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2011年5月

2011年5月29日 (日)

本当のモラルとは

 先日、出張先で読んだ地元紙に、地震や津波災害への原発の安全対策について千年に一度の規模の大地震や大津波に備えるべきという専門家の意見が掲載されていた。当地で江戸時代に起こった巨大地震により多数の被害者が出たという記録(古文書の走り書き)があったことを基に、国内の原発の安全対策の甘さを指摘するという趣旨の記事だった。
 世間的に東電や原子力保安院に文句が言いやすいためか、こういった後講釈的、あるいは片手落ちの批判が新聞や雑誌に氾濫している。
 この手の幼稚な批判をする者は、あらゆる災害を想定した万全の安全対策がもたらす莫大なコストを誰が負担するのかという現実問題が見えていない。そういったコストは、当然、財政負担か電気料金上乗せで広く国民が負担することになるが、実際には今回の東電叩き騒ぎでも判るように、電気料金値上げなどもってのほかという雰囲気で、ましてや財政支出なんて、いつものように国の借金云々にブロックされて到底やれるはずがない。
 訳知り顔で、想定外なんて言い訳だなどと東電に言いがかりをつける輩は、安全対策の想定基準(震度●、津波の高さ●mまで)を具体的に示すこと。それに必要な負担の支出(財政支出を含む)に文句をつけないことだ。いちゃもんばかり付けられたうえに、必要なカネは出さないと来ては電力各社も手の打ちようがない。
 そもそも、毎日のように度を越したレベルで原発への安全対策は口やかましく言われるが、実際に今回の震災で原発事故による直接の死者はいない。
 一方、津波や地震による直接の被害は、3万人近くの死者・行方不明者、10万人もの避難者、20-30兆円ともいわれる損害額など、件の原発とは比べものにならないくらい莫大だ。なのに、政府もマスコミも多くの国民も、関心を寄せたり非難の矛先を向けたりするのはなぜか原発に絡むことばかり。
 今回の大震災の被害を痛み、心底から今後の震災や津波対策を講じようとするならば、防波堤の強化や避難所の増設、海岸沿いにあるあらゆる施設の移設、通信設備の増強、食料の確保、避難マニュアルの策定、被災者に対する公的支援、都市計画そのものの見直しなど莫大な公共投資を必要とする作業に心血を注ぐことこそが対策の本丸と言えるだろう。だが、マスコミをはじめとしてこういった投資がぜひ必要だという声が一向に出てこないのはなぜか。
 原発問題なんて本当の被害はせいぜい風評被害等に過ぎず、直接的な被害の大半は大津波によるものであることは明白だ。ならば、原発云々よりも津波や地震対策により多くの資源や資金を投じることこそが重要になる。これらに必要な公共投資は実際に起きた被害に基づく対策であり極めて有意性が高い。
 マスコミや政府、それに多くの国民が原発対策を声高に叫んだり、その結果として放射能絡みの風評被害を巻き散らかしたりしているのは、単に原発が嫌いだからという単純なイデオロギーの問題だ。彼らは、自分が嫌いな公共事業を誘発するようなものは、たとえそれが必要な対策であっても敢えて触れようとはしない。だからこそ、たまたま起こった原発問題に対して、これ幸いとばかりにヒステリックな非難を浴びせて、復興事業から目を逸らそうとしている。
 いま重要なのは、今回の災害を無駄にせず次に起こる同様の災害に対して具体的な対策を講じることだ。それは原発問題に後講釈で文句をつけるという低レベルなことではなく、津波や地震の被害を最小限に抑えるにはどうすべきかといった当たり前かつ具体的な対策を実行することだ。復興事業に伴う公共事業を避ける逃げ道として東電をスケープゴートにすることは、被災者の生活再建から目を逸らそうとする卑しい行為である。
 被災者への財政支援を、過去の被災者とのバランスを欠きモラルハザードを招くものと批判する珍妙な意見も多くあるようだが、被災者の生活基盤を何とかしたい、救援の手を差し伸べようという人間としてごく当たり前の感情を持ち合わせていないような輩こそ“モラルハザード”そのものなのではないか。

2011年5月25日 (水)

『冷房』は控えめに!

