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2015年6月

2015年6月29日 (月)

被害者ヅラする人喰い虎

既に報道されているとおり、6月25日に自民党の若手議員が開いた「自民党文化芸術懇話会(文化の欠片もない内容だったようだが…)」での、出席者らによる“マスコミ弾圧発言集”が大きな話題となった。
(このニュースは、後発のギリシャのデフォルト問題に掻き消され、既に話題性を失いつつあるが、私見を述べておくために敢えて採り上げる)

会合自体は、安倍親衛隊を自任する自称若手議員の有志により開かれたもので、講師に呼ばれた作家の百田直樹氏をはじめ、出席議員から、次のような『問題発言』が飛び出したというものだ。

大西英男衆院議員(東京16区、当選2回)
「マスコミを懲らしめるには、広告料収入がなくなるのが一番。政治家には言えないことで、安倍晋三首相も言えないことだが、不買運動じゃないが、日本を過つ企業に広告料を支払うなんてとんでもないと、経団連などに働きかけしてほしい」

長尾敬衆院議員(比例近畿ブロック、当選2回)
「沖縄の特殊なメディア構造をつくったのは戦後保守の堕落だ。先生なら沖縄のゆがんだ世論を正しい方向に持っていくために、どのようなアクションを起こすか。左翼勢力に完全に乗っ取られている」

百田直樹氏
「もともと普天間基地は田んぼの中にあった。周りに何もない。基地の周りが商売になるということで、みんな住みだし、今や街の真ん中に基地がある。騒音がうるさいのは分かるが、そこを選んで住んだのは誰やと言いたくなる。基地の地主たちは大金持ちなんですよ。彼らはもし基地が出て行ったりしたら、えらいことになる。出て行きましょうかと言うと『出て行くな、置いとけ』。何がしたいのか」

こうした発言の数々は、会議室の扉の向こうで盗み聴きしたマスコミの連中により、早速、政権与党によるマスコミへの言論弾圧だ、あるいは、言論機関への威圧行為だ、政府に対する異論封じだと大きく報じられ、自民党は、マスコミ各社から一斉に非難を浴びせられた。
折から集団的自衛権の違憲問題で守勢に立たされていた自民党執行部の連中は、上へ下への大慌てとなり、同会代表の木原実議員を更迭して事態の収拾を図らざるを得なくなった。

当の自民党議員の連中も、日ごろから、沖縄問題やマスコミの偏向報道に強気な発言を繰り返してきたくせに、マスコミがちょっと過剰反応すると、出席した議員たちは、“心より反省している”、“マスコミ規制のようになってしまったのは不適切だった”と、急にトーンダウンしてしまった。
そればかりか、百田氏までもが、“発言はジョークだった”とか“私人としての発言だ”と格好の悪い言い訳に終始して無様な姿を晒すことになった。

筆者は、現政権や自民党を不支持とする立場であり、集団的自衛権の問題や今回の騒動を経て、結果的に安倍政権や与党の支持率が下がるなら、今回の騒動は、むしろ「慶事」だと受け止めている。

実際に、新聞やネットの投稿に目を通してみると、今回の問題は、安倍政権や与党に対して支持・不支持両方の立場から強い非難が浴びせられている。

支持の立場からは、集団的自衛権の問題で政権が立ち往生している時に極めて拙速な行為だと非難され、一方、不支持の立場からは、時の政権与党が強大な権力を使って言論を封じようとする非常に危険な行為だと非難される有り様だ。

だが、筆者としては、こういった戯言に耳を貸す気にはなれない。

マスコミの連中は、言論弾圧だとか政権からの威圧だと騒いでいるが、全くの過剰反応であり、何をほざいているのかと呆れてしまう。
獰猛な人喰い虎が飼い猫にじゃれられて、命の危険を感じたと震えて見せるようなものだろう。

事実、騒動が勃発するや否や、マスコミはいつもの護送船団ふりを発揮して、国民を煽り立て、一斉に与党批判の声を上げた。

するとどうだろう、会合に出席した下っ端議員から政権幹部に至るまで、御白州に引き出された罪人みたいに平謝りの総ざんげ状態になってしまった。
巨大与党の威厳など、マスコミの持つ強大な権力の前では、猛虎に睨まれたハツカネズミのようなもので、マスコミに対する言論弾圧どころか、噛みついた側の与党の方が、却ってマスコミから一睨みで威圧され、震え上がる有り様だ。

