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2012年2月

2012年2月26日 (日)

人件費が高くて何が悪い

 仕事柄、企業の経営者と話していると、食料加工品などの原材料費の安い仕入品目やITサービスなどのコストを捉まえては、「○○は人件費のかたまりだからなぁ~」というセリフをよく耳にする。
 こういったセリフを吐く裏側には、仕入先や発注先のコストが高いことを揶揄する気持ちやもっと相手(仕入先)の人件費を削ればもう少し安く上がるんじゃないの…といった厚かましい要求が見え隠れしている。
 因みに、全産業ベースでの売上高人件費比率((役員給与+役員賞与+従業員給与+従業員賞与+福利厚生費)/売上高)は、法人企業統計年報によると、ここ数年は13-14% (平成5-6年頃は17%超)で推移しており、思ったほど高いものではないという印象である。
 このケチな経営者だけでなく、我々は日常生活の中で、サービス事業、中でも接客などといった対人サービス事業に類するサービスへの対価を支払う際に、「○○は人件費のかたまりなのに…」などと言って、その値段にケチをつけることが多い。「人件費ばかりで、材料費も掛かっていないのに、ちょっと高すぎるんじゃないか」という気持ちの表れなのだが、裏を返せば、“モノ=有形物”を敬う一方で、目に見えず形に残らない“サービス”を一段低く見てしまうのだろう。
 サービスなんて形の残らないものにお金なんて払いたくないという「スマイル¥0信仰」が、その根底にある。
 それが高じて、中国人やインド人を雇えばもっと安くできるのに…と妄想した挙句に、日本は人件費が高すぎると他人の懐具合にまで口を差し挟もうとする。

 しかし、日本人の人件費が高いことがそんなに悪いことなのか。

 太古の昔の自給自足生活から始まって、必要な物資の物々交換を経て貨幣経済が浸透し、人々の生活レベルは飛躍的に向上した。
 本来、それ自体では空腹すら満たすことができない貨幣を物品やサービスの交換ツールとして活用することによって、人々の購買意欲は大いに刺激され、生産・製造できる品目や品種は爆発的に増加し、生活レベルや生活様式は大きく発展してきた。
 それは、人々を自給自足の生活から離脱させる一方で、何らかの形での労働やサービス提供、あるいは社会生活への参加を強要するようになった。
 そこで、人々は生活の糧を得るため、または、よりよい生活を手に入れるために働き、その対価として報酬(貨幣)を受け取る。それが人件費そのものである。
 誰しも生活レベルを維持向上させたいと思うのは当然のことで、そのために、より多くの報酬を得ようとする行為は何ら非難されるものではない。

 そもそも、“社会”という存在自体が、人々が安全かつ豊かに暮らすための方便として構成されたものに過ぎない。極論すれば、「人間がより豊かに生きて行こうとするための壮大なごっこ遊びをする場」にすぎないのだから、その構成員たる人々の都合のよいように上手く運営して行けばよいのである。
 自分の給料はさておき日本人の人件費は高すぎる、とか、大して材料費も掛かっていないのにずいぶん高いな、なんていうくだらない愚痴の先に待っているのは工場の海外移転による職場の喪失や永遠に続くデフレ地獄だけだ。終いには、他人の人件費にケチをつけていた自分の人件費まで削られる憂き目に会うだろう。

