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2015年12月

2015年12月31日 (木)

エビデンスなくして景気回復を妄信するバカ者たち

今年最後のブログを書くに当たり、年末になって急に飛び込んできた「慰安婦問題の日韓合意」の件に、少しだけ触れておく。

 

本件に関して筆者は、

・なぜ、この時期に、韓国との間で急な交渉に踏み切る必要があったのか。

・本件は、国民や国会での議論や合意なくして、一内閣が頭越しに独断で交渉すべき問題ではない。

・合意内容に関わる細々した議論(多くの国民は、そんなものには興味を持っていない)はさておき、日本が韓国側の要求を飲まされたという見方が国内外で大勢を占め、安倍氏は、日本の立場をさらに悪化させたとしか言えない。

という見方をしている。

 

多くの安倍信者やリフレ派の連中は、さっそく、安倍氏の打った失着(=敗着)のフォローに奔走しているようだ。

「最終的かつ不可逆的に」解決するという合意を取れたことは成果だ

約束を破って国際的な非難を浴びるのは韓国の方だ

アメリカへの配慮と中国の策動がある中で安倍首相はよくやった

韓国内の世論に楔を打つことができた

などと、懸命にフォローし、負け試合の中にも一筋の光明があったと必死に訴えている。

 

だが、安倍氏が、全ての元慰安婦に対し「責任を痛感し、心からのおわびと反省の気持ちを表明する」ことを明らかにし、10億円という泥棒への追い銭まで拠出する以上、日本側が韓国の主張を受け容れ非を認めた、と受け取るのが自然で、合意文書の細かい文言やニュアンスを取り上げて、日本側の実質的な勝利だとゴネたところで、日本側が慰安婦問題の非を認めたという結果(=日本の敗戦)が覆ることはない。

 

試合には負けたが、戦術では負けていないと駄々をこねる負け狗の遠吠えが空しく響き渡るだけだ。

 

事実、(韓国側に強いシンパシーを持つ)新聞各社が、歓迎ムードの論調で本件を報じており、年明けにでも世論調査すれば、今回の醜悪かつ安易な妥協を「評価する」意見が多数を占める(=日本側の非を認める)だろう。

 

テロリストには屈しないが、強請り・たかりには弱腰で妥協するような腰抜け首相と、そんな下賤な男を支持する連中は、日本人の誇りに平気で唾を吐くような売国奴でしかない、とだけ言っておく。

 

 

さて、肝心の我が国の経済は、相変わらず長引く不況から脱し切れずにいる。

というより、さらに悪化しているのではないか。

 

1225日に総務省から公表された『家計調査(二人以上の世帯)平成2711月分速報』では、

1世帯当たりの消費支出は273,268円と実質▲2.9%(前年同月比、以下同じ)、名目▲2.5%

・勤労者世帯の実収入は425,692円と実質▲1.8%、名目▲1.4

となり、いずれも、3ヵ月連続で前年同月比マイナスを記録してしまった。

しかも、これは単なるマイナスではない。

 

比較対象となる平成26年は、消費税増税の悪影響もあり、通期の実績値で、1世帯当たりの消費支出が平成25年比で実質▲2.9%、勤労者世帯の実収入が実質▲0.7%、名目▲3.9%と、大幅な落ち込みのあった年である。

 

今年の値は、その最悪だった平成26年と比較しても、さらにマイナスという惨状なのだ。

ちなみに、今年の111月の間で、実績値が前年を上回ったのは1世帯当たりの消費支出は5月と8月の2回だけ、勤労者世帯の実収入は48月の5回だけで、残りは全てマイナスを記録しているという有り様だ。

 

中でも、「被服・履物」や「教養・娯楽」といった景気の波の影響を受けやすい不要不急な品目の落ち込みが目立つ。

 

世の中には、大企業を中心とした好決算のおかげで景気が回復している原油価格の大幅な下落にもかかわらずコアCPIやコアコアCPIの値はそれほど下落していない金融緩和政策を継続すればGDPや税収も飛躍的に伸びてゆくだろうなどと、間抜けな楽観論を語る者もいる。