いまや、マスコミは第四の権力などではなく、勝手に国民の負託を受けたかのように振舞って三権を監視し、その上位に鎮座する「皇帝」並みの権力を手にしていると言ってよいだろう。

今回の騒動でも、「言論の自由」という言葉が飛び交っているが、その「自由」の基準を決めるのは、常にマスコミなのだ。
言論の自由と言っても、自ずと、逸脱してはならない範囲や使用が許される相場があり、それはマスコミによって定められている。

その範囲とは、おおよそ次のようなものだろう。
・戦後に形成された国際秩序を順守すること
・憲法(と言っても9条だけ)を順守すること
・テロに対してはペンでのみ闘うこと
・地球温暖化に反対すること
・環境や希少生物の保護に賛成すること
・原発稼働に反対すること
・財政健全化に賛成すること
・公共事業に反対すること
・改革や規制緩和に賛成すること
・グローバル化を賛美すること
・人種や性的思考などマイノリティーの立場に過剰に配慮すること
・大戦の被害者を称する中韓鮮諸国に配慮すること
・犯罪者(被害者ではなく)の人権に配慮すること

彼らは、自分たちが勝手に設けた基準線を絶対不可侵の領域のごとく死守し、それを踏み越えようとする者は、マスコミ業界に対する不遜な挑戦者と見做され袋叩きにされるのが常である。

これまでも、電力業界や自治体、土建業界、農業団体、捕鯨団体、在特会など、数多くの団体や企業が、マスコミの定めたデッドラインに触れて(というより、マスコミ側から一方的にイチャモンをつけられて)、重傷を負わされてきた。

今回も、袋叩きにされた自民党が1ラウンドでKOされ、マスコミの威厳を世に知らしめる結果となったが、冒頭に紹介した「マスコミの息の根を止めるには広告収入の元を絶つ」とか、沖縄の基地利権に群がる卑しい連中の存在をマスコミ自身の口から報道させたことには大きな意義があると思う。

残念ながら、自民党サイドが、マスコミに対して何の抵抗もせずに、速攻で土下座外交に切り替えたため、一連の騒動がマスコミの横暴ぶりや地方紙を中心とする偏向報道等の問題にまで発展する様子はなさそうだが、広告収入という最大のアキレス鍵が、改めて白日の下に晒され、普段はマスコミ批判に興味のない国民の目にも触れたという事実は大きい。

マスコミの連中は、自分たちへの批判を、さも、「言論や表現の自由」に対する挑戦であるかのように報じているが、そういった自由が守られるべきは国民一人ひとりであって、マスコミのみに与えられた特権ではない。

マスコミは、自らが『言論府の長』であるかのごとく振る舞い、誰に対しても公然と批判の矛先を向けるが、自分たちを批判することは断じて許そうとせず、お得意の大護送船団を繰り出して批判者を猛攻撃する。

既得権益に守られた言論界という居心地の良い巣に閉じこもり、太平の世を謳歌するマスコミを甘やかす必要などない。

今回の問題では、政治家が報道機関に圧力を掛けることを頭ごなしに否定する意見が罷り通っているが、政治家は国民の声を代弁することが重要な仕事のはずであり、国民の中に、マスコミの報道姿勢に対する批判の声が一定数存在する以上、そういった国民の負託を受けているという自覚を持って、もっと手厳しくマスコミの偏向報道や編集権の乱用問題を追及すべきだろう。

言論弾圧とか表現の自由の侵害といった類の自分勝手な批判など歯牙に掛ける必要はない。
国民の声を代表し、マスコミに対して、広告出稿で圧力を掛けたり、放送免許の停止をちらつかせて本気で脅かすくらいの緊張感を与えないと、言論界のゴロツキどもが目を覚ますことはあるまい。



(※)6月28日(日)に「進撃の庶民」というブログにコラムを寄稿しました。次回は、7月12日(日)の予定です。
(http://ameblo.jp/shingekinosyomin/)

2015年6月18日 (木)

神聖視すべきは、通貨の信認ではなく、国民の生活であるべき

【政府与党の最重要課題は、経済成長ではなく財政再建】
現在、政府の経済財政諮問会議や自民党の財政再建に関する特命委員会では、財政再建のための聖域なき支出削減と増税強化が盛んに議論されており、政府に与党、財務省を加えた緊縮に向けた頑強な鉄のトライアングルが形成されている。