 東日本大震災の被災地の復興をそっちのけにしたバカバカしい議論が熱を帯びている。TVや新聞・雑誌に溢れ返っている “復興財源ねん出のための増税”、“国家公務員給与の削減”、“原発の稼働停止”の三バカ議論のことである。
 このうち公務員の給与削減は、5-10%の削減で組合も了承し既に決着済みで、公務員に異常な嫉妬心を持つマスコミや多くの国民にとってまさに溜飲が下がる思いだろう。国家公務員の給与総額は年額で60兆円(みなし公務員含む)とも言われているが、今回の給与削減により単純計算で3-6兆円の消費抑制圧力がかかることになり、需要不足に更に拍車がかかることになろう。この莫大な消費や需要の消失を一体誰が補填するのだろうか。これは日本経済にとって全くの逆噴射政策と言え、デフレ脱却を目指す国家が採るべき手段とは到底思えない。
 こういった給与引き下げや諸手当の削減、復興財源確保のための増税論議などといった「痛みの分かち合い型」の行動は、いかにも日本人が好きそうな行動だが、実際の支援に役立たないばかりか支援を邪魔する結果にしかならない。
 今回の大震災により、被災地の住民は「人命」、「財産(ストック)」、「雇用(フロー)」という3つ大きな命綱を失った。「人命」ばかりは如何ともしがたいが、少なくとも「財産」の原状回復くらいは国家の資力で問題なく補償できる。一世帯当たり家屋や家財・車両などの補償費および当面の生活費として3,500~4,000万円程度の補償を早急に行うべきだ。阪神大震災で被災者を見殺しにした愚行を繰り返してはならない。そのために管理通貨制度という柔軟な通貨供給制度が整備されているのではないか。「雇用」の回復についても被災企業の債務補填や内需拡大策の実行による取引の優先斡旋などによってある程度は下支え可能で、それでも手に余る場合は公務員として雇用する手もある。大切なのは、復興という「目的」をいかに早期に達成するかであり、手段の清濁などは些細な問題である。
 TVや雑誌、あるいは街頭のあちこちで“がんばろう東北”とか“東北を応援しよう”といった文字を見かけるが、いつの間にか「がんばろう」や「応援しよう」が『我慢しよう』にすり替わっていないか。掛け声だけで資金を出さなければ被災者は永久に救われない。本当に困っている被災者にとって、他の国民が自分たちに同情して消費を控えたり節電をしたりして困窮生活を送られても決して空腹が満たされることはない。病気に罹った時に、横で他人が一緒にうなされていても自分の病気が治るわけではないのと同じこと。単に鬱陶しいだけである。外国人のアーティストならいざしらず、日本人が“被災者の皆さんとともに祈りましょう”的な態度では被災地は救われない。
 復興支援の名目で給与を削り、増税によって国民全体の消費が抑制されてしまっては、復興どころか、ただでさえ下がり気味のGDPがさらに落ち込み、新たに多くの“経済被災者”を生み出す結果になろう。GDPを増やすのは消費の伸びが絶対に必要であり、消費が所得の内数である以上、健全な経済成長には所得の伸びが欠かせない。
 原発に関しても、相変わらず常軌を逸した意見が罷り通っている。新聞の投書欄に目を通しても、将来的なエネルギー政策の転換を議論すべきというならまだしも、いますぐ全ての原発を止めろ、とか、生活水準を下げてでも節電に耐えようなどといった現実離れした扇情的な意見が目につく。
 実際にドイツでは、国内にある旧式の原発を一時停止させ、フランスから電力を輸入せざるを得ない事態となり国内で大きな議論を呼んでいる。衆知のようにフランスは世界有数の原発大国であり、自国の原発はNOだが隣国の原発が作った電力はOKというドイツの矛盾した態度に厳しい批判がある。そもそもエネルギーや食糧という国家運営の根幹に関わる問題を安易に海外に依存しようとする姿勢がいただけない。原発問題に過剰反応するあまり、誠に拙速な政策判断をしてしまったと言えよう。そもそもドイツは、自然エネルギーが国内発電の電源シェアの11%に達しクリーンエネルギーの優等生として持ち上げられているが、一方で、環境負荷低減や温暖化防止の先導国を自認しているくせに、石炭による発電が電源シェアの50%近くを占めるCO2排出大国といった矛盾も抱えている。