 先に述べたように、他人の人件費に文句をつける背景には、形に残らないサービスよりも形に残るモノを重宝がる思考があるのだが、原料や材料が勝手にモノに変わってくれるわけではないことは子供でも判るだろう。
 地下に眠る鉄鉱石が自分の意思で鉄骨に変わる訳ではないし、大海を回遊するマグロが勝手にシャリの上に乗っかってくれるわけでもない。
 資源や原材料が人々の生活に役立つモノに変わるには、当然、人の手を介する必要があり、それこそ人件費のかたまりと言ってよい。人の手で加工された鉄骨やマグロの切り身もまた、別の人の手によってそれを必要とする人のところへ運ばれて、初めてモノとしての用をなす。およそあらゆるものを人々の生活に役立つモノに変えるということは、無数のサービスの介在なくしてありえない。
 資源や原材料を人間に役立つモノに変える行為そのものこそが「資源」なのであり、それに見合う対価を支払うのは当然のことだ。
 日本がこれだけ豊かな経済大国になり得たのは、日本人の人件費が高く、それを上手く国内に還流させて内需大国を創り上げてきたからなのだ。このことを忘れて、日本人の人件費は高すぎるなどとケチをつけるのは、天に唾を吐くのと同じことだ。
 人が豊かになるために懸命に働き、それに見合う対価を得て消費や投資をすることで豊かになる、そのことが他の誰かの報酬になって…という具合に連関することで社会全体が発展していく、こういった社会構造の基本を忘れてはいけない。仕事なんてものは、人間の生活をより向上させるため、あるいは、それに必要な対価を得るためといった"人間側"の都合でやっているのだから、人間側のベネフィットを優先するのは当然のことだ。自分の給料は高くて当たり前だが、他人の給料は安くないと困る、なんていうわがままは通らない。他人様に十分な報酬があるからこそ、それが巡り巡って自分の懐に入るのだ。給料が勝手に天から降ってくるわけではない。


 戦後の混乱期辺りで思考が止まっている輩は、いまだに過度にモノを崇拝し、サービスや貨幣を蔑む傾向にあるが、こんな時代遅れの発想では、この先もデフレ不況から抜け出すことなどできないだろう。

 国民の間に、サービスや人件費に対する誤った思考が蔓延しているうちは、大阪のバカ市長が敬愛する時代遅れの評論家が、しきりと推奨する「知価革命」とか「知価社会」なんてただの妄想の類にすぎないことがよく判る。

2012年2月18日 (土)

『監視役』という気楽な職業

 「社会の木鐸」、「社会の公器」。
 これらは、新聞やTV、雑誌をはじめとするマスメディアが、自らを良識ある存在であるかのように称して使うには大変都合のよい言葉である。
 大所高所から世の中の動きを見つめて、自らの利に捉われることなく広く国民に進むべき適切な方向性を指し示す存在といったところか。
 これが生じて、立法・行政・司法の三権を監視する監視役まで自任し、いまや世論の流れをグリップする大権力機関と化している。その監視対象は三権のみに止まらない。
 医療事故が起こったと聞けば医師や病院を糾弾し、鳥インフルエンザや食品偽装事件が発生したと聞けば農家や中小企業をつるし上げる…といった具合に、事件や事故が起こった背景や要因、因果関係等を詳しく検証しようともせずに、非難の対象になるターゲットを瞬く間に仕立て上げて手当たり次第に糾弾する。そして、何か事件が起こると、朝から晩まで何度も同じ映像やフリップを垂れ流して徹底的な“悪魔退治”に熱狂する。
 彼らは、死刑囚に対しては温かい人権意識を持っているが、なぜか刑務所に入る前の人間に対しては異様なほどの攻撃性を示す。
 その割に、自分達の行動には極めて甘い。社員が痴漢で捕まった、番組でのヤラセ行為やデータのねつ造、視聴率操作のための買収行為など、犯人がマスコミ以外の人間なら死ぬほど糾弾されそうな事件が起こっても、それが身内の起こした犯罪の場合はちょっとしたお詫びだけで軽く禊ぎを済ませてしまう。
 誰でも批判・糾弾することができるのに、誰からも批判されないというまことに都合のよい立ち位置は、“絶対王権”に匹敵する。
 彼らの批判対象から外れるのは、マスコミ自身と宗教団体、部落解放同盟ほか一部のワケあり団体、動物くらいのものだろう。

