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2011年8月

2011年8月25日 (木)

成長からの逃避や諦めこそが日本病の原因

 PIGS問題や米国債の格付け引き下げ問題など欧米諸国の経済状態の悪化を懸念する動きが広まっている。国債のデフォルトや金融派生商品に関わる不良債権問題に翻弄される中で、彼らが信奉する金融政策の効き目がなく財政赤字ばかりが積み上がる様を見て、当ブログで以前にも指摘したように、“日本病”あるいは“日本化”といった揶揄が市場関係者やマスメディアなどから浴びせられている。
 そして、彼らは、次の点から欧米諸国が日本病から立ち直る可能性に対して悲観的である。
① 巨額の財政赤字問題を抱え、今後の財政支出の余地が限定されること。
② 金融緩和政策で溢れた資金が金融市場や商品市場に流入して原料コスト高を招く一方で、肝心の投資刺激策としての効果が薄いこと。
③ 中国をはじめ労働コストの安い新興諸国との競争が激化し、生産拠点や技術・雇用の流出を防ぐのが難しいこと。(日本の場合はこれに加えて円高のハンディを負う)
④ ③に伴い国内の雇用は縮小を余儀なくされ、雇用条件の悪化は免れないこと。
⑤ 高齢化・少子化が進み国内市場の縮小が避けられないこと。
 こういった問題は、あらゆるメディアを通じて厭きれるほど報道されているが、その殆どは、もうこの流れは変えられないとか後戻りはできない、あるいは変えるべきではないといった論調で語られる。

 そのうえで、右肩上がりの時代は終わったとか、グローバル競争の時代だからといったキャップを勝手にはめられたうえで、構造改革を断行しろとか、付加価値を創造すべしとかいった根性論を押し付けられるのがオチだ。だが、ありもしないユートピア論をいくら唱えても、現実には経済は好転せず所得や売上は増えないから消費や投資が落ち込み、不況のスパイラルに陥ってしまうしかない。そしてまた、カネをかけずに(財政出を忌避したまま)事態を打開しようとして、現実逃避的な精神論や根性論(=○○改革という名の念仏)が跋扈するといった馬鹿げたループを我が国は20年前から繰り返してきた。

 当然ながら、日本においては上記に挙げた5つの問題には十分な対策があり、それらを着実に実行することにより経済環境を大きく修復させることができる。

①については、30~40兆円ともいわれる巨額のデフレギャップ、250兆円にも及ぶ対外純資産、国内企業の莫大な生産能力、毎年10数兆円にもなる経常黒字など財政支出を拡大させる余地は十二分にある。

②については、これまでの金融緩和一辺倒の政策を改め、財政政策とリンクさせることにより実体経済への資金供給を拡大させて経済の真水部分を刺激するとともに急激な金利変動を抑制することができる。同時に、金融市場や商品市場での金融賭博行為を規制するために、そういった市場への参加資格者を実需のある者に限定するよう規制すべきだ。要りもしない大豆や原油相場での賭け事を禁止し、投資のリターンを求めるのなら実業への投資を通じて一定のリスクを負うように規制すべきだ。十分に時間を掛けて財政支出を継続させ、広く実体経済にビジネスチャンスを提供して資金を供給して行けば、景気や雇用の拡大への期待が醸成され、消費や投資を刺激することにつながる。そのような経済環境を実現できれば、怪しげな金融商品を買わずとも、実体経済内での投資で十分なリターンが期待できるようになる。

③や④は、自称グローバル企業が自ら招いた厄災とも言える。富士通の携帯電話事業部が生産拠点を国内に集約したように、工場や雇用の国内回帰を進めるべきだ。見かけの経済規模は大きくなっても、新興諸国の政情の不安定さや社会的モラルや知財への意識レベルの低さは相変わらずで、一向に改善する気配はないし、克服しようとする意欲も感じられない。このままでは、技術や知財権の流出は防ぎ得ず、多大な開発コストが無駄になるばかりだ。現地の役人に多額の賄賂を巻き上げられた挙句に、大した売上も上がらぬうちに都合よく法律を変えられたり、現地の企業に技術をパクられたりして泣き寝入りしている企業は珍しくない。