 資源エネルギー庁によると、2010年時点で日本国内の原発は54基、総発電量は4,884万KWに達している(電源シェアの約2割)。一方、自然エネルギーはと言えば、2008年時点で風力発電は1,517基/185万KW、太陽光発電は214万KWに過ぎない。気の早い原発廃止派の意見どおり直ちに、あるいは段階的に国内にある全ての原発を止めたとして、いったいどうやって電力を賄うつもりなのか。仮に全てを自然エネルギーで賄う(施設建設の問題から無理なのだが)として、現在の12-13倍の発電能力を備える必要があるが、誰が莫大な投資資金を負担するのか。中国企業にでも門戸を開くつもりなのか。
 風力発電や太陽光発電設備の拡大に政府が大規模な資金投資をするというなら賛成するが、未曽有の大震災にさえ金を出し渋るような政府にそんなことができるはずもなかろう。風力や太陽光は発電の安定さに欠ける(風力発電の稼働率は平均40%ほど)うえに、巨大な風車が海岸線に多数林立させたり、広大な面積の太陽光パネルの設置が必要になったりと漁業や海運、景観に与える影響が多大であることを考慮すると、自然エネルギーはあくまで補完的な位置づけと理解すべきだ。原発廃止云々でオダを上げてエネルギー政策の大転換なんて偉そうにご高説を垂れるくらいなら、現在のタービンによる発電方法ではない新たな実用レベルに耐えうる発電方法を開発するようなチャレンジをこそすべきだろう。
 デフレと震災のダブルパンチを受けたにもかかわらず、政府やマスコミから出てくるのは的外れな対策ばかりだ。いまこそ小泉政権以降の経済逆噴射政策により大きく毀損した社会基盤の再整備を実行するべきだ。個別の産業政策ではなく、教育・医療・治安・公共施設・食糧・防衛など国民が幅広くそのベネフィットを享受できる社会基盤の再整備を行い、長期にわたり大規模な資金を投じることが重要だ。バラマキだなんていう次元の低い批判を気にする必要はない。公共事業を通じて官から民へ供給される資金は、民間企業に安定的なビジネスチャンスを与える役割を果たし、民間の投資を活発化させ、実体経済や金融市場に十分な資金循環をもたらすだろう。何のかんのと言っても、民-民のビジネスだけでは十分な資金循環や雇用の確保が難しく、現実には官-民あるいは官-民-民のビジネスによる下支えが欠かせないことはこの20年にも及ぶデフレ不況で実証済みだ。きれいごとでは経済は回らない。
 政府の経済運営は、基本的に民間とは逆張りの経済運営が必要になる。民間の投資や消費が活発な時は政府の支出を抑制し、逆の状態なら支出を増やして実体経済を支える必要がある。ところが、現実にはバブル期に支出を増やしてデフレ期に公共事業を減らすようなトンチンカンな経済運営が罷り通っている。その結果、バブルを膨張させたり、デフレを深刻化させたりといったダッチロール状態に陥り、最後はどうしようもなくなって倫理観の欠如などといった精神論や根性論しか言えない輩の台頭を許すことになる。
 これは日本のみならず先進諸国も同様である。いつの時代にも、洋の東西を問わず『部屋を暖めようとして冷房のスイッチを押したがる』間抜けな人間がいるものだ。そういう輩に限って中途半端な倫理観を振りかざすから始末が悪い。
 “入るを量りて出ずるを為す”なんていうのは民間企業がやることで政府のやるべきことではない。政府に求められるのは、チマチマと税金を掻き集めることではなく、国家の進むべき前向きなグランドデザインを国民に示すことだ。そのうえで、管理通貨制度の下で国債発行や政府紙幣などの手段を講じて実現に必要な資金を間断なく投じるとともに、研究開発や技術開発の高度化や発展を促すべきだ。国内の需給バランスの調整や需給レベルそのものを向上させることによって経済を安定的に成長させることができ、国家としての信用力の維持向上にもつながる。国債残高や金の保有量なんていうケチな指標が国家の信用力を担保する訳ではない。
 政府やマスコミ、識者や財界、官僚などが大所高所の立場で神学論争している間にも、被災者の生活は刻一刻と苦しくなる。先ずは被災者個人の生活立て直しのために補償金の支払いなど復興に向けた具体的な努力をすべきだろう。
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2011年5月16日 (月)

