無料ブログはココログ

リンク集

« 2015年2月 | トップページ | 2015年4月 »

2015年3月

2015年3月26日 (木)

残業代も払わぬ"国壊"議員は罰金を払って辞職せよ


まったく呆れたニュースが飛び込んできた。

『維新議員、秘書残業代不払い宣言 「労基法は現実に合わない」』
“維新の党の足立康史衆院議員(比例近畿)は25日の厚生労働委員会で質問に立ち、元私設秘書から未払いの残業代700万円を請求されたことを明かし「払うことはできない。私たち政治家の事務所は、残業代をきっちりと労働基準法に沿って払えるような態勢かと問題提起したい」と述べ、未払いを正当化した。
足立氏は「私は24時間365日仕事をする。そういう中、秘書だけ法に沿って残業代を支払うことはできない」と持論を展開。元秘書からの請求に対しては「ふざけるなと思う」と強弁。
取材に対し「労基法は現実に合っておらず、見直しが必要だ。議論を喚起するために発言した」と述べた。” (2015.3.25 47NEWS[より)

本人は、“議論を喚起するため”とか何とか格好を付けているつもりだろうが、いやしくも立法府の一員たる人間(所詮は一軍半の比例スベリ込み組のようだが…)が、堂々と違法行為を正当化しようとする様は、見苦しいの一言に尽きる。

常識ハズレの要求が通らず駄々をこねる幼稚園児並みのバカとしか言えない。

本人は24時間365日無休宣言をしているようだが、自身のHPにある活動状況をチェックすると、報告が抜けている日が散見される。特に、土日はしっかり休みを取っておられるようだ。

肝心の報告内容も、新年交礼会に出席しただの、駅前で辻立ちしただの、どうでもよいモノばかりで、残りも、維新の党大会が素晴らしかったなどとくだらぬ報告が続いている。
正直言って、そこらの田舎議員並みのレベルの低さで、こんなもので、よく“私は24時間365日仕事をする”なんて言えたものだと失笑を禁じ得ない。

バブル戦士よろしく寝ていない自慢をするのは勝手だが、残業代不払いみたいな不法行為が罷り通るわけがないことくらい国会議員なら理解できよう。
ましてや、中小企業のオヤジみたいに、“俺は一日中働いてるんだから、当然社員も残業代なしで働くべきだ”なんて、ヤクザ紛いの言い訳が通用するわけがない。

筆者が知っている中小企業の経営者にも、この類の自称仕事マニアの連中が多い。

この手の民度の低い経営者は、「俺は人一倍働いている」、「俺は誰よりも苦労している」という根拠不明の自信を頼りに、社員にも馬車馬のような働きを要求するのが常だ。

だが、働けば働くだけ自分の収入が増える経営者と違い、一般社員、とりわけ中小企業の社員なんて、働きに見合って給料が増えるような単純なシステムにはなっていないだろう。
そんな社員に向かって自分の身勝手な価値観を押し付けるなんて、図々しいにも程がある。

件のアホ議員が、本当に無休で働いているのかは疑わしいが、筆者が知る仕事マニアの経営者たちは、得てして仕事が趣味化している。
彼らは、働くこと=趣味と化しており、周囲が心配するほど仕事を苦にしていない。むしろ、働くことに喜びを感じている変わり者だ。

そんな変人たちも、勤労好きの日本人なら美徳とされるかもしれないが、生活のためにイヤイヤ働かされる多くの労働者にとってはいい迷惑である。
当の本人たちは喜んで働いている、つまり、趣味の時間を満喫しているのだから、本来なら、無休ではなく「無給」で奉仕すべきではないか。

自分が好きなことをやって、他人様からお金を頂くなどトンデモナイことだ。
筆者が若い頃に、仕事がキツイと愚痴をこぼすのを見て、先輩から「キツイ仕事をしているからこそ、給料を貰う価値があるのだ」と諭された覚えがあるが、まさにその通りだろう。

議員バッチをチラつかせて、あちこちで「先生、先生」と持ち上げられて反っくり返っている閑人には、残業代どころか給料なんて不要だろう。

現実に合っていないのは、労基法ではなく、国会議員として当然持っていなければならない遵法精神すら忘れている自分自身の存在そのものだろう。

このバカ議員は、所属する維新の代表ともども、小学生からやり直した方がよい。

2015年3月23日 (月)