 

彼らが何処の国の指標を指してモノを言っているのかは解らないが、家計は娯楽関連の支出を抑える防御フォーメーションを敷き、すっかり財布の紐を締めあげガードを固めており、景気回復どころか、家計には、ますます余裕が無くなっていることが窺える。

 

事実、今月28日に公表された共同通信社による世論調査では、アベノミクスにより景気が良くなったと「実感していない」という回答が73.7%と、「実感している(23.6%)」の3倍以上にも上っている。

しかも、自民党支持層の58.7%、公明党支持層の67.0%が「実感していない」と答えたというオマケつきで、与党支持層の大半からも厳しい評価を下されているようだ。

 

アベノミクスが成功を収めたとデマを強弁する連中は、景気回復を実感していないと答えた多数派の庶民に向かって、「景気は回復しているはずだ。嘘をつくな」と自信を持って説教&抗議すべきではないか。

 

筆者が、景気回復を疑う理由はもう一つある。

それは、ここ数年、国内の電力需要が、対前年比マイナスで推移しているからだ。

 

電気事業連合会が1130日に公表した『201510月分 電力需要実績(確報)』では、電力大手10社の電力需要の総計は612kWhと前年同期比▲4.0%と大きく落ち込んだ。

 

用途別に時系列で見ても、今年の4月と8月に、電灯など一部の用途でプラスを記録したものの、その他の月では、ほぼ対前年同期比でマイナスになっている。

 

ちなみに、今年の販売電力量合計値の推移を見てみると、今年4月の+0.1%(たったの0.1%!)以外は、全てマイナスで、10ヵ月のうち7ヵ月で3%近い、もしくは、34%もの大幅なマイナスを記録している。

 

しかも、比較対象となる前年は、前々年と比較して▲3.0%という低いレベルでしかなく、それと比べてさえ、マイナスになっているという体たらくである。

 

特に、産業用需要の大口電力は今年10月の実績が対前年同月比▲3.6%18ヵ月連続で前年実績を下回っている。

中でも、「紙・パルプ」や「鉄鋼」、「窯業・土石」などの落ち込み幅が目立つ。

 

原発再稼働の遅れに伴う電力料金高騰の影響から、製造各社が省エネに取り組んでいる影響も多少はあるだろうが、そんなものでは説明がつかないほど電力消費の落ち込みは続いている。

 

一部には、国内の設備投資の伸びを過大評価する向きもあるが、恐らく、老朽化した既存設備の更新需要が主体のコスト・プッシュ的な投資であり、生産増加を睨んだ前向きの投資は一部に限られるのが実状だろう。

 

国力の源泉となる高度な技術力やサービス供給力を維持向上させ、そこから産み出される富を国民が広く享受するのが経済の基本形である。

そのためには、経済を成長させ続けるのが当然であり、ここ20年余りの日本経済のように、景気低迷や後退を続けることは罪以外の何物でもない。

 

成長こそが唯一無二の結論であり、低迷とはゼロやイーブンではなく、総体的なマイナスでしかない。

いわんや、後退なんて、ありえない、というより、あってはならない異常事態である。

 

現在の日本経済を俯瞰して、回復基調にある、とか、経済は強めに見て良い、などと寝ぼけたデマを流すバカ者は、顔を洗ってマクロ経済の意味をよく噛みしめるべきだろう。

 

ありもしない楽観論で耳を塞ぎ、適切な財政金融政策から逃げ回っているうちに、我が国の経済構造が、取り返しのつかないほど壊滅的に棄損される日は、そう遠くないだろう。

2015年12月26日 (土)