デフレ脱却の渦中にありながら、常識では理解できない逆噴射政策が何の反対もなくスルーされているのも、「日本の国債発行水準は世界的に見ても異常」とか「このままでは、財政破綻により通貨の信認が低下し、制御できないハイパーインフレを招く」という妄言が国民の信認を得ているからだろう。

【「通貨の信認」を担保するもの】
では、財政破綻論者が好んで使う「通貨の信認」とは、いったい何によってもたらされるのだろうか。

通常、信認された通貨とは、内にあっては適度な物価水準を維持し、外にあっては貿易の際に国際決済通貨(米ドル、ユーロ、円、ポンド、スイスフラン等)として通用するような通貨を指すと思われる。

しかし、不換紙幣(金等の貴金属との兌換を保証しない通貨)が一般化した現代では、各国が発行する通貨の価値は、何によって担保あるいは保証されているのか、国際決済通貨たる通貨は、いかにしてハードカレンシー足り得たのか、極めて不明瞭である。

ある者は、天然資源(鉱物資源や食糧等)の豊富さだと言い、またある者は、工業的な生産力の高さだという、この他にも、対外資産とか軍事力だと主張する者もいるようなありさまで、ハードカレンシーと他の通貨を分別する明確な基準は定かではない。

ロシアや中国、オーストラリア、ブラジルのように軍事大国、対外純債権国、資源大国であっても通貨が不安定な国もあれば、スイスやイギリスのように対外純債権と原油くらいしか取り柄がなかったり(イギリスは対外純債務国)、アメリカのように世界最大の対外純債務国のくせに自国の通貨がハードカレンシーとして流通している不思議な国もある。

通貨の国際的信認の源泉が何処にあるのか、正直に言って筆者にも解からないが、少なくとも、厳格な法律に基づく公正な商行為が保証される経済環境の整備くらいは必要だろう。

【インフレ恐怖症患者が拘る通貨の信認論】
さて、先に述べたように、通貨の信認低下やハイパーインフレに対するあらぬ恐怖心が、我が国における適切な財政金融政策の実行を阻んできたと言ってよいのだが、こうした悪癖が国民に指示され続けてきたのも、人々の通貨に対する認識や常識が錆びついたままになっているからだろう。
多くの人々の経済や通貨に対する感覚の時計の針は、遠い過去に起こった高インフレ期の時代で止まったままだ。

【財政政策の補助エンジンとして政府紙幣活用】
筆者も、エントリーを書くたびに壊れた鳩時計のように「大規模かつ長期的な財政政策」を断行すべきと叫んでいるが、それには二つの方法がある。

一つ目は、国債増発による積極的な財政政策であり、日銀による異次元緩和の後押しもあって国債の引き受け環境も申し分なく、これこそが成長に向けた経済政策の王道というべきだろう。

二つ目は、政府紙幣のような通貨発行益を活用した大規模な財政政策である。

政府紙幣については、2003年に、アメリカのスティグリッツ教授(ノーベル経済学賞受賞者)が日経新聞主催のセミナーで、その活用を提案して話題になったことがあるものの、経済学界隈では、いわゆる“禁じ手”扱いされる類の奇手と言って差し支えない。
そもそも、ほとんどの人々は、政府紙幣の存在そのものを知らないだろう。

【政府紙幣に関する論考】
政府紙幣に関しては、滋賀大学経済学部の小栗教授(当時)による「政府紙幣の本質について~中央銀行券との比較を中心に~」という論文がある。
論文の内容は、総じて政府紙幣に対して否定的であり、
・政府紙幣と中央銀行券は、同じ不換紙幣であっても全く質が異なる
・政府紙幣によるヘリコプター・マネーの実行は、中央銀行制度を生み出した歴史を否定する危険な行為
・政府紙幣の過度な発行は、通貨の信認を棄損し、ハイパーインフレを招きかねない
などと結論付けている。

小栗氏は、論文の中で、他の4人の識者の意見を交えながら、政府紙幣の本質や中央銀行券との違いを明示している。

その違いとは、おおまかに三点に集約される。

【中央銀行券と政府紙幣の違い~信用関係の有無~】
一点目の違いは、債権・債務等の信用関係の有無である。

これについては、「現代の中央銀行が銀行券を発行する場合は、その見返りとして手形、債券等の保証物件を取得するので、これを通じて中央銀行は外部との間で信用(債権・債務)関係を形成している」が、「政府紙幣は債務性を伴わず、直接的に購買手段として流通に投入される」と説明し、国債等の債権に裏付けられて発行された中央銀行券と比べて、外部との信用関係(債権・債務)も伴わない単なる不換紙幣である政府紙幣の存在は、信用通貨発行の原則に反し、国家による通貨発行の規律を揺るがせかねない、という趣旨の主張を展開している。

