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2011年4月

2011年4月25日 (月)

嫌消費世代なんてどこにもいない

 デフレを賛美、あるいは容認する者は、「日本の消費構造が変わった」とか「消費者がモノを大切に扱うようになり消費に対する意識が変わった」などという妄言を流布しがちだ。また、この妄言は、“モッタイナイ”とか“エコ”などといった類のいかがわしいキーワードとセット販売されるのが通例だ。そして、モノを大切に使うというもっともらしい建て前を隠れ蓑にして、デフレで消費が低迷する厳しい現実から国民の目を逸らさせようとするし、国民もこの手の詐欺まがいの誘導に見事に引っ掛かるから情けない。
 だが、実際には日本の消費構造なんて何も変わっていないし、消費者はお金さえあれば欲しいものはたくさんあるのが現実だろう。
 まずは内閣府のHPにある「主要耐久消費財の買替え状況(一般世帯)」(平成23年3月現在)というデータを参照していただきたい。 

(※詳細はこちら)http://www.esri.cao.go.jp/jp/stat/shouhi/shouhi.html
 この表は、バブル崩壊直後の平成4年からデフレ不況でフラフラになっている平成22年までの耐久消費財に対する消費者の買い替え理由や意識を調査したものだ。
 この図から判るのは、まず、多くの品目で平均使用年数が1-2年伸びている(思ったほどには伸びていないが…)ことで、所得が低迷する中で現有の家電や自動車を長く使っているといういわば当たり前の結果が表れている。
 一方で、本来なら増えてしかるべき「故障」による買い替えの項目が増えていないばかりかむしろ減少している品目が多い点だ。多くの人が家電や自動車をケチケチと長く使っているなら故障するまで使い続けるのが自然な流れで、「上位品目」への買い替えなんて贅沢はしていられないはずだが、現実には、エコカー減税やエコポイント制度などの後押しがあったとはいえ、多くの品目で消費者が上位品目へのステップアップという積極的な理由で買い替えに踏み切っているのは注目に値する。
 つまり、多くの消費者は決して消費に対して消極的になっている訳ではなく、常によりよいものを買ってみたいという欲求を抱えているということだ。考えてみれば当たり前のことである。死にかけの老人でもあるまいし、新型の機種や新製品が出れば買い替えたいと思うのは当然すぎるほど当然のことだ。家電がひととおり揃ってしまえば、あとは何もいらないなんて言うのは仙人だけで、そんなことはあり得ないし、仮にあったとすればメーカーの努力が無になってしまう。
 巷には、若者の消費離れ論なるバカ論が幅を利かせているが、大間違いだと言える。以前のコラムにも述べたが、若者(を含む多くの国民)は消費に興味を失ってなどいない。単に財布にカネが入っていない、もしくはこれから先も入ってくるアテがないから使いたくとも使えないだけだ。
 長引くデフレ不況の要因を需要不足にあるとする認識は、最近一般化してきたように思う。デフレギャップの存在も否定されていないし、不況による需要の落ち込みが問題との文言もよく使われており、以前(構造改革教全盛時代)のように供給サイド一辺倒の論説は影を潜めている。
 しかし、需要不足が経済成長のネックという正しい認識や分析がありながらも、何故かいつもその対処法や結論は、増税とか行政改革とか財政再建あるいはTPP(開国?)なんていう見当違いの方向に行ってしまう。
一流の腕前を自負する料理人が最高の食材を使って最悪の料理を作ってしまうことは、現実世界にはよくあることだが、こと経済政策に限っては厳禁だ。なぜなら経済政策は、世の中のあらゆる分野(科学、文教、医療、福祉、防衛、文化、商工業…etc)の基盤となる最重要課題だからである。ここが腐ってしまえば、国体を揺るがしかねない大事態になる。
 世に蔓延る財政再建マニアを抑え込まないと、日本は永遠に“明けない夜”を続けることになる。いまの若者が、世間知らずの知識人から、勝手に「嫌消費世代」呼ばわりされぬよう早急なデフレ脱却が望まれる。
 来もしない過度なインフレに怯えることなく、積極的な財政政策と金融政策を長期かつ大規模に行い、雇用の拡大と所得向上を図るべきだ。

2011年4月13日 (水)

