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2014年4月

2014年4月25日 (金)

リフレ派の勘違い

昨年4月に日銀が黒田新体制の下でぶっ放した異次元緩和政策(量的・質的金融緩和)は、「黒田バズーカ砲」と称され、当時大きな話題をさらった。

無担保コールレートによる金融調節の廃止、買入れ国債の残存期間延長(3年→7年)、毎月の国債買入れ額の大幅な増加(年70兆円)、リスク資産の買入れ規模拡大、銀行券ルールの廃止など、伝統的な“日銀ルール”にしがみついてきた白川前総裁の存在を否定するかのような思い切った政策が打たれた。

何といっても、マネタリーベースを2年で倍増させ2%の物価目標を達成させると明言し、事実上のインフレターゲット政策を日本で初めて導入した意義は大きい。

 

これに狂喜乱舞したのは、いわゆる「リフレ派」を称する経済学派だ。

P.クルーグマンが提唱するインフレターゲット論に魅せられ、多方面から数々の批判や罵声を浴びながらも、15年以上も前から、リフレーション政策の実現を臥薪嘗胆の想いで夢見てきた彼らにとって、国内における理論的支柱であった岩田規久男氏が、昨年日銀副総裁に就任したこともあり、リフレ派の歓喜はまさに頂点に達したと言えよう。

(自分たちに都合のよい人物が登用されたせいか、バカの一つ覚えのように唱えていた「日銀法改正」という念仏は封印しているようだが…)

それだけに、リフレ政策を檜舞台に引き上げてくれた安倍政権に対するリフレ派の忠誠心は、想像以上に厚く強固だ。

 

だが、彼らの宴は長続きしそうにない。

 

ここでリフレ派の概要をおさらいしておく。

リフレ派とは、「緩慢なインフレを継続させることにより、経済の安定成長を図ることができるとするマクロ経済学の理論を喧伝、もしくは政策に取り入れようとする人々のこと。リフレーションとは再膨張の意で、経済学的には景気循環においてデフレーションから脱却してマネーサプライ(通貨供給量)が再膨張し、加速度的なインフレーションになる前の段階にある比較的安定した景気拡大期を指す。リフレ派の主張は、政府・中央銀行が数パーセント程度の緩慢な物価上昇率をインフレターゲットとして意図的に定めるとともに、長期国債を発行して一定期間これを中央銀行が無制限に買い上げることで、通貨供給量を増加させて不況から抜け出すことが可能だとするもの(知恵蔵2014)」であり、その最大の武器であるインフレターゲット論とは、「物価下落と不況のデフレ・スパイラルを断ち切るために、一定の物価上昇率を目標とし、その目標を達成するまで金融を緩和する(知恵蔵2014)」経済政策を指す。

 

彼らの主張の真骨頂は、物価上昇に対する市場の期待を喚起し、買い急ぎや設備投資の前倒しを誘発することにある。

通貨の番人である日本銀行が、年限を区切って物価目標を提示し、その達成に明確にコミットメントするとともに、日銀のバランスシートを量的・質的に拡大・変化させることにより、市場の予想実質金利引下げ効果が発生し、投資や消費が活発化することによりデフレを脱却できる、というのが彼らの主張だ。

 

リフレ派とインフレターゲット論の軸足は、あくまで民需の自発的・自律的な活性化にある。

彼らは、大胆な金融緩和政策を打ち出す日銀や政府サイドの意志や意図を市場が敏感に感じ取り、物価上場の影響を先取りしようと、企業や家計が、こぞって投資や消費を行うに違いない、という強い信念を持っている。

 

だが、大きな期待を背負わされた当の企業や家計の行動はどうだろうか。

長く続いた好況期の後のちょっとした不況期であれば、インフレターゲット政策によるインフレ期待やそれに伴う民需の活性化も期待できるかもしれない。なぜなら、企業や家計には、好況期に溜め込んだ手持ち資金や資産が豊富に残っているだけでなく、好況期に啜った甘い蜜の味を覚えており、それに群がろうとする強い意志や欲望を保持しているからだ。

こういった状態であれば、金融緩和政策は確かに効くだろう。市場は、少々の金利低下をチャンスと捉え、物価上昇予想に急かされて投資を増やし、それが消費を刺激するだろう。

 

だが、そのような好機はとっくに過ぎ去っており、少々の金融緩和程度では、インフレ期待すら起こせないほど人々のマインドは冷え切っている。

現在の企業や家計が抱くインフレ予想は、好景気の到来を期待するディマンドプル型ではなく、円安や消費税増税などによるコストプッシュ型であり、多くの人々は、それをタチの悪い物価上昇だと考えている。