『攻めの農業』の行く末は『攻められるだけの農業』

いわゆるアベノミクスの三本の矢のうち「第三の矢(成長戦略)」が、日本の社会基盤や経済基盤を壊死させる毒矢であることは、すでに様々な識者から多くの指摘を受けている。
しかし、そういった重要な指摘は、ここ20年来の改革病に侵された国民の耳には一向に届いていない。

その際たる事例の一つは、何かと批判の多い農業問題だろう。
安倍首相は、平成25年5月に行った成長戦略に関するスピーチで、攻めの農林水産業こそ成長戦略の柱の一つだと明言した。
その要旨は次の3点だ。
①今後10年間で6次産業化を進める中で、農業・農村全体の所得の倍増を目指す
②農林水産物・食品の輸出額を2020年までに1兆円へ拡大させる
③現在1兆円の6次産業化市場を10年間で10兆円に拡大させる
(そもそも、6次産業化市場が1兆円もあるのか、極めて疑問だが…)

要するに、輸出拡大と6次産業化で農業を成長産業化させようということだが、昨今の「輸出信仰」や「サプライサイド信仰」に染まり切った国民なら、コロッと騙されそうなキラーワードを二頭立てし、正面突破を図るつもりのようだ。

この「6次産業化」という言葉は、鳩山政権辺りからよく使われるようになった政策用語で、『自然エネルギーや農林水産物など、農林漁業者が生産(1次産業)と加工・販売(2次・3次産業)を一体的に行ったり、地域資源を活用した新たな産業の創出を促進したりすることにより、儲かる農林水産業を実現し、雇用確保と所得向上を目指すこと』と定義されている。(1次+2次+3次=6次化)

端的に言うと、農業者が製販部門も手掛けて(あるいは、外部の事業者と連携して)、原料供給だけに止まることなく、より高付加価値な商品を提供し、所得向上を目指そうという趣旨で、より判りやすく例えると、トマト農家がトマトジュースやトマトドレッシングを加工販売するようなイメージだ。

農水省では、6次産業化促進のため、農林水産漁業者の取組みを後押しするための計画認定(6次産業化総合化事業計画認定)と補助メニュー等を(形式上)用意している。
この総合化事業計画は全国で2056件認定され(今年2月時点)、補助メニューとしては、6次産業化ネットワーク活動交付金なる助成制度がある。

一見華々しいイメージのある6次産業化だが、その実態はお粗末なものだ。
先の総合化事業計画で認定された事例を見ても、農家レストランやニンジン・ジャガイモ等の一次加工(皮むきやカット)、ジュースやジャムづくり、食肉加工程度の取組みが殆どで、別に農業者がやらなくても、既存の事業者で十二分にカバーできそうな取組みばかりなのだ。
また、経産省が進める農商工連携(どちらかというと2次・3次事業者が主役の取組み)との縄張り争いで、農水省と経産省との間で案件の奪い合いも生じている。

実際に関係者へヒアリングしたところ、計画認定を受けた取り組みの中で、軌道に乗っているのは数%にも満たないそうだ。
農家が作ったジュースやジャムなんて、珍しくもないし、味付けもいい加減なうえに価格も高いのが相場だろう。
農家は作物を作るのはプロでも、その加工に関してはド素人に過ぎないので、衛生管理も杜撰で、大量のロットの受注にも対応できない。また、本業である農業との両立が時間的にも、体力的にも不可能なのだ。

つまり、農地の横に直売店でも作り、そこでの店先販売や近隣の道の駅程度には卸せても、大手の流通ルートに対応できる製造能力を得ることなどまず不可能で、10年間で10兆円規模に市場を拡大させるなんて絶対に無理だと断言できる。

加えて、総合化事業計画に認定された場合の唯一のメリットと言っても過言ではない6次産業化ネットワーク活動交付金にしても、全体予算は23億円程度で、補助上限が1億円だから、年間の助成対象はせいぜい20~30件程度のものだ。
しかも、農業者単独での取り組みは対象にならず、助成率も1/2から1/3に減らされるなど助成要件は厳しくなる一方だ。
しかも、細かい機械の購入にも厳格な入札手続きが要求されるなど、小規模な農業者にとってはバカバカしいほどの余計な事務負担が課される。
つまり、支援制度はあっても、それが殆ど使い物にならないのが実態なのだ。