 不況に苦しむ日本人や日本企業が、気前よく新興諸国へ雇用や所得・技術などをプレゼントする様は滑稽であり、馬鹿げた所業と言える。そういったものは、本来、新興諸国が自らの努力で獲得すべきもので、人件費の安さだけを売り物に都合の良い部分だけを先進諸国から巻き上げようとする怠け者に手を貸す必要はない。

⑤の高齢化や少子化は、日本だけの問題ではなく一部を除く先進諸国に共通する課題だ。問題なのは、その中で日本だけが経済成長できていないということだろう。マスコミ報道で少子化が大げさに伝えられるせいか、皆、日本の人口が大きく減少したような気になっているが、平成20・21年と対前年比で人口は減ってはいるものの、▲0.06%人(H20),▲0.14%(H21)と誤差の範囲でしかない。

 また将来予測でも平成47年に▲0.85%、平成67年に▲1.1%という水準である。(総務省統計局資料より) この程度の水準であれば年間数%の経済成長で十分にカバーでき、人口の僅かな減少を経済停滞の言い訳にするべきではない。GDPを巡航速度で拡大させ得る政策を普通に実行して、国民一人当たりの可処分所得を数%ずつ増やしていけば何も問題はない。

 過去の歴史を振り返ると、例えば江戸時代は出生率や死亡率がともに高く、全体を通して観れば大きな変動はなくほぼ一定範囲の人口規模であったようだが、有名な享保・天明・天保の3大飢饉をはじめ自然災害にぜい弱な社会体制であったため、短期間で観ると割と大きな人口変動に見舞われている。

 下図のとおり寛政10年から文化元年の人口減少率は年平均で▲0.9%と現代の感覚で言うと110万人もの人口減少に見舞われているし、先に挙げた3大飢饉でも餓死者が数10万から100万人近くになるなど現代の感覚からすれば想像を絶するような厄災に見舞われている。当時は、現代のような食料の保管・供給体制や医療体制など望むべくもなく、せいぜいお助け米や粥の供与くらいしか対策もない中であったにもかかわらず、先人たちは苦労や努力を重ねて江戸時代の末期まで大きく人口を減らすことなく社会体制を維持向上させてきた。それを思えば、文明社会に生きる我々が現状程度の少子化に絶望するなど滑稽ではないか。

 少なくとも、需要不足による不況という現状分析は広く共有されているのだから、これを克服するために必要と思われる最もノーマルな経済対策を速やかに実行すればよいだけだ。その結果、経済環境が好転し、社会体制が落ち着きを取り戻して国民の雇用や所得に安定感が戻れば、自然と人口の減少にも歯止めがかかるだろうし、将来的に増加に転じることも十分に期待できる。
 

 怪しげな新興宗教が唱える終末思想を信じるが如く、日本の経済成長や社会体制の発展を放棄したり諦めたりして、改革だとかグローバル化などという空虚な言葉に逃げ込むのは単なる努力不足だと言える。

 成長から逃避することや現状を打破しようとする意欲や努力を放棄すること、そして、そういった愚かな思想や姿勢が放置されていることこそが日本病の原因そのものなのだ。

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2011年8月 9日 (火)

