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2011年7月

2011年7月13日 (水)

被災地の復興問題を脱原発やエコに摩り替えようとする卑怯者

 TVや新聞、雑誌では、脱原発とか牛肉から放射能が検出されたとか、節電による熱中症対策といったどうでもいい話で盛り上がっているが、被災者の生活再建や被災地の復興はほとんど進んでいない。
 震災により理不尽に命や生活の糧を奪われた被災者が望むのは、何より生活の再建だろう。それは、失った財産の補償や生活の糧を得るための雇用の創出を指すとともに、職場であった雇用先の再建や周辺地域の社会基盤・公共施設の復旧も含まれる。
 今回の大震災に限らず、天災や災害に遭い避難所に駆け込んだ被災者の不安や悲鳴の原因は、①家族や知人の命をなくすこと ②財産を失うこと ③雇用や生活の糧を失うことにある。突き詰めると、命と財産(カネ)の問題に集約される。命だけは助かってよかったなんてのんきに言えるのは部外者だからであって、当事者にしてみれば、積み上げてきた財産を一瞬にして失い、明日からどう暮らせばよいのかと大きな不安に苛まれることになる。
 残念ながら失った命ばかりは如何ともしがたいが、②や③の問題くらいは国を挙げて手当てに全力を尽くすべきだし、今の日本の国力なら十分に可能である。今回の大震災を除く平常ベースの天災の被害額はせいぜい年間2-3兆円程度であり、少し多めに国債を発行すれば済む話だ。マスコミが良く使う“震災によって地域のコミュニティーが崩壊して…”なんていう類のきれいごとはどうでもよい問題に過ぎない。実際に田舎に行けば分かることだが、コミュニティー云々を言うほどご近所同士が仲良くしている訳ではない。
 また、タレントや芸人、スポーツ選手らによるチャリティーコンサートやイベントも、家族の命や財産を失ってほったらかしにされている被災者を元気付けるには力不足である。被災者への善意は認めるが、あくまで一時の娯楽に過ぎないことを認識しておく必要がある。“東北を元気に”とか“被災者を応援する”ということは、被災者の生活再建ニーズにダイレクトに応えることであり、問題の核心に近づこうとせず周辺をぶんぶんとハエのように飛び廻ることではない。
 だが、現実にはマスコミも政治も、被災地の復興とは口ばかりで、自分たちが取っ付きやすい脱原発や節電・エコの問題に掛かりきりで、復興問題を原発やエコに摩り替える卑しい行為が平然と行われている。
 被災者が求める真の復興ニーズに応えようとすれば、20-30兆円ともいわれる財政支出が必要になる。これは当然、世間知らずの巣窟でもある財務省から猛反発を喰らうだろうし、そもそも構造改革や新自由主義思想の信奉者が多い政治家やマスコミ層には、多額の財政支出や社会的弱者への救済行為は心理的抵抗が強く、本音では復興対策などやりたくないと思っているはずだ。だからこそ、与党の復興担当相が被災地に行って宗主国気取りの横柄な態度を取って罷免されたり、野党の地震対策担当(自称政策通)が議員宿舎に女を引っ張りこんでフライデーされたりするようなレベルの低すぎる話が後を絶たないのだ。
 国会での議論も、全国の原発へのストレステストの実施で揉めたかと思えば、突然原発の国有化を言い出したり、再生エネルギー法案を強引に押し通そうとするなど支離滅裂だ。また、バカマスコミの方も、茶畑や出荷牛肉から放射能が検出されたとか、フランス製のポンコツ放射能浄化装置が故障したと言っては大騒ぎし、低レベルの週刊誌には放射能汚染を誇大に煽る幼稚な記事が毎週のように垂れ流されている。鳥インフルエンザや新型インフルエンザと同じような空騒ぎに奔走している。
 一方で、国民はといえば、口を開けば脱原発と節電しか頭になく、相変わらずマスコミに煽られっぱなしで、致命的な事故を起こしたわけでもない東電や原発を目の敵にして脱原発や反原発を語ったかと思えば、節電と称してエアコンをケチって熱中症でぶっ倒れたり、エコだからと簾をかけて空き巣に入られたりとバカなことを繰り返している。日頃は、東北を応援しようときれいごと言うくせに、福島県産の魚や野菜を並べようものなら、スーパーの担当者に喰ってかかってクレームをつけるような始末で手に負えない。(その割に福島第一原発からほど近い首都圏から離れようとはしないが…)
 震災前には原発について何も語ってなかったくせに、原発への世論が厳しくなると突然反原発を叫んで佐賀県庁に突入したネジの緩いタレントと同類だ。
 こういった問題の周辺を徘徊するだけの邪魔者に限って、いざ被災者へ公的な金銭補償をしようとすると、過去の被災者とのバランスが取れないとか不労所得を与えるのは不公平だとか、勘違いも甚だしい冷たい意見を吐き始める。天災という誰にも起こりうる理不尽な要因によって生活基盤を大きく棄損した被災者に金銭的な補償をすることは、近代国家の社会保障制度として至極当然なことである。
 いまやるべきことは、いたずらに原発の脅威を煽ったり、節電や節約を強要したりすることではなく、必要な財政支出と金融緩和を十分にかつ早期に行い、淡々と被災者や被災地のニーズに沿った復興や生活再建を進めることである。