もう一点の「輸出拡大」にしても同じこと。
わざわざ高い輸送コストを掛けて、バカみたいに安い現地の農産物と競争して体力を消耗してもコスト倒れに終わるだけだ。(現地の役人への袖の下もバカにならない)
農産物の輸出成功事例として有名な、北海道十勝地方の「川西長いも」とて、年間輸出総額は、やっと10億円に届こうかという程度のものに過ぎない。
ただでさえ高価格な国産品の輸送コスト削減に汗をかくよりも、“美味しいものを喰いたければ日本に来い”とインバウンド対策をする方が、国内に落ちる外貨も増え、遥かに有益だろう。

空理空論で農林漁業者を煽っても、彼らに余計な投資負担を強いるだけで何の益も生み出すことはできない。
農林漁業者の所得向上を謳う一方で、彼らの生活基盤を破壊するTPPを推進して梯子を外そうとするさまは、まさに背信行為と言える。

実際に、TPPを恐れて、事業承継や設備投資に消極的になっている農林漁業者の声を多く聞いている。
「大型トラクターの更新時期だけど、TPPによる減収が怖くてとても借金する気にはなれない」、「息子に農業を継がせたいけど、TPPが始めると食っていけるか不安でならないから都会の企業に就職させた」などという生の声に耳を傾けるべきだ。
TPP交渉が妥結したわけではないが、こうした負のアナウンス効果の威力は絶大で、ただでさえ問題になっている農林漁業者の後継者問題にも暗い影を落としている。

政府は、後ろから銃を構えて、攻めの農林漁業だと鼓舞(威嚇)しているが、実際には、TPPに備えて6次産業化に取り組もうとする勇者よりも、それに怯えて殻に閉じこもる弱者の数の方が圧倒的多数なのだ。
政策というものは、一部の強者のメリットのためにやるべきものではない。

構造改革臭の強い輸出振興や6次産業化促進策の本質は、農林漁業者を既得権益者と決めつけ、彼らに自助自立を強いる点にあり、怠け者の農林漁業者の根性を叩き直して出稼ぎでもさせようというノリに過ぎない。
本当に、農林漁業者の経営基盤を強化するつもりなら、実現性や継続性に疑義のある海外市場マターの経営戦略を押し付けるのではなく、足元の国内市場を強化する方が、遥かに早道かつ確実だろう。

適切な経済政策により国民の所得を増やして、まずは国民が安全かつ美味な国産品を存分に味わうことができれば、農林漁業者としても低コストで高品質な産品を出荷でき、その懐も潤う。
こうした両者にとっての継続的なWin-Winの関係を成立させることが、日本の食糧安全保障の根幹につながる重要なポイントだと言える。

“成長するアジアへの輸出”なんて、その余りを廻しておけば十分だ。
日本の美味しい農林水産物が食べたければ、黙って高い輸入品を買うか、高い旅費を掛けて日本に喰いに来させればよいだけだろう。
周囲を気にするのではなく、自国や自国民の利益を第一に考えて行動すべきだ。

2015年3月20日 (金)

需要創出を疎かにする国に経済発展の資格なし

今回は気になった二つのニュース記事を採り上げたい。

一つ目は、『クルーグマン教授、日銀のQEにインフレ達成効果ないと断言 米誌などは反論』(http://newsphere.jp/economy/20150318-2/)という記事だ。

リフレ派が発狂するくらい挑発的な見出しだが、記事の中でP.クルーグマン教授は、日本のQE(量的金融緩和政策)の推移を2001年から2007年にかけてのマネタリーベースとM2の相関関係を示すグラフを用いて分析した結果、M2は一定して微増にとどまっており、円を増刷するQEは、インフレに結びつくと言われるマネーサプライ(M2)の増加にそれほど関係がない、といった趣旨のことを述べ、「流動性の罠」という強力な副作用により、日銀の量的緩和政策そのものの効果が減殺されていると解説した。

これに対して、英シンクタンクのフェローのウォーストール氏は「彼はパズルの1ピースを見失っていると思う」と反論した。
ウォーストール氏は、“そもそもQEの目的はマネーサプライを増やすことではなく、「斜面を転げ落ちるように減ることを防ぐために行っているもの」だと主張しており、彼の言に従えば、日本のQEは非常に上手く行っているという見方もでき、ここ数年の日銀、米連邦準備銀行、欧州中央銀行が行ったQEは「素晴らしくもないが、ひどい結果にはなっていない」という評価になるそうだ。

