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2009年4月

2009年4月25日 (土)

選挙制度の重み

 最近、国会議員の世襲に対する規制の適否についての議論が盛り上がっている。

 同一選挙区からの世襲議員の出馬を制限するなど、一定の規制を唱える者がいる一方で、渦中の世襲議員からは、“憲法が保障する職業選択の自由に抵触する”、“選挙民の判断を尊重すべき”などと卑しい言い訳が聞こえてくる。

 日本には600万近くの事業所(つまり会社)があり、6千万人以上の人が働いている。その職業も、大きくはサラリーマンとそれ以外に大別できるが、細かく分ければ数え切れないほどあるはず。

 そのあまたある職業の中で、例えば国会議員の息子が、議員というたかが1つの職業を選択できないとしても、それに何の不都合があるのだろうか。国会議員がだめなら地方議員になる手もあるし、官僚になることだってできるはずだ。国会議員の(おそらく)ダメ息子による世襲によって、その選挙区内で政治家を志す人がいるとすれば、世襲の黙認は当該選挙区在住者から“国会議員”という職業を選択する自由を事実上奪っていることになる。

 自分に都合の良い時だけ憲法遵守を声高に叫んでいるが、彼らは、リストラや派遣切り、就職難などによって不十分な生活水準を強いられている数多くの人々に対して憲法第25条(生存権)を適用して救いの手を差し伸べようなどとは間違っても言わない。

 今回の世襲騒動以前に、多くの国民は政治家のレベルの低さに呆れ果てている。

 そろそろ、民主主義という理想を体現できていない現行の選挙制度の廃止を検討してはどうだろうか。マスコミの宣伝によって品性の低いタレント議員や世襲議員が楽々と当選する現状に大きな危惧を覚える。彼らは、口を揃えて“改革が必要だ”と念仏を唱えるが、結局は賃金や権益のカットによる国民の生活水準の切り下げにしかならない。かといって、政治家のレベルは国民のレベルに比例するなどと斜に構える傍観者にも同意できない。

 カネと時間や労力の割に無能な当選者しか生み出さない選挙制度を廃止して、裁判員制度と同様に、国民や住民から無作為で議員を抽出してはどうだろうか。経済、年金、介護、教育、福祉、外交、防衛、科学技術、産業育成、農業、漁業などいくつかの部会制とし、各部会で50名程度、全体の統括委員会的なもの(=内閣)を設けて数十名−100名程度とする。首相は議員の互選による。抽出された議員の任期は1期3−4年限りとし、年報酬は1000万円ほど、任期完了後は以前の職場に復帰できることを保証する、各人ごとの秘書は付与せず部会ごとに秘書的なスタッフを10−20名程度設置するなどといった具合だ。

 これにより、派閥が解消されること、選挙対策が不要になること、国民が直接政治に参加できること、政教分離が進む(宗教団体の組織的な政党活動ができなくなるという意味)ことなどのメリットがある。

 一方で、民主主義の放棄につながらないか、専門知識を持った政治家がいなくなる、素性の怪しい者が抽出され議員の質が低下しかねない、官僚に政治が支配される、選挙による信任がないため議員の価値が低下する等々数多くの批判があると思うが、そもそも資金力、社会的な地位、知名度、地盤などがなければ当選はおろか立候補すらおぼつかない現行制度よりはマシなものになるのではないか。

2009年4月 8日 (水)

魚がいない

 「単に魚を与えるのではなく、魚の獲り方を教えることが大切だ。」政府から出された追加経済対策に対する某大手新聞の経済コラムにこんなことが書いてあった。要するに、バラマキを止めよ、一時的な痛み止めよりも長期的な成長戦略を描くべきといった趣旨と思われる。

 ますます悪化する経済状況を経て、さすがに“痛みに耐えて構造改革を”といった発言は聞かれなくなったものの、肝心の経済対策の話になると、マスコミを中心に、バラマキだ、財政危機だ、税金の無駄遣いを正すのが先だなどと、すぐに足を引っ張ろうとする意見が出てくる。こういった世論を意識する政治家や官僚層の発想もこれに倣うのか、出てくる経済対策も、いかにもチマチマしたものばかりで、自分たちに役立つそうな相続対策にはすぐに飛びつくが、広く一般に波及しそうな公共事業の拡大や定率減税、子育て支援、失業対策などには及び腰な印象だ。また、経済対策を時限的なものにしようとするために、将来的な経済状況の好転に対する期待感を描けない。

 雑誌やテレビの経済関連記事では、いまだに、経済危機の震源地であるアメリカやヨーロッパ以上に日本の経済が落ち込んだ原因を分析しようとする記事が多い。カジノ賭博に精を出したアメリカはともかく、ものづくりに真面目に注力してきた日本がなぜ といった趣旨の意見が典型的なものだ。だが、バブル崩壊以降、ダラダラと続いてきた不況状態を放置して、アメリカや中国の需要頼みの輸出経済で一息ついていただけなのだから、日本にとって最大の消費者(=顧客)であるアメリカの景気が落ち込めば、大きな打撃を受けるのは当然のこと。バブル以前は、円高などによって輸出が阻害されても、旺盛な国内需要がこれをカバーし、次の経済成長につなげることが出来たのだ。いくら良いものを造っても、それを買ってくれる人がいなければ何の意味もない。大切なのは、買ってくれる人が国内にいるのか、海外にいるのかという点である。輸出立国などという幻想が信じられている日本でも輸出のGDPに占める割合はせいぜい10-20%程度で、当然国内消費が圧倒的に多く、この部分が活性化することなく経済的な回復はありえない。

 大黒柱である国内需要が大きく腐ってしまったことが、今回の経済危機でいやというほど判ったはずなのに、これを回復させようとする動きが鈍い。国内需要=国民の消費が落ち込むのは、十分な所得を得られないことにあり、経済対策の根幹は、この所得を回復する、または、所得を得る機会を創出することに尽きる。

 冒頭のコラムを書いた記者は、世間知らずなのだろう。いまの世の中には、まさに獲るべき“魚”そのものがいないのだ。魚のいない川で一生懸命獲り方を教えても何の役に立つのだろうか?

 先ずは“魚”を放流しなければならないことは、子どもでも判る理屈だと思う。

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