端的に言えば、債権・債務の関係から切り離され、国家が好き放題に発行できるような卑しい通貨は発行すべきではない、と言いたいのだろう。

だが、中央銀行券の価値を担保するはずの債権とは国債のことを指しており、元を糺せば国の信用=政府の信用に集約される。
つまり、中央銀行券を担保するのは、国債=政府の信用ということになり、政府の信用をバックに発行される政府紙幣と何ら変わりがないではないか。

また、「中央銀行券を含む銀行券は金融取引を通じてしか、流通に投じられることはない。(中略)ということは誰かが負債を負うことによってしか、の意味であるから、銀行券の発行者はそのような負債を債権として、自らの負債(銀行券)と交換に取得し、リスクを負う」と述べ、日銀が、発行した銀行券をなぜか負債勘定に計上するのを引き合いに出して、規律性の重要さを説こうとする。

【日銀はリスクとは無関係の存在】
しかし、日銀が銀行券発行によるリスクを負っているというのは、単なる迷信にすぎない。
確かに、日銀は、発行した銀行券を負債勘定に計上しているが、日銀券が不換紙幣である以上、負債であるはずの日銀券を何と兌換する(債務を返済する)つもりなのか。

現代では、兌換のための金銀など保有していないから、国債のような債権か紙幣を刷って返済するしかない。
また、国債といえども、元を手繰れば“円=日銀券”に行きつくから、結局、日銀券を返済するには日銀券を発行するしかない、要するに、日銀券を負債勘定するなんて、あくまで形式上の処理に過ぎず、その負債は日銀に何らリスクをもたらすようなものではない、ということだ。

【中央銀行券と政府紙幣の違い~発行起源の外生・内生~】
二点目の違いは、両者の発行が外生的か、内生的か、という点だ。

論文では、「国家紙幣(政府紙幣)は商品の価値とは独立に国家権力によって商品経済の外部から紙幣が注入され、直接に財・サービスの購買に充てられるものであり、本来、永続し得ないものである。他方、信用貨幣(※中央銀行券のこと)は商品の本来持つ価値が債務証書として分離されて現れたものであり、国家紙幣とは全く質の異なるものである」と指摘している。

そして、政府紙幣は商品経済の外部から無理矢理導入された(貨幣外生論)ものであり、そうした異物が無制限にバラ撒かれると通貨の信認が著しく棄損される、という趣旨の主張を展開している。

【通貨の裏付けは空気みたいなもの】
だが、日本のみならず、おおよそ先進国の国民なら、中央銀行券の裏付けとか商品経済との関係なんかを気にしてお金を使うっている変わり者なんて、誰ひとりとしていないだろう。
欲しいものがあり、財布にお金さえ入っていれば、通貨の裏付けが何かなんて、いちいち気にせずに買い物をするだけだ。
現に、全国民が、政府発行の硬貨を毎日のように使っているではないか。
500円玉の信認を疑って、紙幣に両替しようとするバカなんて一度もお目にかかったことがない。

そもそも、政府紙幣の話をする時に、「政府紙幣=無制限なバラマキ」という前提で語ろうとすること自体が明らかなミスリードであろう。
政府紙幣の活用を訴える論者は、デフレ脱却の起爆剤として、あるいは、大規模な自然災害により破壊された社会資本の再構築のため、国家の根幹に係る社会基盤の不公正を是正するために必要な財源を調達すべきと主張しているのであって、太平洋を埋め尽くすほどの政府紙幣を発行しろなどと述べている者なんて一人もいない。

【中央銀行券と政府紙幣の違い~還流規則の有無~】
最後に、三点目の違いは、実体経済や金融経済への還流規則の有無についてである。

この点について、論文では、19世紀のインドの銀行家であるフラートンの論考を引用して、「銀行券を発行するのは銀行業者であるが、しかしそれを流通さすのは公衆一般である。だから公衆の協力を俟たなければ、それを発行する力も意思もともに無益である」と述べ、さらに、「銀行券は貸付けることによって流通に送り込まれるから、そのことは銀行券がまず流通の必要にもとづいて発行されるという関係を表わしている。(中略)また貸付の返済に当たっては銀行券でそれがなされる限り、紙券は流通から姿を消すことになる。こうして銀行券については発行銀行がその流通量を自由に増大させえない」とし、中央銀行券の発行量が一定の規律に縛られることを評価している。