金融政策に限らず、あらゆる政策の評価は、何を基準とするか、どこに力点を置くかで変化するものだ。
クルーグマン氏はM2(マネーストック)の伸び率に着目し、その背景にある実体経済活性化の度合いを重視しており、そういった観点から、量的緩和政策の成果が物足りないと批判する。
一方、ウォーストール氏は、量的緩和政策の目的はマネーストックを一定水準以上に維持することだと捉え、最低限の役割を果たしていると評価している。

両者の主張に相違はあれども、リフレ派のような一部の狂信者は別として、概ね、金融緩和政策に対する世間一般の評価は、“よく判らないけど、少しはいいこともあったんじゃないの”程度のものだろう。

筆者の量的緩和政策に対する評価は以下のとおりだ。
①意味不明な日銀券ルールが無効化された
②日銀の国債保有量が急増し政府債務が実質的に減少した
③一部の資産価格上昇をもたらし財政政策を忌避する駆除剤代わりに使われた
④国債買取り量を増やしておきながら、日銀サイドは政府に対して国債増発を促すようなアクション(財政政策強化)を起こしていない(むしろ財政健全化を主張)
⑤日銀首脳部は消費税増税に賛成している

簡潔に言えば、「やらないよりやった方がはるかにマシだが、金融緩和政策の一本足打法では大した成果は見込めない。より強力な財政政策とコラボしてこそ金融緩和政策の真価が発揮される」ということだ。

金融緩和政策に一定の成果があったことは認めるべきだが、先のウォーストール氏みたいに金融緩和政策を甘やかすつもりは毛頭ない。
数十兆円もの規模で大々的に実施した金融緩和政策の成果が、『マネーストックの水準維持に最低限の役割を果たしたこと』だったとすれば、政策効果としてあまりにもショボすぎるだろう。

ましてや、頭のおかしなリフレ派の連中みたいに、株価上昇、雇用改善、大手企業のベア実施、海外工場の国内回帰など、何でも見境なく金融緩和政策のおかげだと詭弁を弄して慶事に乗っかろうとするのは、お門違いも甚だしい。

そもそも、当の黒田総裁自身が、2年で2%という所期の物価上昇目標の半分も達成できていないことを認めているのだから、プラスの転じたいくつかの経済指標を金融緩和政策の成果だと結びつけるのは完全に間違っている。

大元の政策が成功していないのに、世の中の経済指標が良化したとすれば、それは両者の間に何の相関も無かったと考えるのが自然だろう。


今回の記事で取り上げる二つ目は、少々古い情報だが、『“正社員を解雇しやすくすべき” 停滞脱出の鍵は雇用改革と英識者』(http://newsphere.jp/economy/20150115-4/)という記事だ。

これは、元エコノミスト誌のエディター、ビル・エモット氏が英フィナンシャル・タイムズ紙に寄稿したコラムの概要を紹介したもので、エモット氏は、「日本は“長期停滞”の世界チャンピオンだ」と記し、その要因は、「もはや抜け出せない感のある賃金の低迷というトレンドだ」と述べ、非正規雇用の拡大により正規雇用の労働市場が固定化されてしまったこと、このため労働者がスキルアップする機会が失われたことを指摘し、それが賃金停滞を招き、ひいては経済全体の停滞にも結びついていると主張する。

ここまでの内容はおおむね理解できるのだが、この後がいけない。

続けて、エモット氏は、アベノミクスが目指す労働改革が、日本が停滞から脱出できるかどうかの鍵になるとし、「レイバーノミクス」という造語でそれを表現し、「正規」「非正規」の二重構造の労働システムを一つの労働法の下に整理することが必要だと主張している。

要するに、頭のおかしな竹中氏の劣化版のような意見で、正規と非正規の壁を壊して非正規雇用に収斂させ、それにより正社員を解雇するコストがリーズナブルになれば、結果的に、経営側には市場のニーズに対応する柔軟性を、労働者側には正規・非正規を問わず対等な権利を与えることができるなどとキチガイじみた主張を展開している。

この手の幼稚な識者は、経営や経済を語りたがるくせに、その目線は常に供給側にしか向いていない。
魅力的な商品開発、付加価値を生むブランド戦略、沸騰するマーケット、リスクマネジメントやコンプライアンスのような浮ついた言葉を追い続けるだけで、肝心の需要サイドに対する感度が鈍い。