期待できない「インフレ期待」

 だらだらと続く原油高や今回の震災による一部の原料や資材不足もあり、週刊誌を中心にマスコミからしきりとインフレを煽ぎ立てる記事が垂れ流されている。
 これらの記事には、インフレそのものを懸念するというよりも、むしろ震災に託けた財政支出を何としてでも防ぎたいという意図が強いものと推測する。「膨大な国債発行残高を抱える日本にこれ以上国債を発行する余地はない」→「更なる国債増発は金利上昇を招き財政が破綻する」→「財政破綻による通貨の信認低下が物価の高騰を招く」というお約束の三段論法が、毎日新聞や雑誌で展開されている。
 しかし、現実には下記の図-1の消費者物価指数の過去5年間の推移のとおり、“インフレ”と大げさに騒ぎ立てるような状況にはなっていない。時期は少しずれるが、名目GDP(内閣府資料)がH13からH21にかけて493兆円から474兆円へと19兆円も減らしている(先進国で日本だけ)のに対して、マスコミが大好きな国債発行残高(財務省資料)は同時期に596兆円から918兆円へ328兆円も増えている。前述の幼稚な三段論法が真実なら、とっくの昔に国債金利がギリシャみたいに二桁になってもおかしくないはずだが、同時期の国債10年物の金利(12月末基準)の1.369%→1.289%という結果をどう受けとめればよいのか。(これは為替水準でも同じこと)
 日銀の国債引き受けや政府紙幣などを持ち出すまでもなく、通常の国債発行を通じた財政支出の話になると、マスコミや財務省の連中が、たちまち高位なインフレに陥ってしまうと騒ぎ出すし、多くの人々にとって“インフレ”とは、ガソリンやレタスなどといった身近な商品の価格が上がることと同意語だから、この手のインフレ騒ぎにすぐ乗せられてしまう。だが、生産力やサービス提供力といった供給能力が大きく発展した現代では、消費者物価指数の推移実績が示すとおり、まともなインフレ状態をもたらすことは大変な困難を伴うし、金融政策が目指す“インフレ期待の醸成”もまた然りである。
 現代における金融政策を大雑把に括ると、金利や量的緩和政策といった純粋な(狭義な)金融政策をとる立場とインフレターゲットなど財政政策をも包含する立場に大別され、両者の違いは次のような点にある。
①経済成長(リフレーション)を志向するか
②成長のために物価目標や雇用目標を明示するか
③その目標を誰が決定するか
④日銀に目標達成義務を課すべきか
⑤日銀の国債引き受けや政府紙幣発行といった財政政策的な手法を認めるか
 小泉政権以降の政権与党(一部例外あり)や財務省、日銀、マスコミなどは前者の立場(欧米各国も同じ)をとってきた、というか、単に財政政策をやりたくないための消去法的な方便として、いやいやながら金融政策をやらざるを得なかったといった方が正確だろう。だからこそ日銀はインフレ目標の掲示に終始消極的だったし、既発債の買い取り額も必要最小限に抑えてきた。量的緩和という苦肉の新手法を取り入れて組織としての努力姿勢をPRしてきたつもりだろうが、デフレ脱却にはつながらず大した成果は出ていない。
 だからといって、日銀こそが諸悪の根源と言い切るつもりはない。むしろ、財政支出の削減を積極的に進めてきた小泉政権以降の政権(+橋本政権)と財務省およびマスコミこそがA級戦犯だろう。こういった経済成長の手段としての積極的な財政支出をタブー視する構造改革教の信者たちによって歪められた金融政策は、財政政策とのポリシーミックスという両翼体制をとることが叶わず、常に金融政策一辺倒の片翼飛行を余儀なくされてきた。これでは上手く前進することなどできるはずがない。
 せっかく日銀が買い取った既発債の代金も金融機関の当座預金に滞留したままになるか、海外に飛んでいかがわしい金融商品への投資原資になってしまうのがオチで肝心の貸出増加にはつながっていない。下記の図-2のとおり、増える一方の預金を尻目に、貸出は完全に頭打ちもしくは微減の状態で、預貸の差額(=預金余剰)は増える一方だ。資金需要がないために金利は低下するものの、肝心の貸出意欲を刺激するには至らない。
 本来なら、この辺りで金融政策の効果としての“インフレ期待”が醸成されるはずだが、一向にその気配はない。理論的には、日銀による金融市場への大規模な資金供給により①中央銀行のインフレに対する積極的な姿勢②金融市場を通じた資金流通量の増加③円の発行量増加がもたらす円安やそれによる輸入物価の上昇等がインフレ期待を喚起させる要因となるはずだが、残念ながらそうはなっていない。薪に火の絵を近づけても燃えないのと同じことで、企業・家計ともに前向きな資金借入意欲が著しく欠如している時に金融市場に膨大な貸出原資を供給しても何も起こるはずがない。