一方で、「政府紙幣の場合は、発行した政府紙幣で直接的に財・サービスを購入するので、その時点で取引は完了する。将来の返済条件付きの資金供給ではない。供給された政府紙幣が還流することもあるが、それは当初の取引とは全く関係なく、政府紙幣所持者の独自の要因に基づくものである。つまり、政府紙幣は発行と還流が結びついたものでなく、独立している」とし、政府紙幣は一旦発行すると、永遠に経済の中を還流し続けるため、過度なインフレと結びつきやすいと懸念している。

【デフレ期には信用創造機能が停滞しがち】
率直に言って、重度のインフレ恐怖症患者による中央銀行券擁護論だとしか思えない。

特に、“銀行券がまず流通の必要にもとづいて発行される”の部分は、インフレ期の成長経済を前提とした前時代的思考であり、長期デフレにより金融機関の信用創造機能がクラッシュ気味の現代においては、もはや大きな意味を持つことはない。
その“流通の必要”とやらが、本当にあるのなら、市中銀行の預貸差が220兆円以上にも膨らむはずがないだろう。

発行した政府紙幣の量が気にかかるなら、景気過熱期に増税でもして、集めた紙幣を国債整理基金や大規模災害対策基金にでも積み立てておけばよい。

論文では、結びの部分で、「政府紙幣の発行は、信用関係の中で生成、消滅する信用通貨の基本原則を破るものであり、歴史を大きく元に戻すもの」と強く警戒しつつも、「仮に政府紙幣を発行するとしても、それは実質的に国債の発行かあるいは無利子・無期限国債の日本銀行引受けと同じもの」とも述べている。
実質的に国債と同じものなら、発行に何の問題もないはずだが、いったい何を主張したかったのだろうか。

【国民の責に帰すべきでない負の遺産を整理すべき】
我が国は、20年もの長期デフレに見舞われ、多くの国民や企業が塗炭の苦しみを味わってきた。
しかも、その間に断行された誤った経済政策や構造改革騒ぎ、行き過ぎた規制緩和により、人口構成はいびつに歪み、社会基盤や社会制度は完膚なきまでに破壊され、技術力を養成すべき雇用の場は国外に逃避してしまった。
その帰結が、少子高齢化や生産年齢人口の減少であり、年金・医療保険制度の瓦解であり、社会資本の老朽化であり、失業者や非正規雇用の増大である。

こうした国家の屋台骨を揺るがす負の遺産は、果たして、国民の責に帰すべき債務なのだろうか。
不況で弱り切った経済状態下で、積りに積もったゴミの山をコツコツ片づけるべきなのだろうか。

【社会的不公正是正のための財源としての活用】
筆者は、そうは思わない。

日本という国の置かれた事態が火急のものであればあるほど、たとえ、国民が支持してきたという事情があるとはいえ、歴代の政府が垂れ流した負の遺産をコツコツ返済する余裕など残されていない。
日本国民が将来を見据え、未来に向かって力強く成長していくためには、膨大に溜まった負の遺産を可能な限り、迅速かつ効率的に処理していく必要がある。

公的セクターでの正規雇用の拡大、社会保険料の国庫負担割合の引上げ、年金・医療保険への国費投入、老朽化した社会資本の更新費用の負担、将来の教育投資拡大に向けた教員の大幅な増員、教育水準や科学技術力向上のための大学予算の充実、痛みきった地方経済立て直しのための地方交付税の大幅な増額、警察・消防・自衛隊のレスキュー部門を統合し国民の生命を守る新たな総合レスキュー体制の新設、増加する自然災害を未然に防ぐための総合防災対策組織の新設等々、予算を使うべき分野は、数え上げればきりがないほどいくらでもある。

こうした国民生活の向上に資すべき事業を前向きに推進するための財源として、政府紙幣を躊躇わずに積極的に活用すべきである。
使えるカネをケチった挙句に、再生不能なレベルにまで経済が破壊されてしまえば、通貨の信認なんて呑気なことを言っていた過去を懐かしまざるを得ないことになる。
このまま生活レベルを落とし続けて発展途上国化したくないのなら、通貨の意味や役割を冷静に見つめ直すべきだろう。


