後略)」

リフレ派の代表格の一人である田中氏(上武大学ビジネス情報学部教授)は、先日公表された日銀の「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」を手放しで褒めちぎり、懸命にフォローしている。

田中氏は、
①金融政策を柱とするアベノミクスは、株価・円安効果、企業の業績改善、雇用の大幅改善をもたらした
②日本経済を阻害したのは、金融政策の失敗ではなく、2014年4月の消費増税による悪影響、資源価格の低下、新興国の経済不安定化によるものだ
③金利目標化が市場の予想形成に効果を与え、インフレ目標の達成により、失業率の大幅低下、名目・実質賃金の上昇、雇用の質的改善が期待できる
と主張し、「反リフレ陣営の「日本経済は低迷したまま」や「アベノミクスは失敗」などという批判は妄言レベルだ」と強い憤りを隠そうともしない。

叶わぬ夢を追い続けるリフレ派の面々には気の毒だが、異次元金融緩和を柱とする黒田バズーカは、もはや限界に達している。

彼らが信じ込む金融政策の効果とやらも、
・円安は、単にアメリカが2014年後半頃からマネタリーベースを抑制したことによるもの
・企業の業績改善は、国内労働分配率の低迷によるもの
・失業率の低下と言っても、中身はパートや非正規雇用が増えただけ(=止むを得ず働かざるを得ない層が増えただけ)で、平均年収は低迷したまま
という有り様で、とても褒められたものではない。

また、すぐに消費税増税に責任転嫁するの問題だ。

以前、日銀は、「消費税率の引き上げ分が現行の課税品目すべてにフル転嫁されると仮定して機械的に試算すると、2014年度の消費者物価の前年比は2.0ポイント押し上げられる」と試算しており、増税による消費低迷の影響があるとしても、増税自体は、むしろ物価引上げに直接的に寄与していると認めているではないか。

さらに、黒田総裁自身も、消費税増税には積極的に賛成する発言を繰り返しており、増税が物価目標未達の原因だとしても、それは自分が撒いた種なのだから、自らを恨むべきだろう。

筆者は、日銀の積極的な国債買入により、政府債務が実質的に消滅しつつある点こそが、異次元緩和政策の成した最大かつ唯一の功績だと考えている。
だが、これを認めて喧伝することは、大規模な財政政策の幕開けにつながる懸念があるためか、緊縮財政派はおろか、当のリフレ派も口を噤んだまま触れたがらないから、金融政策の効果が国民に正確に伝わっていない。

そもそも、日銀が掲げた「2%の物価安定目標」というコミットメントの真意が、ほとんどの国民に理解されていない点に大きな問題がある。

本来なら、
①政府による積極的な財政政策とそれをサポートする量的金融緩和政策の発動
②「消費や投資の直接的な原資となるお金」の実体経済への大規模な投入と低金利誘導による投融資環境の改善
③ビジネスチャンス拡大を狙う企業の投資活発化と収益向上による労働分配率の改善
④家計所得向上の実現と将来的な所得拡大期待の蔓延による消費の活発化
⑤ディマンドプル型インフレの発生による物価目標達成
という経路を国民に示し、堂々と政策論議すべきであったのに、日銀やリフレ派の連中は、それらをすべてすっ飛ばしてしまった。

いまだに、デフレという言葉の意味すら理解できぬ企業経営者や家計が多い中で、いきなり2%のインフレ目標を掲げられても、その意図を汲み取ることなど不可能だし、特に、永年の不況でフロー・ストックともに散々に痛めつけられてきた家計に至っては、日銀の妄想する「フォワードルッキングな期待形成」なんて抱けるはずがなかろう。

万が一、市井の人々が、“物価の上がり方は中央銀行の目標である2%に向かっていくだろう”と予想したとしても、現状の所得と将来の所得の伸びに大きな不安を抱える家計の取り得る行動は、「駆け込み消費」ではなく「更なる支出切り詰めと貯蓄奨励」でしかない。

家計には消費の実弾が枯渇しており、もはや、「フォワードルッキングな期待」に釣られて消費を増やせるような元気は残っていない。

この程度のことは、身の回りを見渡せば直ぐに解かるはずだが、「学問」という歪んだフィルターを通してしか、世の中の事象を理解できないようなバカ者にとっては、案外難しいことなのかもしれない。

2016年9月21日 (水)

大概の日本人は"高度人材"である

『人口が減るのに街は失業者であふれる!?「雇用貧乏国」ニッポンの厳しすぎる未来』
(ダイヤモンドオンライン 西川敦子/フリーライター http://diamond.jp/articles/)

当該コラムは、いまから4年ほど前に書かれたものだが、そこに内包された問題や矛盾は、現在に至っても改善されておらず、多くの国民が勘違いしたままだ。

執筆者の西川氏は、
・国立社会保障人口問題研究所によると、2025年の日本の人口は6.2%減り1億1927万人となると予測され、生産年齢人口の減少が懸念される。
・2010~2025年の生産年齢人口の減少率は年率0.9%と予測される一方、工場の機械化やロボット化により労働生産は1.19%程度上昇し、生産年齢人口の減少率を上回るため、このままでは労働力不足は起きず、働きたいのに働けない人が溢れてしまう。
・国内メーカーの工場海外移転に伴う雇用の場の喪失、家電製品や衣類などを中心とする安価な海外輸入品との競争激化により、国内製造業の雇用は破壊され、失業者はサービス業に殺到せざるを得なくなるが、サービス業は労働集約型産業で給与水準も低いため、日本人の賃金水準はますます低下する。
と問題提起し、ここまでの分析はよいのだが、この先の提言がいただけない。