 

アベノミクス効果により、上場企業を中心にベアの復活や夏のボーナス増額という恩恵を受けることができる層は確かにいる。

だが、社会の大宗を占める中間層以下の企業や家計には、ヒタヒタと忍び寄るインフレの波に抗うだけの資産も資金も持ち合わせていない。

 

共同通信社が41112日に実施した全国電話世論調査によると、増税後の日本経済の先行きに不安を感じているとの回答は「ある程度」を含め計67.5%に上ったが、消費税率が8%に引き上げられた後、消費を「控えていない」と答えた人は63.7%で、「控えている」の34.8%を上回ったらしい。

いまのところは、随分とのんきなことを言っているようだが、彼らの財布の中身が増えない以上、やがて増税分の消費を抑えざるを得なくなるのは目に見えている

 

デフレに突入して以来、民間給与所得は減るにまかせるまま放置されており、アベノミクスによる経済政策を経ても、未だに実質賃金は漸減を続けている。(厚労省発表によると、平成25年の実質賃金は対前年比0.5%減で、昨年に続き2年連続の対前年比マイナス)

収入が減り、増税や物価上昇により強制的な支出増加を強いられる状況下で、投資や消費を積極的に増やそうという蛮行に踏み切れる者はそう多くはいまい。

 

リフレ派が望むように、市場がインフレ期待に反応し、それに呼応する形で企業や家計が投資や消費を増やし、民需が刺激されるという理想を実現するには、動きたくとも動けない中小企業や家計の売上や所得を十分に増やし、インフレ期待に即応するような経済環境を創り出す努力が必要になる。

 

前述のリフレ派の定義に示されているように、長期国債を発行して一定期間これを中央銀行が無制限に買い上げるといった、いわゆる国債の日銀引き受けに通じるような大胆な財政政策が欠かせない。

今のままでは、来るべきインフレに備えて先行投資したくとも、中小企業には投資できる資金もなく、そもそもマーケットの将来的な拡大予想も立てられない。

20年以上にもわたる不況のせいで、企業や家計は、すっかり緊縮や節約マインドに染まり、好景気や好況期そのものの記憶を忘れかけており、物価上昇によるインフレの波を眼前にしても、果敢な行動をとるとは思えない。

 

こういった状況で、企業や家計が採るべき選択は、余計な消費や投資を控えて、ひたすらインフレの嵐が過ぎ去るのを待つことしかないだろう。

殻に閉じこもった企業や家計は、他の誰かが金を遣い、それが自分に廻って来るのをひたすら待ち続ける。そういった合成の誤謬が累積し再び不況が深刻化する間にも、円安や原材料、燃料コストの上昇に端を発する物価上昇が進行し、本格的なスタグフレーションを招来することにもなりかねない。

そうなれば、国民から物価上昇の主犯として糾弾されるのは、インフレターゲット政策や金融緩和政策であり、それを推進するリフレ派の連中だろう。

 

インフレターゲット政策実行後のリフレ派は、デフレ脱却という大義や目標を見失い、安倍政権が進める第の矢に傾注しすぎている。

まるで、第の矢を人質にでも取られたかのように、くだらぬ構造改革路線を賛美し、いまや労働規制緩和政策(外国人活用、配偶者控除廃止、一般社員の残業代廃止など)の最大の擁護者に成り果てている始末だ。

例えば、例の産業競争力会議が検討している労働時間規制緩和(一般社員の残業代ゼロ問題)に対しても、リフレ派の連中は、規制緩和の対象が、高度な専門知識を持つ高収入型人材(年収1千万円以上)に限られるから大丈夫だ、と必死の形相で擁護するが、とんでもない話である。

高度人材だ、年収1千万円だと最初に甘い顔を見せると、そのうち基準自体が緩和され、800万円、500万円と徐々に壁が壊されて行き、いつの間にか全社員が対象になりかねない。


彼らの目標は、あくまでデフレ脱却であったはずで、金融政策やインフレターゲット政策は、それを実現する政策ツールに過ぎなかったのではないか。

だが、いまや、その政策ツールの実行こそが目的化してしまい、デフレ脱却に対する熱意を失っている。第一の矢を維持するためなら構造改革派の前に跪くことすら厭わず、その飼い犬に甘んじようとする姿勢は、まことに卑しいものに映る。