2011年7月 6日 (水)

グローバル化の信奉者は単なるおのぼりさん

 震災が起こる前からデフレに蝕まれてきた日本では、社会保障・医療・教育・文化・雇用・科学技術・技術革新・国土保全・インフラ整備・治安・防衛・行政運営など社会基盤に関わるありとあらゆる分野で大きな綻びが露呈している。それらの問題の根源を探ると、必ずといってよいほど財源問題に行きつくことに気付かされる。過疎地の医療問題しかり、津波に破壊された瓦礫の撤去問題しかり、何だかんだと言いながら、最後にネックになるのは財源がないということだ。別に人材がいない訳でもなく、技術的に不足があるわけでもない。ただ単にカネがないというとてもシンプルな問題である。今や日本が抱える最大にして唯一の問題は、この財源問題といっても過言ではない。
 今の日本で『財政支出』は放送禁止用語もしくはNGワード的な扱いを受けており、それを声高に主張するのは勇気が要る。1千兆円にも積み上がった国債残高に多くの国民は縮み上がってしまい、国債発行や財政支出を求めようものなら、気が触れたと思われるか非国民扱いされるのがオチだろう。
 以前から、財政支出=公共工事=利権まみれの土建屋と政治家との癒着というマスコミが垂れ流したイメージが浸透しているせいか、公共事業に関わる事業者が楽をして儲けているかのように捉える見方が強い。現に、ものづくり系の企業(製造業)は、土建業者を見下す風潮があるのも事実だ。納入先からの厳しいコストダウン要求に応えるべきコツコツと企業努力を重ねてきた(単なる下請けいじめなのだが…)彼らにすれば、談合で競争から逃れて公共事業で潤ってきた土建業者など語るに落ちるとでも言いたいのだろう。
 だが、公共事業をまるでタダでカネを配っているかのように勘違いするのはいただけない。公共事業とは、官から民へ事業と予算を下すことによって関連産業の雇用機会の維持拡張と技術革新を図るものであり、その事業費は当然労働や役務の対価として支払われるもので、何もやましいことはない。皆、口では公共事業など無駄だと言いながら、新しい道路ができれば平気で利用するし、新しい文化ホールができたといってはサークル活動で使ったりしているはずだ。あの道路は税金の無駄遣いだから絶対に使わない、なんて言う人を見たことがない。
 公共事業費が1980年代の水準にまで落ち込んだと言われる厳しい時代の中で、土木・建設など公共事業の権化のような業界でも互いに切磋琢磨して技術向上に取り組んできた実績がある。今やあらゆる工事で従来よりも工期は大幅に短縮されており、工事中に排出された瓦礫などの産廃処理もルール化されている。冬季間の工事など考えられなかった北海道や東北でも、一年を通じて工事ができるようになっているし、使われる鋼材も軽量化され強度もUPしている。むろん環境への配慮基準も厳しくなり、ひと昔前の公共工事のイメージとはガラリと変っている。自動車や電機関連産業、あるいはIT・バイオなどの先端産業だけが努力してきた訳じゃなく、土木・建設業者を怠け者のように悪しざまに言うのは認識不足も甚だしく、自惚れるのもほどほどにすべきだろう。