財政支出が嫌いな6つの理由

 TVも新聞も雑誌も口を開けば東電いじめの原発の話題ばかり(その割に東京から離れようとしないが…)で、大震災からの復興財源の話が一向に具体化しない。一部に、日銀の国債引き受けを主張する議員もいるようだが、財務大臣と経済財政担当大臣の財政破綻教コンビを筆頭に、あろうことか野党第一党をも巻き込んで火消しに躍起になっている。このままでは、日銀の国債引き受け(直接引き受け)や政府紙幣発行といった前向きな政策を採用される可能性は極めて低い。
 共同通信社の世論調査でも六割以上の国民が復興増税におおむね賛意を示しているという情けないデータもある。復興財源の捻出に既存予算の組み替えで済めばよい方で、最悪消費税(法人税や相続税ではなく、なぜか消費税)の増税となる可能性が高い。長引く不況で弱り果てている時に戦後最大の自然災害という重荷を背負わされた状態で、国民はどういう訳か最悪の選択をしようとしている。これまでの経過を見ると、マスコミや一部エコノミストらによる財政破綻教の布教活動は、見事なまでに奏効したようだ。
 需要不足によるデフレ不況下で増税や財政支出の削減、雇用の流動化等といった消費減退政策を積極的に支持する国民は、安土桃山時代や江戸時代の隠れキリシタンそのものである。自らが信じた教義のためなら拷問(=失業や生活苦)に耐えるというけなげな姿勢は、一日中ボサーッとワイドショーや新聞を眺めている国民へのマスコミらによる熱心な布教活動の賜物なのだろう。

 江戸時代のデフレ推進政策を三大改革と崇めたり、昭和恐慌後の日本を更なる苦境に陥れた浜口・井上コンビを「男子の本懐」と祭り上げたり、構造改革と銘打った逆噴射政策によりデフレ不況を不動のものとした小泉・竹中バカコンビを熱狂的に支持したりと自虐的な経済政策を好む国民であり、財政支出や国債発行はトコトン毛嫌いされる。ましてや政府紙幣発行などもってのほかで、口の端に乗せるのも汚らわしい(もしくはそもそも存在を知らない)と思っているだろう。皆が大好きな坂本竜馬や維新の志士たちが明治政府立ち上げ時の財源に政府紙幣を多いに活用したなんて史実を聞いたら、きっと嫌な顔をするのではないか。
 財政支出、とりわけ積極的な財政支出を嫌う理由は次のようなものだ。
① 日本は既に多額の借金を抱えており、これ以上増やせない。
② 日銀による国債に直接引き受けや政府紙幣の発行は市場や諸外国から放漫財政とみなされ、円の信認を失う(+国債の格付けが下がる)し、日銀の独立性が損なわれる。
③ 放漫財政はハイパーインフレを招く。
④ 国債や円は暴落し、金利が上昇する。結果として国債の利払い負担が増え財政がさらに悪化する。
⑤ 財政支出に頼るような生産性の低い企業が温存され、産業構造の転換が遅れる。
⑥ 国に頼り切るような甘えた企業や人材が生き残るのは不公平だ。

 まず、①について、国債の問題を語る際に重要なのは、発行残高の絶対額ではなく残高が積み上がった割に名目GDPが伸びていない、むしろ減っている(2000年/502兆円→2010年/477兆円)という点にある。これは、政官一体となった財政緊縮ムードの中で単年度予算の国債費を除く真水予算を切り詰めてきた(特に公共事業費)ことに起因するものだ。無駄な支出の絞り込みや会計検査の過度な厳格化により積極的な財政支出が控えられ、支出範囲の柔軟性も損なわれ、公から民への資金の流れが徐々に狭まってしまった。結果として地方の中小企業から順に経営が行き詰まり、雇用や給与が削減され消費が衰退し税収が下がる。社会保障費が増える中で税収が増えないから更に赤字国債に発行が必要になるといった悪循環を繰り返した結果なのだ。出すべきカネを惜しんだことによる財政運営のミスである。戦力の逐次投入を繰り返して部隊を全滅させる愚を繰り返したにすぎない。
 幸い国債の9割以上が内国債で世界有数の生産力や勤勉な国民性を持つという恵まれた環境にあるのだから、積極的な財政支出により国民の経済成長期待を刺激すればよい。国債とは国民の財産でもあるのだから、その残高ばかりに目を奪われる必要はない。国内にある莫大な生産力をフルに活用できれば自然に名目GDPや税収も上がり、国債残高とのバンランスも取れてくるだろう。
 