西川氏の提言(と妄想)は次のとおりだ。
①労働人口そのものは不足しないものの、いまの日本に不足していて、将来も必要になるのは「高度人材」だ。
②高度人材とは、自分で考えて行動し「イノベーション」を起こすことができる人材であり、パン職人がランチにぴったりのヒット商品を生み出したり、農家がお米の品種改良をしたり、営業マンがお客様のニーズに合う機能を持った商品やサービスを見つけたりする人材を指す。
③消費が落ち込み、国内市場が小さくなっていくこれからの時代は、新しいモノやサービスを生み出し、「あ。これ、ほしい!」って思ってくれる人を増やさねばならない。それも、世界と競争して勝てるようなものでなければダメだ。
④基礎力あるスペシャリストを育てられない今の教育、女性や外国人などに門戸を開かない人事制度の問題もあり、日本人の高度人材育成は難しい。
⑤若者には、製造業でも、サービス産業でも何でもいいから、その道でプロと言われる人材、必要とされる人材になってもらいたい。

ここで、西川氏の提言のおかしな点や矛盾点をいくつか指摘しておく。

先ず、彼女は、人気のランチメニューを創るパン職人や米の品種改良に取り組む農家を「高度人材」だと持ち上げており、彼女流の「高度人材」のハードルはかなり低い。
この程度の人材なら、その辺にゴロゴロ転がっていそうなもので、筆者の相談先や知り合いだけでも十指に余るほど名を挙げられる。

不思議なことに、彼女は、日本の教育システムの遅れや企業の人事システムの問題点を指摘し、日本人労働者には高度人材が不足しており、新しいモノやサービスを産み出す能力がないと嘆いているが、単に、自身が世間知らずなだけで、身の回りにいる高度人材のポテンシャルを見落としている、あるいは、意図的に無視しているだけのことではないか?

また、彼女は、日本経済縮小論を妄信し、国内市場の衰退を不可避なものと決めつけ、イノベーションでしか現状を打破できないと思い込んでいるようだ。
「新しいモノやサービスを生み出し、「あ。これ、ほしい!」って思ってくれる人を増やさねばならない。それも、世界と競争して勝てるようなものでなければダメだ」という、いかにも底の浅い発言を堂々とするさまには、失笑を禁じ得ない。

幼稚なサプライサイダーは、“革新的なモノやサービス”とやらに過度な期待を掛けるが、現実の消費の現場では、そんなものは脇役に過ぎない。

総務省家計調査報告による今年7月の二人以上世帯の消費支出は278千円に止まり、対前年同月比実質▲0.5%、名目▲0.9%(5カ月連続減少)と相変わらず冴えない動きだ。
中でも、西川氏のようなイノベーション万能論者が注意すべきは支出の内訳であり、革新的な商品やサービスが入り込めそうな支出項目(教養娯楽・被服・通信など)は、最大限見積もっても支出全体の1/4ほどでしかないし、実際には、そのうちのごく僅かなシェアを占めるに過ぎない。

日常生活で、家計が消費するモノやサービスは、その大半が、革新性や競争力に乏しいものばかりであることに、いい加減に気付くべきだ。

あなたが朝食に食べたパン、朝食後に使った歯磨き粉、通勤に使った電車、昼食に食べた牛丼、打ち合わせで使った手帳やボールペン、夕食で食べたカレー、家庭で使った電気や水道などなど、一般家庭で消費されるモノやサービスのほとんどは、革新的でも何でもないごく当たり前のモノやサービスにカテゴライズされており、革新的でないと外国製品に勝てず、アンテナの高い消費者に受け入れられない、なんていうのは単なる妄想だろう。

実際に、日本の小売現場に並んでいるモノやサービスの水準は、技術的にも機能的にも他国のそれを凌駕しており、近年、世界中から、日本の商品・サービスを購入するため、あるいは、日本のカルチャーや観光地を巡るための訪日観光客が激増していることが、それを証明している。

世間知らずで自分の妄想でしかものを書けない連中には、日本人労働者の持つポテンシャルや高度技術、あるいは、高い機能性や革新性を有するモノやサービスが理解できないのだろう。

まさに、“知らぬは、開国前夜のサプライサイダーばかりなり”といったところか。

日本人労働者には高度人材が掃いて捨てるほど存在しており、わざわざモラルの低い外国人を輸入する必要などない。

また、日本製のモノやサービスが低迷しているのは、生産財や関連技術の野放図な海外移転を取り締まらず放置していること、緊縮政策により家計の所得や消費が抑制され需要の伸び代がないことによるものであり、サプライサイドの革新に原因を求めても答えは出ない。

マクロ視点から俯瞰すれば、モノやサービスが売れぬ原因は、大抵の場合、供給サイドではなく需要サイドにあるものだ。
問題は、常に消費者の財布の中に潜んでいる。

2016年9月15日 (木)

働き方改革という服を着た労働コストの削減

先日、東京都のパフォーマンス知事が、都庁職員に対して午後8時までの完全退庁を指示したことが大きな反響を呼んだ。
退庁時間が6時じゃなくて、なぜ8時なのか?という突っ込みは別として、しょーもない議会対策や財政当局との折衝のために長時間労働が蔓延しがちな地方公務員の働き方に一石を投じることになればよいと思う。