リフレ派が真にデフレ脱却を目指すなら、手段に拘泥せず、第の矢を積極的に活用し、実体経済に消費や投資に遣える資金を大量に供給すべきだ。

しかし、主役の座を明け渡したくない彼らは、財政政策がもたらす効果(アベノミクス効果のほとんどがこれ)が金融政策の効果を凌駕することが耐えられないようで、そうはさせまいと、構造改革派の下に馳せ参じて財政政策を必死に否定している。

だが、このまま財政政策を抑制し、構造改革路線の文脈の中で金融政策を続ければ、遠くない将来にスタグフレーションの主犯として糾弾され、再び冷や飯喰らい生活に叩き落されるだろう。

 

リフレ派の連中は、一刻も早く目を覚まし、自らが置かれた危うい立場を自覚すべきだ。

2014年4月 6日 (日)

世界の流れを読めない素人政権

新聞やTVなどのバカマスメディアだけでなく、社会生活や学校生活において、「グローバル化」という言葉が大手を振ってのし歩いている。

一日中昼寝でもしていない限り、この言葉を耳にしない日はないだろう。

 

グローバル化という言葉は、使い手が進歩的かつ知的であるかのような印象を演出できるとても使い勝手の良い言葉であり、グローバル化に対応できそうにない田舎者ほどよく使おうとする。こういった田舎者ほど、か弱い自分を庇護する言葉を大事にするから、グローバル化を否定したり、それに抗おうとする者に対して、時代遅れの田舎者とか既得権益にしがみつく抵抗勢力と口汚く罵ろうとする。

 

さて、グルーバル化とは『政治・経済、文化など、様々な側面において、従来の国家・地域の垣根を越え、地球規模で資本や情報のやり取りが行われること。グローバル化により、経済的には、国内市場と海外市場の境目がなくなる、労働力も海外から調達できる、などの変化が顕著になる。(後略)』(新語時事用語辞典より)と定義され、1990年代から国内でも多く使われ始めたようだ。

 

バカマスコミやそれに寄生する自称知識人たちにより、グローバル化=国際化・自由化・世界共通化・ボーダレス化というイメージが構築され、政府の介入や古き商慣習を嫌う強欲な新自由主義者だけでなく、反戦活動や環境活動に身を投じるコミュニストやナチュラリスト(通販生活の愛読者)たちにも好意的に受け容れられてきた。

国とか国家という概念を邪魔なもの、ウザったいものとしか捉えられない“自由人”の連中にとって、グローバル化という言葉は、不勉強な大衆を一発で黙らす印籠代わりに重宝されている。

 

国家の垣根を食い破ろうとする害虫たちは、国連とかEU(欧州連合)のような国際組織や共同体を理想とし、経済体制においては、EUやTPPのように一定のブロック内での資本や人の移動のボーダレス化を進めようとする。そして、金庫代わりにタックスヘイヴンみたいないかがわしい地域を用意するのも忘れない。

 

国家やそこに暮らす国民の納税や労働により整備された社会資本や社会制度にタダ乗りしておきながら、国家は敵であり邪魔な存在、既存のめんどくさい慣習やルールを全てなくせば理想社会が出現すると夢想する幼稚なバカどもは、校則や教師に反抗する昔の青臭い中学生以下の夢想主義者にすぎない。

だが、現実には、日本だけでなく、多くの先進国や新興諸国に広まった新自由主義者が発する幼稚な意見に社会全体が振り回されている。

 

こういった連中は、まず、「改革」とか「グローバル化」、「自由化」といった一般人が抗いがたいキーワードを前面に出して露払いさせ、徐々に自分たちに都合のよい政策(=国民にとって都合の悪い)をゴリ押ししてくる。戦国時代に各地にキリスト教を広めた宣教師さながらに、目新しい言葉や新鮮そうな政策(中身はAを削ってBに充てるだけのもの)を名刺代わりに配り始めるのだ。

そこで反発が出ると、「既得権益にしがみつく抵抗勢力」が騒いでいると断罪し、社会の底辺にいる層(中流層へのルサンチマンに溢れ、自らの地位向上より中間層の引き下しに熱心な連中)から徐々に攻略を始め、あとはオセロゲームのようにあっという間に社会全体の意見を白から黒に変えてしまうから恐ろしいものだ。

 

だが、最も恐ろしいのは、自分の生活や所得、地位が脅かされるのを薄々判っていながら、邪教を唯唯諾諾を受け入れた挙句に、それに抗う者を糾弾する側に変心する不勉強な国民の存在だろう。