 借入主体として期待される企業としても①長引くデフレ不況下で十分な収益機会(ビジネスチャンス)がないこと②将来的な金利上昇リスクよりもニューマネーの返済リスクを恐れて借入に消極的にならざるを得ないこと③売上の伸びが期待できない見通しの下で積極的な投資を行えないこと等といったごく当たり前の理由により、到底融資を積極的に受けるような環境下にない。この需要不足によるデフレ不況に、金融政策のみで対処しようとするのは、靴の上から足を掻くような虚しい行為である。 
 残念だが、金融政策単体では、来るべき経済成長時の資金需要に備えて融資原資を用意するといった間接的な役割しか期待できない。当たり前のことだが、売上増加や収益機会の確保(家計で言えば将来にわたる安定的な収入機会)という裏付けがあってこそ初めて借入意欲が醸成させるのだ。収入の目処もないのに借りたがる者に融資できるわけがないことは言うまでもない。
 デフレからの脱却には貸出増加による信用創造機能の正常化が欠かせないが、金融政策のみに頼って単純に借入を増やそうとしても無駄である。企業の貸借対照表の借入を増やしたいのなら、先に損益計算書の売上高を増やしてやる必要がある。売上の拡大予想なくして前向きな投資や借入の拡大はあり得ない。売上は全ての企業活動の源泉であり、その拡大は企業経営にとってフリーハンドに振る舞える余地が広がることを意味するし、経営戦略の選択肢を増やせることになる。売上が拡大すれば、給与や投資、経費を増やす余地が広がり経済活動も活発化する。
 いま企業に必要なのは、返済義務を伴う借入ではなく、自らの収入に直結する売上なのだ。それには金融政策だけでなく財政政策が欠かせない。企業も家計も将来を悲観して節約や経費削減の殻の中に閉じこもっている。この不愉快な状態に解決の糸口を与えられるのは政府による財政政策とそれを支える金融政策の重畳的な実施である。そのために、政府は、インフレ気運の醸成といった傍観者的な立ち位置からではなく、もっと当事者意識を持ち直接的かつ積極的にデフレ脱却に取り組むべきで、通常の国債増発はもとより、必要なら日銀の国債引き受けや政府紙幣発行といった非伝統的な手段を講じることをためらう必要はない。
 ここ10年余りの政権担当者は、手段の清濁に固執して経済成長の実現という目的の追求を疎かにしてきた。そのツケがまわり不況のエンドレス化という形で国力を蝕んでいるが、巨額の国債発行残高にビビっている国民はひたすら我慢を重ねることしか能がない。いまや、その無意味な我慢が需要を冷え込ませて更なる不況を招くという明けることのない暗闇のような状態が続いている。
 尤も、積極的な財政支出を唱えると、すぐに無駄遣いとか、バラマキを止めろというお決まりの非難が出ることも承知している。だが、以前のエントリーでも書いたように、筆者はこの手の有害な“きれいごと”をまともに聞く気にはなれない。たとえ無駄やバラマキと言われようが、実体経済の資金循環に役立ち経済成長に資するものであれば全く構わないと思う。
 無駄を削って倫理的な満足感を得られるかもしれないが、それによって経済がシュリンクして多くの失業者を生んだり、3万人にも上る自殺者を出し続けたりすることの方が国民にとってより大きな不利益だと言えるだろう。例えバラマキと言われようが、それによって生活が安定する人が現実にいて経済苦による自殺者数を少しでも減らせる方が、より国益に適っていると思う。
 政治家に求められるのは結果だとよく言われるが、古くは新井白石や松平定信あるいは浜口内閣のように、きれいごとを言うばかりで国民の生活水準を落としてしまうようなのは、やはり政治家としては3流の誹りを免れないだろう。
 筆者は経済成長に必要な条件として、次の3点が重要だと考えている。
①実体経済を循環する資金の量が十分に多いこと
②①の循環速度が速いこと
③①の資金が循環する経済主体の数が多いこと
 この世に政治や貨幣が誕生して以来、無駄な支出やバラマキが行われなかったことなど一度もないだろうが、それでも世の中はちゃんと周ってきた。ある事業が無駄かどうかなんて、そこに利害が関係するか否かによって変わってしまうし、そもそも誰が見ても無駄じゃない事業なんてほんの一握りに過ぎない。総務省によれば、H23/2月時点で日本国内には6,211万人の就業者がいるうえに302万人もの失業者がいるそうで、無駄だとかバラマキだとか浮世離れしたきれいごとを言って国の事業を削っていると、彼らに職や就業機会を与えることすらできなくなってしまう。
 無駄の排除なんて、できもしない、あるいはやる必要もない些細な倫理観にこだわって大事を見誤ってはならない。無駄であろうがバラマキと批判されようが、実体経済のプレーヤー(企業や家計)に十分な量の資金が売上や収入として循環させることが重要なのだ。特に、需要不足のデフレ不況下では、事業の清濁よりも、それがもたらす資金の量や循環スピード・循環経路の方により気を配ることがとりわけ重要なのだ。