最低賃金1500円を拒絶する人たちが勘違いしていること

12月13日に、東京都内で、最低賃金1500円(時給)の実現を求めるデモが行われ、主催者発表で500人が参加したそうだ。

毎日新聞の記事によると、デモに参加した若者は、政府が掲げる最低賃金1000円への引き上げでは生活苦は解消されないとして、、「最低賃金今すぐ上げろ!」「中小企業に税金回せ!」などと訴えながら、約1時間半かけてJR新宿駅周辺などを練り歩いたとのこと。

我が国の最低賃金は、ほとんどの地域で、いまだに700~800円台でしかなく、生活保護以下の待遇だと揶揄されて久しい。
毎年の引き上げ幅も、せいぜい、20円程度で、政府が目標とする1000円という数字に届くまで、あと10年以上は掛かるだろう。

毎日フルで働いても、月20万円にも満たないようでは、まともな生活は望めず、生活保護でも受けた方が、確かにマシだろう。

国内のパートやアルバイト人口は1300万人以上にもなり、共働き家庭も多いだろうが、バイト収入を家計の柱にせざるを得ない層の人口もかなりの数に上るはずだ。
しかも、長引く不況の影は一向に消え去る様子もなく、不安に駆られた若者が、こうした最低賃金引き上げデモを通じて自らの苦境を訴えるのも当然のことだろう。

しかし、世の中には、彼らの心情を平気で踏みにじろうとするバカな論者も存在している。

『最低賃金1500円を要求する人たちが勘違いしていること。~アメリカが時給15ドルを実現出来る理由~』(中嶋よしふみ シェアーズカフェオンライン編集長 ファイナンシャルプランナー)
http://bylines.news.yahoo.co.jp/nakajimayoshifumi/20151216-00052487/

成長限界論に侵された中嶋氏の愚論については、上記のコラムをご覧頂ければと思うが、氏の主張は次のとおりだ。

・時給アップのような問題は生活保護や介護保険など公的な社会保障でサポートすべき

・今回のデモは労働者から搾取する企業にダメージを与えるべき、最低賃金を上げて企業から金を吐き出させるべき、という意図が見え隠れする

・給料は労働の対価である

・正社員の給料も低い。誰かが暴利を貪っているとか、経営者が搾取しているなんてあり得ない。

・大きな利益を得ている経営者や株主の利益を広く薄く非正規雇用者にばらまいたとしても、上げられる時給はほんの数%に過ぎない

・日本は経済大国で豊かな国、というセルフイメージがすでに勘違い。貧乏な国で所得が低いのは当然の話。所得を上げるには経済成長をすれば良い

・アメリカ並みにゴリゴリの資本主義を実現して最低賃金を1500円に上げるべき

まず、所得を上げるには経済成長が必要だと言いながら、(所得アップを源泉とする)時給アップは公的な社会保障でサポートしろ、という主張は完全に矛盾している。

経済成長で企業の売上や収益が上がり、労働者の所得を上げられるのなら、政府は、それを実現させる経済政策を真っ先に打つべきだろう。

だが、現実には、経済界が政府に要求するのは財政再建とか構造改革ばかりで、労働者、ひいては国民の所得向上につながるような努力を全くしていない。

労働分配率UPに対する企業側の努力や姿勢が確認できない状態で、時給アップをすべて社会保障に丸投げする、というのは、あまりにもだらしなく図々しい主張ではないか。
氏は、企業が労働分配に対する努力を放棄して、社会保障という名の国民負担にフリーライドしたい、と言っているに過ぎない。

しかし、社会保障でカバーするということは、結局、消費税増税等に財源を求めることにつながり、国民総体で考えれば、右のポケットから出して支払った税金を左のポケットに収入として入れ替えるだけのことだろう。

氏は、バイトの賃金を上げるなんて到底無理だと言い切っているが、果たしてそうなのだろうか?