 次に②③④について、確かに当初は市場関係者の混乱を招くかもしれず、円の信認云々は別として(先の格付け引き下げや大震災の折もなぜか円の信認は上昇したが…)、国債の格付けは下げられるかもしれない。しかし、それは、あくまで財政支出の使途が、既存の赤字補填やPBの維持といった必要最低限かつ消極的なものに止まる場合である。大震災からの復興を織り込んだ日本全体の国土・産業復興計画といった前向きな投資という題目を設定し、必要十分な量の資金を惜しげもなく投入することが肝要だ。国内には数百万人規模の潜在失業者がおり、既述のとおり十分な生産力も備わっていることからも極度なインフレを招く恐れは殆どない。世界的に生産力は極度に発達した現代では、発展途上国ならいざ知らず、まともな先進国で年に数10%を超えるようなインフレを起こすこと自体が難しい。(そもそも格付け会社のスキル自体が怪しいのだが…)
 ましてや、十分な財政支出により国内の購買力が上がり(海外諸国にとっても商機が増える)、それが更なる生産力強化をもたらす(国力が上昇する)のだから、国債や円が暴落するする恐れもない。ディマンドプル型の経済成長に伴うある程度の金利上昇はむしろ好ましいもので、金融機関の経営基盤も強化されるし、国民の利子所得も増えるだろう。金利上昇による国債の利払い負担も増加するだろうが、経済活動の活発化による税収増加もあるし、政府紙幣発行による国債や利払い基金を別建てで積み上げておく方法もある。

 最後の⑤⑥に至っては、もはや思想の問題だろう。自分だけが努力している、自分だけが得すればよい、他人が幸せになるのは我慢できないなどといった卑小な精神の持ち主はいつの時代にもいるものだ。生産性が低かろうが高かろうが、そこで働く従業員にとっては余計なお世話である。国中の企業が全て生産性の高い企業ばかりなんて夢物語はあり得ない。勝者が生まれるのは敗者のおかげである。生産性の高い(と自慢する)企業とて、対極に生産性の低い企業の存在があればこそ高い収益を上げられるのだ。誰かの損失がなければ誰かの収益は生まれない。生産性が低かろうが、公共事業に寄り掛かっていようが、キチンと売上さえ立てば、経済にとって立派な消費主体となり得るのだ。そこが肝心なところだ。
 
 経済は聖人ばかりでは成り立たない。

2011年4月 9日 (土)

文句をつける相手が違う

 東日本大震災から4週間が経過し、様々なことが浮き彫りになってきた。

 国内有数のリアス式海岸を有する岩手県では、その地形ゆえに30メートルを超す津波に襲われた地域もあり大きな被害を蒙ったが、海岸線が比較的平坦な宮城県から茨城気県北部でも大きな津波被害が認められ、今回にの地震がいかに想像を絶する規模であったかが判る。

 同じ岩手県内でも、釜石市や宮古市では頑丈な堤防が津波に抗しきれずに大きな被害を受けたが、県北部にある普代村では防潮堤と水門が村を守ったという報告がある。また、宮城県でも、東松島市で800名を超える死者を出す一方で、松島市では死者が1名と被害状況に大きな差異がある。松島市では、湾の入り口に点在する松島の島々が天然の防壁となったと言われている。

 今回の痛ましい事態を次代への教訓として活かすことが大切だ。一部の公共事業嫌悪派からは、堤防など無駄だといった暴論が出ているが、耳を貸す価値はない。彼らは、ただ公共工事をやりたくないだけなのだ。一本の堤防で不十分なら、配置を変えて複数設置する手もあるし、先の松島の例を見れば直線型ではなく、円形や紡錘形の堤防も効果的かもしれない。ともかく、不幸にして起こってしまった出来事から少しでも役立つことを学びとらなければならない。

 

 TVや新聞では、東電や原子力保安院が袋叩き状態になっている。どうみても東電は震災の被害者サイドなのに、福島第一原発の放射能漏れ事故(厳密には事故とは言えない)以来、その一挙手一頭足すべてに文句をつけられている。かつての雪印やミートホープ状態である。この度を越した東電いじめは、農家や水産業者などに風評被害をもたらし、外国人の過剰な放射能アレルギーを助長している。開幕を待たずにアメリカに帰ってしまいクビになった巨人の新外国人みたいなバカがいたかと思えば、放射能の雨が降るのを心配して国中の学校を休校してしまう韓国みたいな幼稚な国もある。たいがいの国では、放射能よりも治安状態の方がよっぽどリスクが高いだろうに。よほど変わり者が多いのだろう。