(※)隔週日曜日に「進撃の庶民」というブログにコラムを寄稿しています。
(http://ameblo.jp/shingekinosyomin/)

2015年6月15日 (月)

卑しい思考から生まれる言説は、整合性の取れないものばかり

2015年1~3月期の実質GDP(2次速報)が前期比+1.0%(年換算+3.9%)と1次速報時より上方修正(設備投資の異様な修正値のおかげ)されたこと、4月の機械受注統計が前月比+3.8%と2ヵ月連続で増加したこと、さらに、昨今の株高と原油安傾向を受けて、“アベノミクスの成果が顕在化した”とか“デフレ脱却への道筋が見えた”と大騒ぎする連中が増えている。

だが、実態なきにわか景気に浮かれているのは、金融緩和さえ唱えておれば万事解決できると信じ込んでいる変わり者(リフレ派)だけではない。
6月10日に行われた第9回経済財政諮問会議の資料にも、誤った現状認識や経済認識の下に、更なる支出削減や改革を断行しようとする戯言が溢れ返っている。

会議に提出された「経済財政運営と改革の基本方針2015(仮称)」骨子案(未定稿)には、第1章の冒頭で、日本の経済財政の現状を鑑みて、「「三本の矢」の一体的な推進等により、我が国経済はマクロ、ミクロ両面でおよそ四半世紀ぶりの良好な状況を達成しつつあり、「デフレ脱却・経済再生」と「財政健全化」は双方ともに大きく前進」したと堂々と謳われている。

“四半世紀ぶり”とか“大きく前進”という大げさな表現を使うくらいだから、アベノミクスは、さぞや周囲の期待以上の大成功を収めたのだろう。
であれば、デフレ脱却に向けて見事緒戦に勝利を収めたのだから、その勢いを無駄にしないためにも、中長期的な成長の持続に向けて間断なき経済対策を打ち続け、20年近くにも及ぶ長期デフレにより喪失した莫大な国富を取り戻すことに全力を注ぐべき、というのが、どう見ても常識的な見解だと思う。

だが、三度の飯より財政再建や改革ごっこが好きな連中には、こうした常識は通じない。
先の骨子案には、“稼ぐ力”の強化やグローバル市場開拓の促進が謳われ、そのための手段としてTPPの早期妥結や女性や高齢者、外国人の活用という人件費切り下げ策が奨励されている。

また、骨子案の中で政府は、「財政と社会保障制度は現状のままでは立ち行かない。こうした状況の脱却のために、「デフレ脱却・経済再生」、「歳出改革」、「歳入改革」を3本柱として推進し、安倍内閣のこれまでの取組を強化」すると宣言している。

骨子案の「デフレ脱却・経済再生」や「経済再生なくして財政健全化なし」という言葉を捉えて、リフレ派の連中みたいに、安倍政権はデフレ退治に本気になっていると勘違いすると痛い目を見ることになる。

政府の意志が経済成長ではなく、間断なき歳出削減と改革ごっこの強行にあることくらい、骨子案から拾い集めた次のような文言を見れば一目で理解できる。

・政府はもとより広く国民全体が参画する社会改革として、「経済・財政一体改革」を断行
・今後5年間(2016~2020年度)を対象期間とする「経済・財政再生計画(仮称)」を策定
・歳出全般にわたり、安倍内閣のこれまでの取組を強化し、聖域なく徹底した見直しを進める
・歳入面では、経済環境を整える中で、消費税率の10%への引上げを平成29 年4月に実

・当初3年間(2016~18 年度)を「集中改革期間」と位置づけ、集中的に取り組む
・改革努力のメルクマールとして、2018 年度のPB赤字の対GDP比▲1%程度などを目安とし、歳出改革、歳入改革等の進捗状況を評価

「経済再生なくして財政健全化なし」なんていう台詞は、リフレ派みたいな“にわか安倍ファン”を安心させ離散させないための「まえがき」に過ぎない。
その台詞の次行以降は、ひたすら支出削減と改革のオンパレードだ。

この骨子案を読めば、安倍政権が「財政再建」を最重要課題とし、中長期的視野に立って支出削減と増税強化、改革断行をゴリ押ししようとしていること、今年度が財政再建と改革断行元年に位置付けられていることくらい、誰の目にも明らかだろう。
多くの国民が経済成長の入り口にも立てていないのに、早くも政府は出口戦略を探り始めている。