パートやアルバイト従事者の賃金総額を集計するデータを見つけることはできなかったが、国税庁の1年未満勤続者の給与額を基に計算すると、全国1347万人のパート・アルバイト従事者の年間給与総額は9.3兆円ほどと推計される。(一人当たりの年収は69万円ほど)

これが最低賃金1500円に上昇した場合、労働コストが、およそ7~8兆円増加すると見込まれる。

一方、国内企業の売上総額は、H25国税庁のデータで1493兆円、利益計上法人の利益額49兆円、益金処分金額は66兆円にも上り、うち33兆円が内部留保され、15兆円が配当として支払われている。
個々の企業の事情を考慮する必要はあるだろうが、総体の数字で見ると、7~8兆円程度のコストを捻出する余裕は十分にあるだろう。

また、中嶋氏は、“アメリカ並みにゴリゴリの資本主義を実現して最低賃金を1500円に上げるべき”なんて無知を曝け出している。

ちなみに、世界の時給ランキングを確認すると、1位オーストラリア1144円(税引き後の手取りベース、以下同じ)、2位ルクセンブルグ1108円、3位ベルギー1028円、4位アイルランド1015円、5位フランス988円、6位オランダ984円と続き、当のアメリカは11位で751円、日本は662円とG7諸国の下から2番目という寂しい結果となっている。
ランキングを見ると解かるように、上位の国に“ゴリゴリの資本主義”に徹している国なんて見当たらない

本当の競争に身を置いた経験のない田舎者ほど、資本主義とやらに妙な幻想を抱いているものだが、中嶋氏もその類なのだろう。

氏は、日本はもはや豊かな国ではなく、貧乏な国の人の給料が低いのは当たり前だなどと、大きな勘違いをしているようだ。
日本(というより日本国民)が豊かになれないのは、日本の経済構造が内需依存であることを無視して、国にあっては緊縮政策を強要し続け、また、企業にあっては労働分配率を下げ非正規雇用を増やし続けたことにより、内需の源泉となる経済基盤を破壊してきたからに他ならない。

企業が労働の対価として、先進諸国と比べて恥ずかしいほど低い給料しか支払えない(支払わない)のは、単に国民に負担を押し付けて甘えているだけのことだ。

中嶋氏も、曲がりなりにも“所得を上げるには経済成長をすれば良い”と口にしている(筆が滑っただけだろうが…)のだから、斜に構えて企業の太鼓持ちをするような真似をせず、マクロ経済を成長させるための適切な経済政策と分配構造の整備を訴えるべきだろう。

2015年12月25日 (金)

結局は、バラマキが最も効率的かつ効果的

12月18日に各省庁の平成27年度補正予算案が閣議決定された。
今回の補正予算の総額は約3.5兆円と、疲弊したマクロ経済を下支えするにはあまりにも少額(少なくとも15兆円くらいは必要だろう)で、政策の内容も1億層活躍社会とかTPP対策という表看板とは裏腹に、既存予算の付け替えでしかないものが目立つ。

特に、国内での議論や批准手続きをすっ飛ばして、TPP対策を先行させ既成事実化しようとする政府・与党の動きには強い批判を浴びせたい。

国策として本気で「強い農業」や「中小企業の海外展開」を志向するなら、TPPという踏み絵をわざわざ踏ませずとも、お得意の成長戦略の一環として、きちんと予算措置すればよいだけの話だ。
本来なら、農業の強化や中小企業の育成は、「対策」ではなく「政策」として位置付けられるべきものだろう。

先日、「政府が国内総生産(GDP)を実質で約14兆円(約3%)押し上げるとの試算を取りまとめる方針」だと報じられた(たぶん10年換算での試算だろう)が、2013年3月に行った試算では(10年換算で)3.2兆円に過ぎなかったことを考えると、異様な数字のマジックとしか映らない。

前回試算から3年も経たないうちに、日本の産業構造が大きく変化したわけではなかろう。
なのに、TPPのような内需にとって毒性の強い政策の効果が4倍以上に膨らむなどありえない。
先に改竄された7~9月期のGDP改訂値と同様に、政府が意のままに数値を弄るようでは、中国のような独裁国家と何ら変わりがない。