 相変わらずバカマスコミが、東電は隠蔽体質だの、対処が後手後手だとの喚いている。また、知ったかぶりの学者が、貞観地震の例を挙げて数年前に安全対策の不備を指摘していたなどと後出しジャンケン気味の発言をしている。こういう事態が起こってしまえば、後講釈でいくらでも立派なことが言えるものだ。あらゆる事態を想定して、万全の安全対策をとるべしと言うのは簡単だが、その対策を実行に移すとなると簡単にはいかないことは、企業に勤めた経験のあるものなら容易に判るはずだ。リスクが予想されるからと言って、すぐにそれに対応できるだけの設備や体制を整えることなど、予算の制約もあり現実には難しい。いかな安全性を問われる原発だとて例外ではない。安全性云々と言っても、所詮予算制約の中での話にすぎない。これは東電だけではなく、今回の大震災で操業に影響が出たり原料・部品などの供給が滞っている全ての企業に言えることだ。事前にリスクを予想して適切な対策を打たれておれば、そういった遅滞は生じないはずだが、実際には多くの企業が右往左往している。今回の事態が東電だけではなく殆ど全ての企業にとって、まさに“想定外”だったのだ。なのに、東電だけを標的に常軌を逸した非難を続けるのは全くのお門違いであり、今すぐ止めるべきだ。マスコミも“いま私たちにできることを考えましょう”なんて美辞麗句(どうせやる気もない)を並べる暇があれば、黙って募金していろと言いたい。

 先ほどの貞観地震が起こったのは平安時代の869年で、いまから約1,100年前だ。まさに1,000年に一度の大地震であり、これを想定して安全策を万全に(ただし予算の範囲内で)、なんていうのは単なる後講釈の暴論である。

 

 頭の悪いマスコミだけでなく、多くの国民が口を開けば東電けなしに余念がないが、いくら文句を言っても、現実には放射能漏れは止められない。本当に放射能漏れが心配なら、余計な文句を言わずに、それを止めるスキルを持った東電やその関係会社(協力会社)などに全てを任せるべきだ。毎日のように理不尽な非難に晒されると、委縮するあまりに普段ならなんともないようなことさえミスしてしまう。いまの東電や原子力保安院は、焦りもあるのか冷静さを失った状態にある。原発問題を早期に収拾するためには、彼らの力が必要であり、十分に能力を発揮できるようフリーハンドで事態に対処できるような環境を与えるべきだ。

  日本のエネルギー供給割合は、2008年度(資源エネルギー庁資料)で石油19.5%・石炭15.7%・天然ガス25.1%・原子力20.1%・揚水10.7%・新エネ8.9%と非常にバランスのとれた構成になっている。アメリカやドイツでは石炭の割合が50%ほど、同じく中国では8割近くを占め、フランスでは原子力が8割近いなど、各国のエネルギー構成には結構偏りがある。

 日本では、原子力は放射能漏れが心配だと非難され、火力発電をすればCO2が増えると非難され、水力発電をしようとすればダムを造るなと言われ、風力発電機を回すと低周波が体に悪いとか鳥がぶつかるとイチャモンをつけられ、挙句の果てには隣家の太陽光発電のパネルが眩しいと苦情が出る。まことに自分勝手な国民だ。

 さんざん原発に文句をつけても、いざ原発が止まってしまうとたちまち国民生活が大混乱に陥るのは明らかだ。実際に計画停電程度で東京はバタバタしている。

 将来的にはメタンハイドレードなどといった新たなエネルギー源の開発が望まれるが、操業レベルに達するのは数十年かかるだろう。それならば、原発を止めるなどといった拙速な議論ではなく、今回の事故を教訓にした安全対策に注力した原発稼働に努めることの方がはるかに有益だろう。

  政府も東電を悪者にして事態から逃げ回るのではなく、復興財源の確保と復興を含めた国土再生計画を立案・実行すべきだ。いまだに思い切った復興財源を提示できずに、ぐずぐずと増税や予算組み替え論をくすぶらせているのは情けない。

 日銀の国債引き受けを日銀総裁が拒むようなら、総裁の首を挿げ替えてもよいし、財政支出を拒む大臣(財務大臣や経済財政担当大臣のバカコンビ)を更迭してもよい。事態を理解できないような低能な人材を要職に就けておけるような余裕はない。

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