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2011年5月 7日 (土)

供給力は今日も余っている

 震災から2カ月が過ぎようとしているのに、現地では瓦礫の撤去もさして進まず相変わらず多くの方が過酷な避難生活を余儀なくされている。そんな現地の苦境を尻目に政治もマスコミも(国民も)毎日のように原発をダシに大騒ぎを繰り返している。
 震災復興に必要な巨額の財源問題に触れたくないために、もはや大した危険もない原発を大げさに採り上げて、東電叩きを楽しんでいるのだろう。何度も当ブログで述べているように、東電は今回の大震災の被害者の一人であり、いわれのない非難を受ける立場にない。
 多くの国民は、日頃の鬱憤を東電叩きで晴らそうとしているようだが、仮にこの先、日本のどこかで口蹄疫や鳥インフルエンザが発生したら、東電と同じように発生源となった哀れな農家に非難を浴びせるのだろうか。後講釈の得意な論者は、原発の危険性は以前から指摘されており東電はその対策を怠ったと言うが、それは口蹄疫や鳥インフルエンザとて同じこと。彼らの論法に従えば、さんざんウィルスの危険性が指摘されている以上、今後それらが発生したなら発生源となった農家の不手際になるはずだ。同じ過ちを犯しても、大企業の東電は断罪され、哀れな農家は非難を免れる(代わりに農水省が非難のターゲットになるのは目に見えている)というのだろうか。福島県の方々も、東電ではなく、いたずらに放射能の危険性をわめき散らすマスコミ(海外のマスコミを含む)をこそ風評被害で訴えるべきだろう。
 原発問題にかまけて復興支援をほったらかしにしているようでは、震災からの復興はおろか、日本全体を覆うデフレ不況からの脱却の糸口すら掴むことはできないだろう。