彼らは、モノやサービスの開発には熱心だが、誰が買うのか、それにはどういった経済環境が必要かという点にはほぼ無関心である。
何か良いモノを作れば、富裕層が買ってくれるはず、それがダメなら海外マーケットを開拓すればよいと単純に考えている。

だが、正規雇用制度を破壊して、身分や収入が不安定な非正規雇用を常態化させてしまえば、間違いなく需要力は落ちるだろう。そして、こういった動きは、何も日本のみに止まるものではない。

いまや、先進国は競って国内労働者の賃金水準を途上国並みに落とすことに執心しており、労働者が得る一人当たりの所得水準の伸びは期待できない。

つまり、第一波として先進国の労働所得の減少により先進各国内需がシュリンクし、やがて先進国全体の輸入量も縮小へと向かい、その影響が第二波として途上国経済を直撃するだろう。
それが悪化すれば、終には世界中から買い手が駆逐される最悪の状態を迎えることになる。
それこそが資本主義とやらの終焉と言えるだろう。

世の中に資本主義を礼賛する者は多いが、需要と供給のバランスを踏まえてそれを論じる者は限られる。
需要が常に先行し、供給がそれを追いかける過程を経てこそ、マクロ経済は好循環するものだ。両者のバランスが崩れてしまえば、資本主義という車は前進することができなくなる。

先に述べた金融緩和政策だけでは、供給側の期待に応え得るだけの量の需要を創り出すことは不可能だ。何の根拠もないインフレ期待だけでカネを使うほど家計や企業の懐事情は甘くない。
金融緩和政策に本当の意味で魂を注入するには、実際の需要力の創造に直結する財政政策が欠かせない。

財政政策を活用して、実体経済に大量の資金を供給すれば、マネーストックなど黙っていても上昇するだろう。
マネーストックの水準云々といった細かな技術論に拘泥し、ムダに時間を消費するのではなく、その源泉たる実体経済を直接刺激すればよいだけだ。

(※)

3月22日(日)に「進撃の庶民」にコラムが掲載されます。

他の執筆者の方のコラムと併せて、ぜひご覧ください。

http://ameblo.jp/shingekinosyomin/

2015年3月14日 (土)