小池氏は、元々、新自由主義的思考の強い人物であり、労働者目線に立つかのような今回の提案も、その賞味期限は極めて短いものになるだろう。
よって、労働者サイドも今回の提案を逆手に取り、定時退庁を常態化させ、「残業=悪癖」という空気を早急に醸成しておくことだ。

さて、こうした動きがマスコミ受けするのを嗅ぎ取ったのか、自民党も働き方改革への取組みを加速させるような動き見せているが、相変わらず規制緩和&改革臭が強く、内容が伴っていない。

9月15日の日経新聞朝刊に、働き方改革に関する自民党茂木政調会長のインタビュー記事が掲載されていた。
インタビューの中で茂木氏は、働き方改革の論点として、
①同一労働同一賃金
②長時間労働の是正
③配偶者控除の見直し
④雇用のミスマッチ解消
⑤外国人労働者受け入れ
を挙げている。

働き方改革とは、我が国の供給力を支えるエンジンである労働者のポテンシャルを最大限に発揮させ得るものでなければならず、その主軸は、
・被雇用者の所得引上げ
・非正規雇用&海外への資本移動に対する規制強化
・長時間労働の禁止&有給の完全取得のための労働規制強化
であるべきというのが筆者の考えであり、自民党や茂木氏の思考は、完全にあらぬ方向を向いているようにしか見えない。

茂木氏が挙げた5つの論点のうち、②の長時間労働の是正以外は、有害もしくは効果の乏しい愚策でしかない。

①の同一労働同一賃金は、非正規雇用の処遇改善を表看板にしているが、その実態は、非正規雇用者の待遇改善財源を捻出するための正規雇用者の処遇切り下げと働き方の多様化を旗印とする雇用規制の更なる緩和に過ぎず、正規雇用者のメリットは一分もないものと覚悟しておいたほうが良い。

そもそも、全労働者の4割もの非正規雇用を産み出し、格差社会を常態化させた責任は、小泉バカ政権以降の自民党にあるのだから、彼らの処遇改善を謳うのなら、まともな正職に就けなかったロスジェネ世代に対する公務員への優先雇用を掲げるなどといった本気度を示すべきだ。

③の配偶者控除の見直しについて、巷では、女性の働く意欲が103万円の壁にぶつかり抑制されると言われているが、そんなことはない。

年38万円の基礎控除による節税効果は3.8万円ほどに過ぎず、この程度なら、103万円に固執せず、パート時間を増やして収入を挙げた方がメリットは大きいだろう。
先の消費税率8%への引上げにより、年収500~600万円の家計における負担増加額は年額8.8万円にも上ったそうだから、こちらの方がよほど労働意欲を削がれるのではないか。

103万円で働く気が失せるのなら、その限度額を200~300万円と引き上げてやればよいだけの話だ。

④の雇用のミスマッチ解消に絡めて、給付型奨学金の創設を検討しているようで、その点は大いに賛成するし、ついでに国公立大学の授業料引下げ(現状の半額程度)にも取り組むべきだ。

しかし、雇用のミスマッチ論は、得てして、職業訓練や人材育成を絡めて論じられるケースが目立ち、いかがわしい人材派遣業者の利権を優先させた施策につながりやすいから要注意だ。

実社会において、特殊な資格を要する職業を除き、職業訓練程度でミスマッチの溝が埋まるケースなんてほとんどない。
雇用者と被雇用者とのミスマッチ(=溝)は、大概、給与を含めた労働条件の改善でしか埋められず、訓練とか教育のようなきれいごとで誤魔化せるものではない。

⑤の外国人労働者受け入れは、いまさら指摘するまでもなく、国の在り方を揺るがしかねない大問題であり、政府が恣意的に指名した民間委員の連中が諮問会議の場で軽々しく論じるべきではない。

茂木氏は、日経のインタビューに、「単に専門職に限らず、具体的にどう受け入れていくか検討を進めたい」、「移民とは違った分野での受入れのあり方を検討する」と答えており、外国人労働者は高度専門人材に限るという政府の方針を、いとも簡単に反故にしようとしている。

地方の中小企業、とりわけ、労働条件の厳しい水産加工場や製材業者、小売の現場などではパート人材の確保に苦労しているところもあり、外国人労働者の活用を口にする者もいる。

だが、実際に中小企業の経営者に聞いてみると、経営上の最優先課題は、やはり、「売上・収益の確保」や「製造・仕入コストの抑制」であり、「人手の確保」という課題の優先順位は劣後する。
人手不足は、数ある課題の一つであることは事実だが、中小企業の経営を直接的に左右するかと問われれば、“そこまで差し迫った問題とまでは言えない”というのが実状なのだ。

製造現場や売り場で働いてくれるパートが集まらないという悩みは、時給の改善や柔軟なシフト対応により相当程度解決可能な問題であり、そうした努力を忌避して、一足飛びに質の悪い外国人労働者受け入れに議論を誘導すべきではない。

茂木氏の提案から滲み出ているように、政府与党の連中が掲げる目標は極めてシンプルだ。
それは、“雇用の流動化と低賃金労働者の活用による労働コストの引下げ”であり、それ以外の何物でもない。

2016年9月14日 (水)

「財政政策大盛り+量的緩和マシ、マイナス金利抜き」

金融政策の追加緩和を巡り、日銀と財界との間でレベルの低い鍔迫り合いが起きている。

来週20~21日に日銀の金融政策決定会合が予定されているが、黒田総裁をはじめ日銀首脳部は、マイナス金利幅や国債購入額の拡大を匂わす発言を繰り返しており、市場関係者は追加緩和予測を強めている。