 自動車や電機に代表される経団連・経済同友会(経団連よりも気持ち悪い団体)などといった経済団体は、己の本分をわきまえずに小泉・竹中構造改革路線の片棒を担いで、ひたすら公共事業や財政支出の削減を強要してきた。これにより、公共事業費や地方交付税交付金の大幅なカットが行われて地域の疲弊や雇用の崩壊を招き、国内の需要が大きく落ち込ませる結果となった。
 内需の低迷による負の影響は、経団連や同友会会員企業にも及び、彼らも少なからぬ傷を負い国内販売実績を落としている。彼らの頭の中が正常ならば、この時点で自らの行状を反省して方針転換するはずなのだが、構造改革や新自由主義への信仰に殉じる選択(隠れキリシタン並みの信仰心)をした彼らは、グローバル化という時代錯誤の言葉に導かれて、勝算の乏しい海外市場の開拓に勤しんできた。
 だが、奴隷並みに低い人件費やコロコロ変わる法制度、現地の役人の汚職、技術の盗用、人材の流出などといった障害に阻まれ、一部を除いて十分な収益を上げているとは言い難い。そのツケは、国内の従業員のリストラや異常なまでの下請けいじめの形で押し付けられた揚句、国内でリストラされた中堅以上の技術者が、高給をエサに技術や知見ごと新興諸国に横取りされる始末だ。最近問題になっている中国の新幹線技術の特許申請問題などは、その顕著な例といえる。中国のやり方は泥棒そのもので糾弾されるべきだが、国内への投資やカネを惜しんで大切な人材や技術を新興諸国にダダ漏れさせてきた国内大手企業の幼稚な経営判断こそ大いに批判されるべきだ。彼らのやっていることは、さんざん自分たちの好き放題に部屋を汚しておいて、虫が湧いたと慌てて殺虫剤を探し回っているのと同じことだ。
 財界の連中も、政府の財政支出に文句を言うのではなく、むしろ支出を後押しして国内需要を活性化させる方が、はるかに自社の売上や生産性の向上に結びつくはずだ。財政支出をタブー視し、国内市場の縮小を前提条件としていては何も解決しない。
 インドで20万円のポンコツ自動車相手に不毛な競争を強いられるよりも、公共工事で懐が潤った土建屋の社長に500万円のクラウンを買わせる方が楽だろう。体力が落ちるからと言って、便利な自動車を使わずに自転車に乗り続けていては、それこそグローバルな経済成長競争に置いていかれる結果になる。
 