 そもそも、マスメディアに限らず監視役や御意見番などと称して、他人の行為に文句をつけるだけの立場の人間は、なんとも気楽な立場にあるのだが、世間の常識に疎い本人たちはそれを理解できていない。
 上手くやって当たり前といった義務を課された職業や立場に置かれた人が社会機構の要所に配されており、彼らが安月給にもかかわらず黙々と働いてくれるおかげで世の中は上手く回っているのだ。社会資本のメンテナンスに従事する職業人、警察官や自衛官・消防官、教員、病院関係者ほか数えきれないほどの人々が、社会機構をスムーズに動かすために働いている。
 自称“監視役”や“ご意見番”たちは、そういった人々が支える安定した社会機構の上にどっぷりと座り込んで、支える側の人間のミスを血まなこになって探し回り、小さなミスを採り上げては厳しく糾弾して自らの溜飲を下ろそうとする。糾弾される側の人間には一切の弁解も許されないし、それまで積み重ねてきた努力も全く考慮されない。

 こんな馬鹿げたことを続けていては、社会基盤の崩壊は免れない。豪華客船の大広間でぜいたくな料理や酒を喰い散らかしている人間が、機関士や甲板員に文句をつけて叱り飛ばしているのと同じことだ。船員たちがやる気をなくして船が漂流し始めたときに、文句は言えても船を動かすスキルを持たない“お荷物”たちはどう対処するつもりなのか。

 バブル崩壊以降、マスメディアの連中は、無駄の削減とか身を切る改革とかいった類の国民の所得も意欲も削ぐような逆噴射政策を推し進めてきたが、まさに無から有を創り出す苦労を知らないバカ者だと言える。この手のバカは、すぐにガラガラポン的な手法を取りたがるが、一旦失くしたり、壊してしまったものを再建する苦労を理解していないから困る。
 既に存在するものにあれやこれやと文句をつけるのは容易いが、何も無いところから制度や機構等を一から立ち上げて行くには莫大な労力やエネルギー、コストが必要になる。
 パートの雇用調整感覚で、少子化を理由に教員を削減したり、犯罪件数の減少を理由に警察官を削減するのは簡単だが、そういった人材が必要になった時に、どう対処するつもりなのか。
 当たり前のことだが、有用な人材は頼めばポンと現れてくれるものではない。そういった人材の育成には長期間にわたる経験を積み上げが必要で、それには相応のコストが掛かるのは当然のことだ。
 無駄なハコモノ、無駄な組織云々と幼稚な頭で批判する前に、それらを上手く活用する方法を探る方が、はるかに手間もコストもかからないことに気付くべきだ。

 管理通貨制度の下でカネは即座に作れるが、社会に必要な人材はそう簡単には創れるものではない。

2012年2月 5日 (日)