こうした日銀の観測気球に対して、財界からは、「マイナス金利には設備投資活性化の期待があったが、今のところ大きな効果は出ていない(榊原経団連会長)」、「これ以上の金融緩和が日本経済にとって本当にいいかどうか、疑問なしとはしない(三村日商会頭)」といった具合に、追加緩和に対する慎重論が噴出している。

ただし、財界の追加緩和慎重論の根拠は、いまひとつ明確ではない。

財界、特に経団連や日商、経済同友会のような大手企業(金融業界は除く)にとって、量的緩和政策やマイナス金利政策による大きなデメリットは生じておらず、追加緩和をやろうがやるまいが、大した影響はないはずだ。

実際に、財界首脳から追加緩和に対する愚痴は出ても、具体的にどこが気に喰わないのかにまで踏み込んだ発言はなく曖昧なままだ。

要するに、彼らの本音は、「追加緩和にうつつを抜かす暇があるなら、オレたちが大好きな労働法制などの規制緩和や構造改革を進めろ」、「第一・第二の矢を打ち過ぎて、第三の矢を忘れるようなことがあっては困る」というだけのことだから、まともに取り合う必要はなく、無視しておればよい。

さて、金融緩和政策に対する筆者の考えは、これまでもたびたび述べてきたとおり、
①量的緩和には賛成するが、金融緩和偏重主義を排して大規模な財政政策を併用すべきで、量的緩和政策はそれを支える役割に徹するべき
②デフレ下におけるマイナス金利には大した効果は期待できず、弊害ばかりが目立つ
というものである。

日銀首脳部の連中は、“マイナス金利の深堀り”の可能性に言及しており、マイナス金利幅やその適用幅の拡大に踏み込むつもりのようだ。

しかし、東京商工リサーチの調査によると、全国の銀行114行のうち63行で「総資金利ざや(資産運用利回り-資金調達コスト)」が縮小したと言われ、さらに、金融庁の試算によると、3メガ銀行の今期業績は「マイナス金利で3000億円程度の減益要因になる」と予測されているなど、マイナス金利に対する金融業界の反発やアレルギー反応は強まる一方だ。

それだけではなく、マイナス金利によって年金基金や信託財産、保険金の運用利回り低下という悪影響が現に起こっているほか、国や県が中小企業等に対する支援施策を行う際の基金事業についても、あまりに急激な運用利回りの低下により事業の原資が捻出できないという弊害が生じている。

また、マイナス金利導入以後の銀行貸出の伸び率は、H28/2~8月間で+0.6%と、導入以前の同期間(H27/2~8)の+1.1%を下回り、H28/8月単月の対前年同月比の伸び率も+2.2%とH27/8月の+3.2%を大きく下回っている。

これらを見ても、マイナス金利によって貸出が刺激されたという具体的根拠は見当たらず、一方で、金利低下による金融機関の収益や年金基金などの運用の悪化といったデメリットばかりが目に付くありさまだ。

次回の金融政策決定会合で日銀が追加緩和に踏み切るか否かは不明だが、これまでどおり「量的緩和大盛り+マイナス金利マシの財政政策抜き」の注文ばかり受けていても、使われもしないマネタリーベースが溜まるだけで何の効果も出せないだろう。

日銀は、マイナス金利幅の拡大をチラつかせて市場を恫喝する気のようだが、手の内の見え透いた脅しに易々と乗せられるような愚か者はもういない。

日銀首脳部は、金融緩和政策の立ち位置や役割に関する不見識を真摯に反省し、量的緩和の機動性を確保しつつ財政政策のサポートに徹するという政策の基軸を確立させるべきだ。

2016年9月 8日 (木)

落札率99%のどこが悪い!?

『大成建設、五輪会場99.99%落札に疑問の声』(週刊文春 9月7日(水) 、http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160907-00006535-sbunshun-pol)

「整備予算の膨張が問題となっている東京五輪の「海の森水上競技場」の入札に、専門家から疑問の声が上がっている。
ボートとカヌー・スプリントの競技会場となる「海の森水上競技場」は、東京都が整備予算を負担する恒久施設の一つ。開催都市立候補の段階では約69億円の予算だったが、開催決定後、周辺工事費用などが含まれていなかったとして約1038億円まで膨れ上がった。結局、試算を見直し、約491億円となったが、小池百合子知事は「500億円を海に捨てるようなもの」と批判している。
「海の森水上競技場」のグランドスタンド棟や水門などの整備工事は、新国立競技場を受注した大成建設を中心とするJVに決まったが、異例ずくめだった。まず入札に参加したのは大成のJVのみだった。
また、248億9863万9680円の予定価格に対し、大成のJVの入札価格は248億9832万円だった。予定価格を上回れば、入札不調となるが、わずか31万円ほど安いギリギリの価格での落札で、落札率で言えば99.99%となる。」

厚化粧のパフォーマンスおばさんが都知事に就任し、“都議会開会早々に冒頭解散宣言する”という自身の公約をほったらかしにして、ムダ遣い叩きに気勢を上げている。
マスコミの連中も、これに乗っかり、お得意の公共事業叩きに勤しんでいる。

筆者自身、東京五輪に対して積極的に支持する気にはなれない。
デフレ不況に苦しむ我が国において、官民問わず、唯一と言ってよいほど投資や消費が集中している首都圏に、これ以上の投資をする意味があるのかと疑問に思っている。