 彼らはまた、中国や韓国、インドの若者たちが大挙して欧米諸国に留学や就職する(単に国内にまともな仕事がないだけ)のを手放しで誉めそやす。そして、返す刀で、日本の若者は内向きでだらしないと苦言を呈する。日本の右肩上がりの成長は終わったとか、国内市場に頼っていては生き残れないとかいう妄言を信じ込んでいるためか、グローバル化に積極的でない日本の若者を見るとイライラするのだろう。だが、その割に自分は日本にどっかりと腰を据えて一向に海外に出て行こうとせず(出て行っても到底通用しないだろうが)、立場の弱い若者相手に威張り散らしている。
 そもそも、21世紀にもなってグローバル化という言葉に目をキラキラさせるのは、明治・大正時代並みの思考回路しか持っていない証拠だ。日本が高度成長期を経て世界で2-3位の経済大国の地位を占めてから数十年も経ち、技術大国・経済大国と言われて久しく、海外渡航者数も年間1,600万人にもなる。
 とっくの昔に日本は、諸外国から、それこそグローバル化の対象として羨望の眼差しで見られているのに、いまだに海外=欧米=グローバル化という単純な図式しか思い描けず、遣唐使や遣隋使の派遣に熱心な国民や企業経営者が多くいるのは嘆かわしいことだ。彼らこそ時代錯誤もいいところだろう。

2011年7月 1日 (金)

「国際公約」に弱い人の頭の中は開国前夜状態

 『国際公約』…いまだに明治維新あたりで思考停止している政治家や国民には、たまらなく甘美な言葉である。
 サミットやAPEC、ダボス会議なんかに出席した時の首相が、つい興奮してポロリと「構造改革」とか「財政再建」とか口にしようものなら、翌日の新聞で御用マスコミが「○○首相は構造改革を世界に約束した」、「財政再建は日本の国際公約である」などと書きたてる。政権が代われば、「CO2を25%削減」とか「自然エネルギーの割合を20%に」、「TPPは第三の開国だ」等々、更にどうでもいいような政策が国際公約へと格上げされる。
  “●●は日本の国際公約”だとアナウンスされる場合、●●の部分に入る政策キーワードは、ほぼ例外なく、デフレに苦しむ日本にとって都合の悪いものとなる。景気対策が必要な局面で緊縮財政を強要されたり、過当競争に苦しむ業界を尻目に規制緩和が叫ばれたりするのが、それに当たる。こういった動きに不満を漏らそうものなら、「日本の構造改革や行財政改革を国際金融市場が注視している」とか「日本の脱原発への取り組みを世界が注目している」とかいった牽制球が、マスコミからすかさず投げ込まれる。戦後70年近く経つのに、いまだに海外や世界からの視線や評価に異常なほど神経質な日本人には、この牽制がよく効くのか、一球投げられただけで塁上に釘付けとなる。
 だが、なぜ、いつも日本ばかりが常に世界中の国や機関から監視される必要があるのだろうか。まるで、日本の一挙手一投足が世界中から査定されるかのような言い草には、強い違和感を覚える。オバマ政権の国内向け公約(国民皆保険制度、社会基盤への財政支出等)が履行されていなくても、日本人はそれを注視しているわけでもなく、公約を守れとアメリカに言いがかりをつけるわけでもない。なのに、日本の首相が調子に乗って口を滑らせた程度の約束事を金科玉条のごとく“公約扱い”するなんて可笑しなことではないか。
 そもそも、諸外国は、カネを貸しているわけでもなく戦争相手でもない日本のことなど殆ど気にしていないはず。世界一の金融資産と所得収支を誇り、有り余るような生産力を持つ日本は、単に経済学の定石通り適切な財政政策や金融政策を実行すれば、ほぼ確実に経済問題の呪縛から解き放たれる。だが、諸外国はそう簡単にはいかない。隣国との紛争、人種問題、民族対立、麻薬組織との抗争、貧困、汚職、教育、難民…等々、経済問題以前に克服すべき課題が山積しており、とても日本の構造改革の進捗状況をいちいちチェックする余裕なんてない。第一、日本の財政再建が進んだとして、一体それが諸外国(例えばフランスや中国)に何のメリットをもたらすというのだろうか。世界各国が日本の(自称)国際公約の達成を注視しているなんて空想に過ぎないことくらい、ちょっと考えてみれば判るはず。
 それでも日本の国際公約の存在を信じて止まない人には、アメリカやドイツ、中国の国際公約がどんなものか具体的に並べてみろと言いたい。

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