現実を無視した空論は誰の腹も満たせない

平成27年度予算案が衆議院を通過し、遅くとも4月上旬までの成立が確実となった。
さっそくマスコミ各社は、予算額が過去最大に増えた、社会保障費が初めて31兆円台に突入した、防衛費が3年連続で増額された(それでも5兆円に届かない)、公共事業費が6兆円に増えたなど、しきりと無駄な予算が増えたと連呼し、財政健全化が遠のいたと余計な警鐘を鳴らしている。
新聞の社説や解説文は、対GDPのプライマリーバランス赤字の割合が、財政健全化目標ギリギリの水準に達したため、これ以上の補正予算編成は難しいと、早くも経済対策への牽制球を投げつけ始めている。
また、公共事業を槍玉に挙げ、人手不足や資材価格の高騰で工事をこなし切れていない地域があるというホラ話を吹聴している。
筆者は仕事柄、地方の企業経営者や自治体職員の話を聞く機会があるが、彼らの話をよく聞くと、地方の土木建設事業者やトラックなどの資材が不足している原因の根源は、長期に亘った公共事業の発注量と工事単価の削減にあることが理解できる。
確かに、短期的視点で見れば、地域の土木事業者が高齢化し若年層の職人が不足していたり、除雪作業用のダンプが足りない例がある。また、工事単価が高い首都圏や被災地の工事に人手を取られて、地域の仕事が発注できない事例もある。(中には、そもそも公共事業の発注量自体が増えていない地域もある)
だが、それらは、政府や行政側の政策転換により、比較的容易に解決可能な課題に過ぎない。
なんのことはない。長期的な公共事業量の確保と工事単価の引き上げに明確にコミットすることにより、地域の事業者に長期投資に対する実質的な担保を与えてやればよいだけだ。
幸い、有り余るほどの金融緩和政策により、金利は稀にみる低水準にあり、融資に必要な資金も掃いて捨てるほど用意されるなど、政府系、あるいは民間の金融機関の融資環境は十二分に整っている。
あとは、事業者の借入意欲次第なのだが、20年以上に亘り散々公共事業イジメに晒された事業者は、公共事業の先行きに対して過度に敏感になっている。
実際に、筆者が地方の土木事業者に設備投資の見通しについて尋ねてところ、「工事が増えているのは判っているが、いつ梯子を外されるかと思うと、怖くて人も雇えないし、借金を返す自信もなく設備投資もできない」と嘆いていた。
経営を預かる身になれば、当然の悩みだろう。
筆者などは、長期的かつ大規模な財政政策により、公共事業を含む地域へ配分する予算を積極的に確保すべしと訴えるが、世の中にはこれに反発する意見が主流である。
なぜ、人口減少社会を迎える日本にこれ以上の公共投資は不要だ、とか、土木事業者だけを優遇するのはおかしいなどという意見が大勢を占めている。
だが、こうした社会的正論を吐く連中は、得てして時間軸的発想に欠け、また、社会構造に対する考察が幼稚だ。
いわゆる識者の連中にも、“日本は少子高齢化するから、これ以上道路を作る必要はない”と平気で嘯く輩がいるが、社会科の授業を受けたばかりの小学生並みの幼稚な発想だろう。
この手の人間は、自分の年齢を基に社会の変化を論じがちで、自分が年を取って外を歩く機会が減ったから、余計な道路は要らないと単純に考えているだけなのだ。
マクロ的視点、あるいは長期的視野に立って見れば、小賢しい隠遁者の都合に関わりなく、常に社会的利便性の向上を追求する必要があり、そのために交通網の緊密化が必要なら新規に道路やトンネルの造設が求められるし、貿易量の増大を目指すなら港湾や大型車両の通行に必要な交通インフラの整備も必要になろう。
そして、現存する膨大なインフラのメンテナンス事業も必要になる。
そういった莫大な事業をより効率的にこなしていくためにも、恒常的に社会インフラを整備(新設や更新作業)して行くことが欠かせない。
少子高齢化を心配する向きもあるが、生産年齢人口が減少するのなら、尚更、効率的なインフラのメンテナンスを行うためのインフラ整備が必要になる。
従来10名でやっていた港湾での積み込み作業を5名で行わねばならないとしたら、より効率的に作業を行うための港湾設備の造設が必要になることくらい理解できるだろう。
港湾の底が浅いため大型船が着岸できず小型船で何度も物資を運ばなければならなかったり、崩れかけた岸壁を放置したまま少ない人数で作業をすれば、生産性が低下することくらい誰でも想像できよう。
また、やたらと公共事業を蔑視し、土建屋や土方を肥太らせる必要はないなどと嘯く世間知らずも数多くいるが、そういった輩は、自らの菲才を省みず、世の中の実態を理解しようともしない。
土木工事みたいな付加価値の低い事業なんて時代遅れ、くらいの認識なのだろうが、ほとんどの国民は、決して付加価値の高い事業に従事しているわけではない。
偉そうに公共事業批判をする連中に限って、誰でもできるような仕事しかしていないものだ。あなたが突然いなくなっても、明日から他の誰かが取って代われるような仕事しかしていない者が大半だろう。
所詮は、サラリーマンの仕事なんてその程度のものなのだ。
公共工事なんかやっても、地方経済の疲弊は止まらない、そんなものはカンフル剤に過ぎないなどという斜に構えた批判は、地域の実状を理解できない的外れな戯言に過ぎない。
地方だけでなく、我が日本の殆どの地域の産業は、建設・土木、農林水産、サービス業みたいな大して付加価値の高くない産業にぶら下がっている事実を認めなければなるまい。
そこには、政府や官僚が妄想するような理想論に対応できる人材や産業なんて存在しないことをいい加減に理解すべきだろう。
昨今の地方創生事業みたいに、やたらと地域の創意工夫や地域間の競争を煽っても、そんな高尚な空論に対応できる地域なんていないのだ。
むしろ、予算配分権限を盾に空論を語るだけで何の努力もしていない中央政府に対する反発を招くだけに終わるだろう。
所詮、地方にできることなど限られている。
できもしない空理空論を押し付けて、地方の疲弊を放置するよりも、公共事業を打ち続けて地域へ資金を還流させ、地域経済を支え続ける方が数百倍もマシな結果を生むだろう。
地域にとって重要なのは、腹を空かせたまま理想論を語ることではなく、不健康だと罵られながらも腹を満たし続けることなのだ。
それが地域経済の原動力となり、ひいては日本の内需を支える糧になることを理解すべきだろう。
たとえ怠惰な平和であっても、高尚な戦闘で落命するよりもはるかに有益なのだ。

« 2015年2月 | トップページ | 2015年4月 »

最近のトラックバック

2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30