むしろ、東北復興を推進するためにも東京が遠慮して、仙台や福島、盛岡等といった東北復興五輪に位置づけて開催を検討すべきではないか。
震災によって深く傷つけられた東北の復興を旗印に、堂々と世界的なスポーツの祭典を開催することにより、反原発派の連中が垂れ流す悪意に満ちた風評被害を払拭するきっかけにもなるだろう。

しかい、かと言って、文春みたいに、厚化粧知事にしっぽを振って公共事業批判の尻馬に乗る気はまったくない。

文春の記事では、落札額のほかにも、
・技術点が60点中36点と非常に低いこと
・技術審査委員会が2回しか行なわれていないこと
・外部委員がおらず審査委員の大半が都港湾局の職員で固められていること
などを批判しているが、これらは記事を大きく見せるために後付けされた“装飾”に過ぎず、批判の的は、あくまで落札金額の多寡に向けられている。

内閣府の資料によると、公共工事の総合評価落札方式における技術点の平均点は100点満点で74~75点前後と言われているから、海の森水上競技場を落札した大林建設の技術点は確かに低いし、外部委員の数が少ないのも問題だろう。

よって、今回の件を責めるのなら、こうした技術面や審査の在り方からアプローチすべきであり、落札額云々を前面に出すのは、「公共工事=ムダ、悪」だと決めつけて、土建叩きや公務員イジメをしたいがためにする議論としか思えない。

落札率の高さ云々に文句をつけるバカ者は多いが、公共工事は「公共建築工事標準単価積算基準」等により標準的な積算単価が決まっており、公共工事に手慣れた業者なら、資材や工期など基本情報さえあれば、おおよその工事額など即座に積算できるはずで、落札率が100%近くになっても何ら不思議ではなかろう。

そもそも、予定落札価格は、官庁サイドが所定の積算根拠に基づき弾き出した価格を基にして、財務当局とのくだらぬ予算折衝を経て獲得した予算であり、ここまでなら支出を認められるという意思表示でもある。

よって、入札金額が100%を上回っているならともかく、予定価格以内に収まっているのであれば、落札率が99.99%であっても何も問題はない。

仮に、アホな土建業者が、落札率60%程度で札を入れたとしたら、むしろ、担当部局の積算自体がいい加減であったと批判されることにならないか?

公共事業悪玉論に凝り固まっているバカ者は、公共工事の落札率に目くじらを立てたがるが、官庁発注の事業においては、予定価格が公示されていない方がマイナーであり、経産省や総務省辺りの事業なら、委託事業の予定価格はことの最初からオープンにされているケースが一般的である。

よって、公募に応札する事業者は、価格競争ではなく、提案内容の良否により採否を判断されるから、落札率云々なんて、そもそも議論の俎上にも上らない。

むしろ、公共工事みたいに、落札率ばかりが話題になる方がおかしいのであって、数十年から百年にも及ぶ公共インフラ整備においては、ちまちました価格の多寡よりも、技術面での議論こそ深めるべきではないか。

目先の節約に惑わされ、国民の財産や生命を守る社会インフラの寿命を縮めるようなことがあっては、それこそ税金のムダ遣いとの誹りを免れないだろう。

2016年9月 2日 (金)

価格は企業が決めるもの、消費者にできるのは拒否権発動だけ

回転寿司、牛丼、ハンバーガーなどの外食チェーン業界が、再び、熾烈な低価格競争に足を突っ込んでいる。

先日のテレビ東京「モーニングチャージ!」でも、かっぱ寿司の平日1皿90円、吉野家が牛丼より安い豚丼やベジ丼を50円値下げ、海鮮三崎港が110円メニューを拡充、バーガーキングが490円の新セットメニューを展開といった事例が紹介されていた。
また、今日もマクドナルドが400円台のセットメニューを投入すると発表したし、以前、ユニクロが中高価格路線への転換に失敗し店頭商品の値下げに追い込まれたのも記憶に新しい。

7月の消費支出は1世帯当たり278,067円と前年同月比で実質0.5%の減少、名目0.9%の減少と5カ月連続で減少し、消費者物価指数(総合)も前年同月比マイナス0.4%、生鮮食品を除く値でマイナス0.5%と4カ月連続で下落しており、各業界が価格競争を強いられるのも無理はない。

こうした動きを目の当りにすると、地表を覆いつくす曇天のようなデフレ不況を前にした企業の力は、あまりにもか弱いものに見える。
“市場の価格は消費者が決める”、“価格形成を司るのはあくまでも消費者である”という考えに至るのも止むを得ない。

しかし、そうした見方は、“政治は主権者たる国民の意思を反映して行われる”という、現実にはあり得ない妄想や願望に似たものだと言える。

では、「価格を決めるのは、企業か、消費者か」という命題に対してどう答えるべきか?