経営と経済は別物

 今年のアメリカ大統領選挙に向けた共和党の予備選挙の様子が、たびたび日本でも報じられている。事前の予想通りロムニー氏が先行する結果となり、現時点で4つの州で行われた予備選挙のうち2つを制している。間もなく始まるネバダ州の予備選挙でも事前の世論調査で、2位以下の候補を大きく突き放しており、順調な滑り出しといったところか。
 件のロムニー氏は、投資会社の経営者として莫大な個人資産を有しており、予備選での広告戦略(相手候補の悪口ばかりの下らないCM)に大いに役立っているようだ。このほか、マサチューセッツ州の知事時代に皆保険制度を導入したこと、自身がモルモン教徒であること、一時期同性愛者を擁護する立場を取っていたことなど話題に事欠かない人物のようだ。実際に、相手候補から、収入額に比べて納税額が低すぎると批判され、個人資産を公開しろと迫られたりしていた。(アメリカの大統領選挙は、いつも同性愛とか中絶の是非とか宗教絡みの踏み絵が多く、対立候補へのネガティブキャンペーンばかりで意外と幼稚だ)
 ロムニー氏のプライバシーについてはさておき(どうせブッシュjr程度の人物だろう)、筆者が気になるのは、マスコミ各社が報じる「ロムニー氏は経営者出身であり経済に強い」といったフレーズだ。
 経営者出身の政治家や立候補者と言えば、最近では韓国の李大統領や先の都知事選挙に立候補した大手居酒屋チェーンのバカ会長が記憶に新しいところだろう。
 この手の「経営者=経済の専門家という思い込み」や「経営と経済を混同する勘違い」は、マスコミだけではなく多くの国民の間で非常に根強いものがある。企業活動は経済循環を構成する重要なパーツの一つであるのは確かなことだから、こういった勘違いが生じるのは仕方のない面もある。
 だが、経営者が経済の専門家なら、国内企業の7割以上が赤字(バブル崩壊以降ずっとこの調子)といった情けない事態を招く訳がないし、世界に冠たる大企業があまた存在し、モノづくり大国を自任してきた日本の名目GDPが1997年以降ずっと低空飛行を続けている(このままでは着陸しちゃうかも…)事実を何と説明するのか。
 経営者の思考は、収入の源泉となる売上高の推移に左右されやすい。売上が順調に伸びていればよいが、それが頭打ちになると途端に経費に削減に熱中し始める。仕入価格を抑えるための下請けいじめに始まり、手形の支払いサイトの延長、従業員の給与削減、交際費や出張費等の削減等々、関係者のモチベーションを委縮させる妙手を次々と繰り出してくる。
 しまいには、売上を伸ばすという最も大切な目標をあっさりと諦めて、まだ削れる経費はないかと血まなこになってリストラできそうな社員を探しまわり、財務諸表とにらめっこすることになる。経営者の視線が外界に向かわず、ひたすら内向きになって犯人探しをするようでは会社もおしまいだろう。
 これと同じことが、日本の政治でも起こっている。
 政治家や官僚、マスコミや識者、多くの国民は、名目GDPを伸ばして経済成長するという最重要課題を諦めていないか。企業や家計に関わらず、売上や所得の源泉となる名目GDPを伸ばすことなく経営状態や生活環境を好転させることなどできない。
 皆が、一介の経営者と同じ視点から売上を伸ばす努力を放棄して、ひたすらリストラや経費削減に熱狂し、あいつは怠け者だとか○○は経費を無駄に使っているとかいった類のレベルの低い非難合戦をしているようでは国が持たない。
 経営を野球選手に例えるなら、経済とはそれら各プレーヤーが個々の能力を最大限に発揮し合って気持ちよく活動できる環境そのものを指す。
 個々の選手は、成績が上がれば当然報酬も上がると信じ込んで自分の成績を上げることのみに精力を注ぎ努力を重ねる。そして、観客たる消費者は、相応の観戦料を支払って、プレーヤーの努力の成果としての素晴らしいプレーを堪能することができる。こういったエンタテイメントが何事もなく粛々と行われるのは、そういったフィールドをしっかり管理して提供する経済の存在があるからなのだが、多くの国民はこのことに気付いていない。
 経済状態がガタガタになってしまえば、いくらプレーヤー(経営者)が頑張ったところで観客も来ないし、報酬も上がらないのは当然のこと。プレーヤーが自らの成績を上げることに熱中していられるのも、この例でいえば、野球というフィールドがきちんと興行として成り立つような環境が整えられているおかげであることを忘れてはいけない。
 経営者など、経済全体から見れば、ほんのちっぽけな一介のプレーヤーに過ぎないことを自覚すべきだ。
 
 経済または経済全体の循環システムは「食物連鎖」と同じようなもので、経営者など、所詮は食物連鎖のシステムを構成するひとつの種に過ぎない。
 「俺はライオンだ」と威張り散らしても、自分の餌となってくれるシマウマやヌー等の草食動物の存在なくしては、今日明日の命をつなぐことすらできない。食物の供給源になってくれる草食動物の数が増えれば、狩りもしやすくなるし、食料に困ることなく健康を維持でき、良好な生活を送ることができる。
 経営者たるもの、こういった当たり前の事実や世の中を構成する大きな流れに気付かなければいけない。

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