放射能問題に過剰反応するバカは片道切符で海外へ行け

 今朝の新聞に、謂れのない放射能汚染への抗議電話をきっかけに、東日本大震災で津波被害を受けた岩手県陸前高田市の遺族によって祈りの言葉を書き込まれた薪が、京都の五山送り火(大文字焼き)への持ち込みを拒否されたという記事が掲載された。これは、震災により家族や知人を失った遺族の真摯かつ敬虔な想いを踏み躙るもので、放射能汚染云々と得意顔で抗議電話を掛けた連中の浅ましい行為に強い憤りを覚える。このニュースは、既にTVやネットでも多数報道されており、京都市役所や大文字保存会に対して、受け入れ中止に対する多くの抗議電話が掛かっているそうだが、当然のことだと思う。根拠のない放射能汚染を誇大に報じるTVや雑誌(特に週刊現代)に踊らされ、調子に乗って今回の薪の受け入れに抗議電話を入れたバカは、マスコミの前に出て堂々と反論すべきだろう。
 当ブログで何度も非難してきたように、マスコミの尻馬に乗って復興そっちのけで東電いじめや反原発に血道を上げる愚か者が世の中に跋扈している。彼らは、福島のことをヒロシマやナガサキになぞらえて『フクシマ』と呼び変えて悦に入ったり、電波がつながりにくい三流携帯電話会社の社長(メガソーラーをネタに行政にたかろうとしているだけ)を新エネルギー普及の旗手として持ち上げたりしたかと思えば、農作物や牛肉から放射能が検出されたと大騒ぎするなど、まさに風評被害の元凶と言える。このほかにも、原発問題を受けて世界観が変わったなんて大げさなことを言う輩も後を絶たないが、そういうのに限って都心にしがみついたまま普通に暮らしているもので、ワーワー騒ぐわりに日本から一向に出て行こうとしないから困ったものである。
 ちなみに陸前高田市と福島第一原発は陸路で約240㎞の距離であり、これは同原発と東京都心との距離とほぼ同じくらいの距離だ。大文字保存会に受け入れ拒否の幼稚な抗議電話を掛けたアホにはこの距離感が理解できないのだろう。陸前高田の薪(わずか400本ほど)が放射能汚染されて危険と言うなら、なぜ原発から同じくらいの距離にある東京や千葉の物資や人の移動に対して同じように抗議しようとしないのか。彼らの論法に従えば東京から来た観光客も放射能まみれだろうし、新幹線の車両や飛行機の機体でさえ放射能に汚染されていることになるだろう。大人しい東北人相手には文句を言えても、首都圏の人間には何も言えないような臆病な輩なのだろう。
 震災からの復興を邪魔するバカ、復興問題を反原発とかエコにすり替えるバカ、原発や放射能問題をネタに風評被害を撒き散らすバカ、ふざけて頭の悪い小学生レベルの放映テロップを流して問題を起こすバカ、日本悲観論を撒き散らすバカ、いかなる状況でも財政再建や構造改革しか頭にないバカなど震災を契機にいろんなバカが世に蔓延っているが、いずれもこれからの日本には有害不要の輩である。小学校からやり直すか、さもなくば持参金付きで海外に輸出してはどうか。

(追記)
受け入れ拒否に対する批判を受けて、陸前高田市の薪が再度京都の大文字焼きに持ち込まれたものの、放射能検査の結果、セシウムの反応が出たため、またもや受け入れ不可となってしまった。
あれだけ批判されながら、ちゃっかり放射能検査をするなんて神経を疑ってしまう。放射能が多少検知されたところで、どうせ大した影響なんてある訳ないのに、全くバカな処置をしたものだ。ヒステリックな一部の京都市民のせいで京都全体が恥の上塗りをさせられたようなものだろう。がれきの持ち込みにキーキーと反対した川崎の頭のおかしな主婦と同じだ。

2011年8月 3日 (水)