筆者は、デフレ不況の主因は“緊縮・改革・規制緩和”の3本柱による不適切な経済政策であり、それが家計のフローやストックを棄損させ、需要力の弱体化を招き、実体経済下のマネー(=直接的に所得になるお金)が減少したせいで、企業の収益機会が奪われ、出口の見えないデフレスパイラルの様相を呈するに至った、と考えている。

こうした発想に立てば、あたかも、“消費者サイドが価格決定の主導権を握り、企業がそれに従っている”という図式が成り立ちそうなものだが、実態はそうではない。

価格形成における消費者主権論を主張する者は、
①企業(供給サイド)は、綿密なマーケティングリサーチに基づき、商品やサービスの価格を決定している(はずだ)
②企業は市場における販売動向を常にチェックし、消費者の購買意欲を見極めたうえで、価格を柔軟に変動させ在庫や廃棄リスクを回避している(はずだ)
と思い込んでいるようだが、それが真実なら、国内企業の67%が赤字に陥るはずがない。

まず、①のマーケティングや市場調査だが、こんなものを綿密にやっている企業は、ごく一部の大手企業に限られ、中小零細企業はほとんどやっていない。

自社商品の価格形成には、
A 自社もしくは専門調査機関のマーケティング調査データを基にした値付け
B 業界内の慣習や先発商品、競合商品の価格を参考にした値付け
C 社長の長年の経験や勘に基づく値付け
D 製造原価を積み上げ収益をオンした値付け
E 納入先の要求に合わせた値付け
など様々なレベルがあるが、中小零細企業に至っては、良くてBレベルで、実務上はC~Eレベルで済ませているケースが殆どだろう。

筆者が相談に乗った食品製造業のケース(プリン製造業者)でも、オーガニックだ、無添加だと妙な拘りゆえに、製造コストばかり膨らむ一方で賞味期限が極端に短くなり、造るほど赤字が増えてしまう収益性ゼロの案件があった。

中小企業の商品開発なんて、掛けられるコストに限度があるから、マーケティング調査などどだい無理な話で、ややもすると、上記の案件のように、100円の原価が掛かる商品を、気付かずに90円で売ってしまうようなケースも決して珍しいことではない。

確かに多くの企業は、商品を市場に投入する際に、消費者が購買できそうな価格帯を気にはしているし、そうあってもらいたいものだが、実際には、人材や資金力不足に加えて、様々なコスト上の制約もあり、常に需要サイドの期待に応えられるわけではない。

本来なら、消費者の需要力やニーズを見極めたうえで適正な価格を提示すべきなのだが、ヒト・モノ・カネといった経営資源の不足やコスト面の制約から、そうした原則論は蔑ろにされ、自社の都合や経営者の感に頼った価格決定が横行しているのが実態なのだ。

次に、②の市場動向に応じた価格変動についても、消費者の希望が反映されるケースは極めて稀であり、基本的には供給側の都合でなされているケースが殆どだろう。

市場には、
①価格変動の大きい生鮮食料品などの商品
②モデルチェンジのタイミングで値下がりする家電などの商品
③販売数量に関わらず殆ど価格変動がない乾物や缶詰などの商品
④ブランド価値を守るため端から価格変動を考慮していない高級時計などの商品
など、様々な価格形態が存在している。

価格形成消費者主権論者は、上記①~④のうち、値下がりして販売数量を伸ばしたほんの一部の事例を採り上げて、「ほら見ろっ、価格を決めるのは消費者様なんだ!!」と勘違いしているだけのことだ。

仮に、消費者が価格を決めているとしてみよう。

この場合、国内には1億人以上の消費者が存在しているのだから、ひとつの商品・サービスに対する消費者の価格評価は、まさに千差万別であるはずで、ラーメン一杯を取っても、“せいぜい300円くらいだな”、“いや、650円くらいは出せる”、“何言ってるんだ? 高級飛魚出汁を使ってるんだから1,200円くらいするだろっ”などなど、消費者ごとの希望価格が存在してもおかしくはない。

消費者が価格形成の主導権を握っているのなら、商品・サービスごとに、個々の希望価格に応じて異なる価格が付けられる「一物百価制度」が一般化しているはずだが、残念ながら、そんな面倒くさいものはこの世に存在しない。

もっと平たく言えば、消費者の求めに応じて柔軟に価格を変動させる、つまり、値引き販売が横行することが許されるのなら、企業は大量の在庫や廃棄に苦労せずに済むのだが、実際には、国内の食料品の廃棄コストは年間2兆円にも達すると言われている。

今回のコラムの内容をまとめると次のようになる。
①本来、消費者ニーズに応じた価格形成が成されるべきだが、実態の供給現場では、そこまで精緻な計算はなされておらず、供給サイド(企業側)の都合で価格が呈示されている
②一旦決定された価格が値下げされることはあるが、それは消費者主導で行われたものではなく、あくまで企業側の判断で行われるものだ
③消費者ごとに価格ニーズは異なるはずだが、実際には、個々のニーズに合わせた複数の値付けをすることはできず、企業側から提示された単一の価格に従うしかない
④消費者は、企業側に対して希望価格をねじ込むことは不可能で、企業が呈示した価格に納得するか、拒否するかの二者択一しか意思表示はできない

つまり、価格形成に対して消費者が有する権限は、選挙制度と同様に非常に大雑把なもので、企業が呈示した価格を受入れるか、拒否するかの選択しかない。
選挙においては、気に喰わない候補者に×印をつけることもできないし、特定の候補者に対して個々の政策のごとに〇×を訴えることもできないが、それと同じことだ。

ことの良し悪しは別として、市場の価格を決めるのは、あくまで供給サイド(企業)であり、消費者が細かくコントロールすることはできない。

消費者にできることは、購買という行為を通じて、価格水準に対し一定の意思表示をすることくらいのものだろう。

2016年8月29日 (月)

アジテーターどもの薄汚い口を封鎖せよ!