 さて、今回の震災の影響に関して、先月の日銀支店長会議で、白川日銀総裁は「東北や北関東を始め、広範な地域で甚大な被害が生じている」と述べ、「生産面を中心に下押し圧力の強い状態にある」との認識を示し、その後ニューヨークでの講演で、“日本の経済活動に必要な供給の流れが震災前の水準に回復する時期は不明と指摘し、復興には潜在成長率を引き上げる取り組みがこれまで以上に重要になる”との見方を示したそうだが、ここに大きな勘違いが潜んでいる。それは、震災により日本の供給力が大きく棄損され、需給バランスが崩れたという見方だ。
 確かに、震災後に関東地域を中心に、一部の食品や飲料水等が品不足になり、製造現場においても包装資材や建築資材など様々な物品が品薄状態になった。また、自動車の生産が当面50%以上の減産を強いられる等多大な影響を受けている。だが、それらは日本全体の供給力からほんの一部にすぎない。自動車の大幅減産によりディーラーでは顧客への納車が長期間に及んでいるそうだが、だからと言ってエコカー補助金の時のような駆け込み需要が起こっている訳でもなく、相変わらずディーラーは閑散としている。また、包装資材が調達しづらいからといってスーパーの棚から多くの食品が消えている訳ではない。
 供給力とか生産力なんていう言葉を聞くと、自動車や電機、機械みたいな重工業系ばかりに目が行くが、日本のサプライサイドは機械金属系の製造業ばかりで成り立っている訳ではない。もの作りとか食品づくりだけでなく、サービス産業とて立派なサプライサイドの構成員であるばかりか、産業構造からしてこちらの方がはるかに主要な位置を占めている。(3次産業の構成比~就業人口で約67%/2005年、GDPで約73%/2009年)
 世間知らずのマスメディアでは、さも日本のもの作りが壊滅状態にあるかのような報道ぶりだが、実際の販売現場を眺めてみると以前と変わらぬモノ余り状態だし、ましてやサービス業なんて完全な過当競争(だからこそ、ろくに衛生管理もできないインチキくさい安売り焼肉屋が繁盛してきた)で、多くの業者が手を持て余している。供給力が棄損しているのは全産業のほんの一部だけで、多くは相変わらずの供給過多(=需要不足)に悩まされている。こんな状況下で潜在成長率を引き上げることに何の意味があるのか。ますますデフレを深刻化させるだけだろう。
 日銀総裁だけでなく、頭のおかしい構造改革教の信者や松下政経塾上がりの世間知らずをはじめ我が国には、いかなる環境下でもひたすらサプライサイドの強化や潜在成長率の向上を叫び続けるバカ者が多い。彼らは、疲弊した国内のディマンドサイドを回復させようなんて気はさらさらなく、膨張する供給力の捌け口を何故か海外に求めようとする。
 これまではアメリカの過剰消費体質や先進国の国内産業を犠牲にした中国など新興諸国の台頭により、一定の捌け口(輸出先)を確保できたが、今後はそうはいかない。先進国から新興諸国への富や産業の移転は大きな反発を呼ぶだろうし、新興諸国では一部への富の偏在が深刻化し自律的成長に欠かせない中間層が形成されないままになっている。いくら自称知識人たちが輸出による成長に固執しても、肝心の新興諸国の連中には日本製品を優先的に購入して日本を支えようなんて気はそもそもないのだから、輸出を経済成長のエンジンに据えようなんて幼稚な夢物語は忘れた方がよい。輸出はあくまで内需の補助エンジンにすぎないのだから地道に内需拡大による経済成長を図るべきだ。
 いま求められるのは、潜在成長率を高めることよりも国内の供給能力(生産力+サービス提供力)をフル活用させるために需要サイドを強化することである。そのためには、少なくとも需給ギャップを埋めるだけの資金供給が必要であり、その財源には当然ながら増税や社会保障費の削減などを充てるべきではない。それらは需要の下降圧力となるからだ。起きもしない高インフレや通貨の信認に固執して、財政支出や金融緩和をためらってはいけない。

 菅総理も浜岡原発の停止要請(=指示)などという超法規的措置を思いつきで言いだす勇気があるのなら、政府紙幣発行や日銀の国債引き受けによる復興+日本の経済成長のための財源捻出といった有益かつ前向きな提案をこそすべきだろう。
 下図のように日本はすっかり経済成長から取り残されてしまっており、もはや需要サイド強化のための対策は待ったなしの状態である。

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