 

さて、先月には、ウクライナで親ロ政権を追放する政変が起こったかと思えば、息つく間もなくクリミアの独立→ロシア編入と事態は急展開している。

こうした動きは、ロシア系住民を抱える旧ソ連諸国に大きな影響を及ぼしている。

こうした国々には、ロシア系住民の多い親ロ地域を抱えており、そういった地域で独立運動の機運が高まると、ロシア系住民の保護を大義名分とするロシアの軍事介入が起こりうるからだ。可能性はかなり低いが、親ロ地域だけでなく国全体がロシアに編入され、旧ソ連から分離独立した小国が再びロシアに吸収される事態が起こり得るのだ。

 

つまり、国の数が減るという非常に珍しいイベントに遭遇する可能性があるということだ。

 

この世界では、古来より、多少の振幅はあるものの、国の数は一貫して増え続けてきた。(詳しくはこちらのサイトを参照 http://sid.co.jp/cn83/cn13/pg147.html

特に、二度の世界大戦やアフリカ、南米諸国の独立、ソ連崩壊などのビッグイベントを経て、ここ100年ほどの間に国の数は急激に増え、現在195カ国(うち国連加盟国193カ国)にもなる。

いまから100年ほど前には50カ国ほどしかなかったが、第二次世界大戦や1960年のアフリカの年を機に急激に増え、いまや200カ国の大台に迫る勢いだ。

近年、その増加ペースは鈍化しているが、民族や宗教の対立などの理由により世界各地で独立問題が燻ぶっており、それらの導火線に火が付けば、再びそのペースは上昇するだろう。

 

これは、グローバリストの連中が理想郷と称えるEUでさえ例外ではない。

イギリスのスコットランド、スペインのカタルーニャやバスク、イタリアのバダーニャなどが有名で、中でもスコットランドは、今年9月の独立の是非を問う住民投票が行われるなど独立に向けた具体的な手続きが進行しているが、イギリス国内では、納めた税金以上にカネのかかるスコットランド(国土の1/3ほどの面積に500万人ほどの人口)の独立を歓迎する声も一部にあるようだ。

スペインでは、逆に、中央政府が進める緊縮財政政策や構造改革(スペイン政府にも日本と同じバカがいるようだ)に反発して、比較的財政の豊かなカタルーニャ地方(バルセロナを抱え、GDPの20%を占める)で、独立運動を支持する150万人規模のデモが起きている。

 

新自由主義者やコミュニストたちは、自分たちに都合のよい社会を創るため、世界が共通化しボーダレス化する流れは不可逆的なもので抗うべきではないと強弁する。

 

だが、現実はまったく逆である。

国が増えるということは、元々在った一つの国が複数に分離し、独立することだ。

世界が共通化することを世界中の人間が受け容れ、統一した法やルール、慣習の下に暮らすことを歓迎するならば、なぜ、世界中で独立問題が燻ぶり続け、国家の分離独立が止まないのか。

こうした分離独立運動に多くの住民が身を投じるのは、自分たちのアイデンティティーや文化、慣習、社会制度を大切にし、それを侵す共通化や単一化といった流れに強い抵抗を感じているからだろう。

グローバル化のようなフワフワした言葉を無批判に受け容れることに根源的な拒否感を抱くからこそ、表面的にはそれに踊らされながらも、隠し切れない本音の部分ではグローバル化を受け容れられず、分離独立運動という形で発露するのだ。

 

安倍首相は、昨年9月にニューヨーク証券取引所に招かれた際のスピーチで、“もはや国境や国籍にこだわる時代は過ぎ去りました”と演説し、その後、TPPの推進を皮切りに、労働規制緩和や移民推進、農協改革(=改悪)、国家戦略特区など、周回遅れ気味の新自由主義的政策のアクセルを力いっぱい踏もうとしている。

これは、消費税増税などの経済失策への批判に対して、構造改革の文脈で構成される第三の矢をもってかわそうとする意志の表れだろう。

だが、所得の減少や雇用の不安定化に不満を漏らす国民を、さらなる所得や雇用の喪失をもたらす政策を使って黙らそうとする現政権は、もはやダッチロール状態に突入したといってよい。

病気に苦しむ国民に、薬の代わりに毒を手渡たそうとする政権は、もう長くはもたないだろう。

 

この体たらくでは、“日本を主語とする”どころか、“日本が死語”になりかねない。

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