先日、ボサーッとTVを眺めていたら、テレビ朝日で「池上彰が今伝えたい実は知らない日本SP」が放映されていた。

番組の中で司会の池上氏は、日本の借金問題を取り上げて、国債発行残高が増え続ける現状を指摘し、
・やがて政府が発行する国債の買い手がいなくなる
・このままでは、遠い将来に、国民が保有する預貯金が政府によって没収される『預金封鎖』という悪夢が起きかねない
と、得意顔で警鐘を鳴らしていた。
(ひな壇に居並ぶアホ芸人どもが、池上氏に羨望の眼差しを送っていたのが印象的)

我が国の公債発行残高は、平成28年度末見込みで838兆円(地方債を除く)と、平成14年辺りと比べてほぼ倍増しているが、当時の10年物国債の利回りは1%前後であったのに、借金が倍増したにもかかわらず、直近ではマイナス0.1%にまで低下(国債信用度UP)し、国債の買い手がいなくなるどころか、発行するたびに引く手数多のありさまだ。

池上氏のように、日本の財政危機を語る際に軽々しく「預金封鎖」を口にして、国民の不安を煽り立てるバカ者が多いことを、常々腹立たしく思っている。

池上氏や彼の言説を無批判に受け容れる連中は、政府が借金返済の原資として国民の預貯金を封鎖する(この手のいかがわしい連中は、なぜか、封鎖されるのは「国民」の分だけで、企業や機関等の預貯金には手を付けないと決め付けているのが不思議なのだが…)という行為のバカバカしさに気付いていないようだ。

池上流預金封鎖シナリは、
①政府が借金の返済に行き詰まり、国民の預金を封鎖する。
 
②政府は国民から召し上げた預金を原資に、金融機関等の債権者へ借金を返済する
 
③政府から返済を受けた債権者は、それを預金主(=債権者)たる国民に返済する
という誰の腹も傷まぬループを描いて終了するだろうし、①で政府がデフォルトしたとしても、最終的にはペイオフが発動されて殆どの預金は傷つくこともない。

そもそも、円建て100%の国債の返済原資を捻り出すに当たり、大人しく円を発行するというスピーディーかつ確実な選択肢を飛び越して、敢えて預金封鎖という極めて政治的リスクの高い愚策をわざわざ選択する必要性やメリットはまったくない。(日本経済の危機を煽ろうとする明確な意図があるのなら別だが…)

巷には、財政危機や預金封鎖みたいな有りもしない呪語を操り、人々の不安を煽るバカが後を絶たない。

彼らは、昭和21年に発動した預金の引き出し制限(月額で世帯主300円までに制限)や新円切替(旧円の強制通用力を喪失)を例に挙げて、膨大な借金の返済に困った政府が、良からぬことを企んでいるのではないか、と戦々恐々としているから、失笑するしかない。

預金の引き出し制限令(一定額は引き出せるのだから、これを「預金封鎖」呼ばわりするのは間違い)については、先に述べたとおり、政府が保有する通貨発行権により、「円」という通貨を発行し返済すればよいだけのことだ。
そうした賢策を無視して、敢えて国民や企業の猛反発を喰らうことが500%明らかな愚策を選択する必要性なんてどこにもない。

また、戦後の新円切替は、旧円と新円とが1:1のレートで交換されており、それによって生じたはずの具体的な弊害に関する記述も見当たらない。

日銀のサイトで確認すると、昭和20年代初頭に発行された貨幣(5円黄銅貨幣)や紙幣(1円券)が有効であることがきちんと記されており、現在通用している通貨の通用力が、ある日を境にして突然失われる事態など到底ありえない。

財政破綻論を煽り立てるバカ者は、さらに、政府のインフレターゲット政策(=的を外してばかりの黒田バズーカ砲)を採り上げて、国債をチャラにするための猛烈なインフレを企んでいるのではないかと疑っているようだが、バカも休み休み言えと言っておきたい。

例えば、人為的にインフレを起こして債務を相対的に縮小させ、我が国の国債発行残高の対GDP比率(200%超)を他の先進国並みに100%程度に収めようとするつもりなら、少なくとも100%程度のインフレが必要になるだろう。
しかし、現実に黒田総裁が掲げるインフレ率の目標は、たったの2%に過ぎず、それすら達成できずに、日銀はコミットメントのリスケジュールを繰り返さざるを得ない惨状なのだが…

日本破綻論を振り撒く扇動家は、小さな心配の種を敢えて大きく見せることによって衆目を惹きつけ、都合よく、改革や雇用流動化、外国移民の受入れに話を持っていこうとするから極めて悪質なのだが、こうした暴論がマスメディアを通じて世間にバラ撒かれていることに強い危惧を覚えている。

2016年8月25日 (木)

「量的拡大神話」から抜け切れない愚か者

世の中や社会では、「目的」と「手段」の混同や入れ替わりが起こってしまうことは、さして珍しくはない。
社会の良化を願って政治の世界を志していた者が、いつの間にか、政治家でいることに汲々としたり、画期的なビッグプロジェクトの立ち上げを夢見ていた者がドロドロの社内政治に没頭したりといった事例など枚挙に暇がない。

これを経済の世界に敷衍すれば、さしずめ、“国民生活の向上のための経済成長”という「目的」が蔑ろにされ、“改革とか生産性向上”といった類いのどうでもよい「手段」の方が我が物顔で跋扈している昨今の風潮がピタリと当て嵌まる。