支出なくして成長なし

 今朝の新聞に、欧米諸国の日本化を指摘するイギリスのエコノミスト誌の記事が載っていた。記事の内容は、ギリシャをはじめとするPIGSの債務問題で揺れる欧州と債務上限法案を巡って民主党と共和党がチキンレースを繰り広げてきた米国を揶揄するものであった。欧米諸国の日本化(日本病の罹患)については、以前に当ブログで指摘したが、同じ日本化でもこの記事が云わんとするところは筆者の考えとは真逆のものだ。エコノミスト誌は、欧米諸国が苦境に陥った要因を日本と同じく国民に耳触りの良い政策ばかりで時間稼ぎに終始したことや必要な改革の断行が遅らせたためと指摘するが、この論法は世間知らずのマスコミが好んで使う幼稚なもので、次の2点で大きな勘違いをしている。
 先ず1点は、“国民に耳触りの良い政策”なんてバブル崩壊以降殆どなされて来なかったという事実を無視している。小渕政権時の公共投資への梃入れや定率減税政策等の効果を打ち消すように小泉アホ政権以降、真水の財政支出が絞り込まれるなど次々に経済への逆噴射政策が採られ続けてきた。その後民主党に政権が代わっても、なぜか経済政策だけは財務省の言いなりのまま緊縮財政が維持されてきた。仮に、国民に耳触りの良い政策が採られてきたなら、これほど経済環境が低迷するはずがない。内需の縮小による企業業績の低迷、給与所得の低下、事業やポストの縮小、雇用の縮小、自殺の増加などこの間に起こった不幸な事象を挙げればきりがない。ようやく団塊の世代が職場から去り始め、本来なら若者世代に雇用のお鉢が回ってくるはずだったのだが、現実は大きな期待外れに終わっている。これのどこが耳触りの良い政策なのか。
 もう1点は、彼らの云うところの“必要な改革(現実は有害な改悪)”は遅れるどころか強引に断行されてきた。行財政改革という美名の下で政府支出が削られ公共投資が大きき落ち込み、民間事業者は事業機会を大きく逸失する羽目になった。また、過度な入札のオープン化により結果として地域の小規模な事業者が大企業に押し出される結果になった。また、社会保障費も削減され年金の支給開始年齢の引き上げが企業の雇用負担を増やし、結果として若者の雇用機会を阻害している。企業においては、CSRとか株主重視の経営、過度な消費者重視、トレーサビリティ、食の安全・安心、顧客情報の管理強化等といった1円の儲けにもならない下らない制度を押し付けられ、現場の負担や事務コストばかりが増えている。このように、官民ともに、このバカバカしい改革に十分すぎるほど付き合わされてきたことは誰の目にも明らかだ。
 いまだに日本経済が苦境の真っただ中から抜け出せないのは、政治家や官僚ばかりではなく、マスコミ、エコノミスト、企業家、専門家のみならず多くの国民が上記のような勘違いを続けていることによるものだ。苦しい時に、無駄の削減とか工夫や我慢といった安易な方法に逃げ込んできたツケをまさに払わされているのだと言える。
 経済の回復や成長に必要なのは、支出(需要、消費や投資)と供給力とのバランスの維持に尽きる。長引く不況の下で過度な無駄排除への信奉や財政赤字への過剰な忌避感がそのバランスを崩してきた。不況を放置してきたために、支出(内需)が大きく落ち込み巨大な供給力との間のバランスを著しく欠く状態が続いている。いま必要なのは、このバランスを均衡させるような支出を長期に亘り実行することだ。先ずは政府が財政支出を行い民間支出の呼び水になることが求められる。
 米国では、ティーパーティー運動なる頭のおかしい小さな政府の狂信者が、政府支出の増加に一々文句をつけているようだが、支出なくして如何にして収入を確保しようとするのだろうか。支出と収入とは、原因と結果と同じく対になる存在であり、もう一方がなくしては存在しえないものだ。ティーパーティーのようなバカの言うことに従えば、内需はやがてシュリンクし、企業は必要な売上を外需に頼らざるを得なくなる。だが、世界中のどこにせっせと日本のために安定的に資金をつぎ込んでくれる国があると言うのか。
 以前のブログでも書いたように、『雨はイヤ、でも水不足も困る』というネジの緩んだ連中の言うことは支離滅裂で、ティーパーティーとか新自由主義者、構造改革主義者等といった世間知らずの連中(松下政経塾の出身者も含む)もこの類だ。『雨(財政支出)はイヤだ、でも水(売上)は欲しい、雨が降らないから真水(内需)は干上がっているし、こうなったら海水(外需)に頼るしかない、でも海水は塩辛い(通貨が異なる)し淡水化(市場開拓、円高)するコストもかかる』などと永遠に解けないパズルを前に悶々と悩んでいる様は滑稽でしかない。
 少なくとも日本には、振りすぎた雨が引き起こす問題(インフレ)への対応策やスキルは十分にある。治水や堤防・ダム工事(金融引き締め)など洪水対策に大きな問題はない。降ってくる雨を制御することはできても、一向に振ってこない雨(デフレの放置)ばかりはどうしようもない。残された手段は、せいぜい雨乞いか神頼みくらいなのだが、何故かこうした非生産的な手法を好む輩が多くいる。日本に蔓延る根性論や精神論もこの辺りから来ているのだろう。

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