特に「歳出改革」の項目には、今後の経済成長の可能性に思いっきり冷や水を浴びせるような言葉が並んでいる。

聖域なき歳出見直しの美名(悪名)の下で、社会保障・社会資本整備・地方行財政改革・文教科学技術・外交・安保防衛などあらゆる支出項目を槍玉に挙げ、中でも、社会保障と地方財政は歳出削減の最重要ターゲットに指定されている。
地方創生を喧伝する同じ口で、地方への歳出を徹底的に切り詰めるというのだから、政策の整合性が全く取れていない。

社会保障は診療・介護報酬の見直し、社会資本整備は既存施設やソフト施策の最大限の活用、地方財政は地方間の予算の分捕り合戦の奨励、文教科学技術は少子化を前提とした教員数の削減などが強調され、経済成長を見据えた長期的かつ積極的な投資姿勢は微塵も見受けられない。

また、歳出カットとともに、公的サービスの産業化と銘打った幼稚な民営化促進策を盛り込み、新たな民間サービスの創出を促進するつもりのようだが、こんなものは、公的部門の民間事業者への切り売りでしかなく、政権に群がるお友達企業や子飼いの企業への単なる利益供与との批判を免れまい。(どうせ、パソナとか麻生大臣の直系企業を肥え太らすだけだろう)

総じて、今回の骨子案には、橋本政権と小泉バカ政権に民主党政権を掛け合わせ、悪い部分だけ抽出したような空理空論が並べ立てられている。
これでは、経済成長や経済再生なんて、とうてい無理だろう。
なぜなら、成長や再生の主要な栄養分となる財政支出が絞り込むことしか書かれていないからだ。
十分な食事を摂らずに、身体が元気になるわけがない。

安倍政権に始まったことではないが、政府のスローガンと個々の政策との整合性が取れないまま、基本方針や白書を堂々と世間に公表する悪例が目立つ。
こうした失態(本人たちは全く気にかけていないようだが…)が生じるのは、格好を付けて、自分たちの本音を素直に表現しようとしないからだ。

今回の骨子案も、「経済再生なくして財政健全化なし」とか「経済の好循環の拡大」といった心にも思っていないような文言を冠に掲げるから、文章の内容に矛盾が生じるのだ。
最初から素直に、「改革なくして財政健全化なし」、「財政健全化なくして経済再生なし」、「経済の好循環よりも身の丈に合った生活を」、「外需は善、内需は時代遅れ」と本音を語ればよい。

いまや、財政再建派や構造改革派は、国民の間でも圧倒的多数を占めているのだから、何も遠慮することはない。
大阪の中学生市長に無能呼ばわりされ、喜んで維新の会に投票するような規格外のバカが多数いる世の中なのだから、無理にいい子ぶることもない。

今後の政策にはアメなど一粒もなくムチばかりであること、「地方対地方・若者対外国人」という弱者同士の不毛な競争を眺めて楽しみたいこと等々、日ごろ思っている本音を国民に向かって堂々と語ればよいだろう。
ヤル気もないのに、経済再生とかデフレ脱却といった見栄えの良い言葉で、薄汚い本音を糊塗する必要はない。

最後に、この骨子案を眺めて気付いたことがある。
それは、アベノミクスの第一の矢であり、経済政策のメインストリームであるはずの「金融緩和政策」への言及がほとんど無かった点だ。

骨子案を隅から隅まで凝視して、ようやく最後の方(第4章)に「日本銀行には、経済・物価情勢を踏まえつつ、2%の物価安定目標を実現することを期待」という、とってつけたような一言を発見できた。

政府の関心は、完全に、経済成長ではなく歳出削減と改革ごっこに向けられており、金融緩和政策に期待されている役割は、せいぜい、景気に対する政府の配慮を演出するための“刺身のツマ”程度でしかない。

リフレ派は、経済成長という目標を捨てて構造改革派に転向するつもりなら別だが、政府の経済運営方針を冷静に分析し、安倍政権との距離感をいい加減に見直すべきだ。
経済成長よりも財政再建や構造改革を平気で優先させるような政権の飼い犬に甘んじるのなら、「リフレ派」という名称を返上すべきだろう。

(※)隔週日曜日に「進撃の庶民」というブログにコラムを掲載しています。(http://ameblo.jp/shingekinosyomin/)

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