こうした“絶対的改革推進主義者”が好んで引き合いに出すのが「潜在成長率」だ。

彼らは、我が国の潜在成長率が日銀推計で0.2%、内閣府推計で0.4%(2015年度推計)と他の先進国と比較して著しく低いことを盾に、労働市場の縮小や設備投資の停滞による供給制約がある条件下における財政支出は高インフレを招くだけと主張し、財政政策のようなカンフル剤に頼るのは危険で、構造改革による生産性向上しかないと念仏を唱え続けている。

例えば、経産省の「通商白書2016」には「潜在成長率は、現在の経済構造を前提にした一国経済の供給力として捉えられ、いわば中期的に持続可能な経済の成長軌道と言える。したがって、経済成長は、この潜在成長率を高めることに他ならない」と記され、また、2009年9月日銀レビュー“潜在成長率の各種推計法と留意点”には、「長い目でみれば、一国の成長率は供給能力によって規定される」との記述もあり、『経済成長=供給能力=潜在成長率』という発想で物事を捉えているのが解かる。

筆者も、国力を担保するのは一国内に存在する生産・サービス等の供給力であると考えるが、改革主義者のように、“供給力さえ上げれば経済成長が必ず達成される”とは思っていない。
彼らの妄想は、エンジンとタイヤさえ付いていれば車は動くというバカな考えと同じで、燃料や運転手なしに車が前進することはない。

供給力は、他国との競争優位性を保ち経済成長するための基礎的条件であることに異論はないが、決して自律的な存在ではなく、「需要力」なしに、その効果を発揮し得ない他律的な存在だと理解している。

論者の中には、スマートフォンなどの事例を挙げて、革新的な製品が新たな需要を生み出してきたと主張する者もいるが、それはミクロ経済の一部を都合よく切り取った見方に過ぎない。

緊縮的な経済運営によりデフレ化した実体経済下では、スマホが刈り取った分の需要は、なにも新たに発生したものではなく、これまで洋服や旅行などに消費されていた需要が、たまたま、そちらに廻されただけなのだ。

要するに、マクロ全体で俯瞰すれば、洋服や旅行からスマホへの代替消費が起こっただけに過ぎない、ということである。

いくら革新的な製品やサービスが世に出現しても、それらを消費するための通貨が自動的に発行されるわけではないから、政府が経済政策を以って実体経済に通貨を供給してやらぬ限り、パイの奪い合いが発生するだけで終わってしまう。

つまり、供給が需要を生み出すという考え方は、マクロ的視点から見れば不完全な主張に過ぎず、「需要が供給を刺激し成長させることはできるが、需要のパイが一定である以上、供給が需要を拡大させることはできない」というのが正確だろう。


また、何かと潜在成長率を持ち出す連中に限って、少子高齢化に伴う生産年齢人口と内需の縮小を供給制約や需要制約の言い訳にしたがるものだが、彼らは、「日本の産業構造は労働集約型産業を基軸とし、需要サイドは“胃袋経済論(=需要力は人口に正比例する)”が支配している」というバカな発想から抜け切れない。

彼らの主張は、生産能力が乏しく供給されるモノやサービスの付加価値が著しく低い時代にしか通用しない旧式の発想で、どこかの田舎の食堂みたいに、“モノを多く作るには人手が必要だ”、“胃袋の数が減るとモノが売れない”と思い込んでいる。

絶対的改革推進主義者は、生産性とか競争力、付加価値みたいな言葉が好きな割に、発想の根本の部分で「質より量」に固執するから不思議なものだ。

「労働力の制約があるから、働き方改革(=雇用の流動化と移民の促進)が必要だ」、「全要素生産性を向上させるには、構造改革と規制緩和によるイノベーション促進が欠かせない」という妄想は、“とにかく生産量を増やさねば話が前に進まない”という質の向上を無視した量の確保論が前提になっている。

しかし、生産性向上(=潜在成長率UP)のためには、生産数量の拡大にあくせくする(量の拡大)よりも、分子となる付加価値UPを実現する方(質の向上)が遥かに劇的な効果をもたらすものだ。
利益率の低い饅頭を1個50円でバルク売りするよりも、利益率の高いフルーツタルトを1カット500円で売り行列を作らせる方が、付加価値がアップし、人数を掛けずに生産性を高めることもできる。

大量に製造して大量に売り捌く時代はとうの昔に終わり、いまや収益率の高い製品やサービスを適正価格で提供する時代にシフトしたのだから、“労働人口が少ないからモノを造れない”とか“少子高齢化の世の中だからモノが売れない”といった見苦しい言い訳は通用しない。

量ではなく質を以って国全体で創造する付加価値を創り上げていく時代になったのだから、高度な供給能力を既に有している我が国においては、質の高い製品やサービスを購入できるだけの通貨を実体経済に供給してやればよいだけだ。

つまり、供給体制は十二分に整っているのだから、それをフル稼働させるための需要力さえつけてやればよい、性能の良い自動車は用意されているから後はそれを走らせるためのガソリンを入れてやればよい、というだけの話であり、人が足りないとか、胃袋が減ったなんていう次元の低い悩みに拘泥するのは止めてもらいたい。

先に紹介した通商白書では、「急速な少子・高齢化が見込まれる我が国が、今後持続的な成長軌道を維持するためには、全要素生産性の向上、すなわち不断のイノベーションによって経済全体の効率性を向上させることが不可欠である」と断じているが、それはまったくの誤りで、「我が国が持続的な成長軌道を維持するのに必要なのは、国富の源泉たる供給力を維持向上させるために不可欠な燃料となる需要力、すなわち不断のGovernment spending(財政支出)である」というのが正解だろう。

«省益ファーストの怠け癖を糺すべき

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