さて、今回の補正予算の中でも、農水省の「産地パワーアップ事業」が、緊縮主義者や構造改革主義者の連中から強い非難を浴びせられている。

「産地パワーアップ事業(予算額505億円)」の概要は、『地域一丸となって収益力強化に計画的に取り組む産地に対し、計画策定経費、計画の実現に必要な農業機械のリース導入や、集出荷施設の整備に係る経費等をすべての農作物を対象として総合的に支援』するというもので、基金を造成し複数年度にわたる事業を可能にする点が特徴だ。(助成率は1/2、助成額の上限は未定)

週刊ダイヤモンドは11月30日付の記事で、「TPP農業対策で選挙向けバラマキ予算投入の矛盾」という記事を掲載し、それを受けて、幾人かのブロガーが批判記事を書いている。

ダイヤモンドの記事によると、彼らの主張の概要は次のとおりだ。

・これまで、生産施設の整備で補助金をもらうには、施設を使う農家5戸以上がグループ化する必要があった。産地パワーアップ事業の特徴は、“個人の施設整備への補助”という禁断の領域に踏み込んでいる。

・補助金のバラマキにより、本来は離農するはずだった農家まで田植え機などを購入してしまい、その結果、コメをはじめとした非効率な農業の構造が温存される。

・政府は全農地の8割を担い手農家に集めるため、2年間で1000億円以上の予算を投じている。その一方で、農業の大規模化を妨げる産地パワーアップ事業を立ち上げるのはまさにマッチポンプだ。

・農協最大の関心事であるコメの生産に使える産地パワーアップ事業では、農協が積極的に旗を振ることは間違いない。(中略)補助金で施設整備する農家に農機などを売り込み、利益を上げてきた経緯もある。

要するに、“ゾンビ農家を生き残らせてしまう選挙対策のバラマキをやめろ”と言いたいのだろう。

だが、筆者の考えは彼らの主張とは180度異なる。

およそ、補助事業なんてものは、チャレンジする者が多くいないと意味がない。

従来の農業者向け施設整備補助事業は、3~5戸の連携が義務付けられてきたが、農業者の実態とは全くマッチしていない愚策と言えよう。

“大規模化”の美名の下に、抱えている事情も資力も異なる農業者を無理やり寄せ集めても、事業が上手く行くはずがなかろう。
農業者なんて、元々、一匹狼で独立心が旺盛な人種ばかりだから、連携を無理強いしても、事業費の分担や出荷する農産品や商品などのブランド化の方向性を巡り仲違いするのがオチだ。

国が推進する6次産業化の総合化事業計画の認定を受けた農業グループの事例でも、連携の美しい仕組み図は描けても、その後の運営がクラッシュしてしまった事例がかなり多くあると聞く。

せっかく予算を付けたのだから、門前であれこれと無茶な要件を課すのではなく、広く門戸を開放し、提案の質を競わせればよいではないか。

単なるバラマキになるのを避けようと補助事業にいろいろな要件をくっつけるのは、役所の悪い癖だ。

補助金にチャレンジする農業者や事業者が、要件に合わせて自らの事業計画を捻じ曲げねばならないとしたら、それこそ本末転倒だろう。

今回採り上げた産地パワーアップ事業には、要件が緩すぎるという批判があるようだが、裏を返すと、多くの農業者にチャンスが与えられている、ということだろう。
チャレンジする者の数が多いほど、そこに提案される事業計画の質のレベルも向上し、結果として、事業実施後の成果が上がる確率の向上にもつながるものだ。

厳しい補助要件に守られた純粋培養案件よりも、バラマキだと非難されるくらい緩い要件の中で激烈な競争を勝ち抜いた案件の方が、事業化の確率は間違いなく上がるだろう。

2015年12月24日 (木)

存在感を失いつつある黒田バズーカ


『「バズーカ3」は不発、追加緩和か迷い相場乱高下(ロイター 12月18日(金)16時41分配信)』
“黒田日銀が再び市場の意表を突いた「バズーカ3」は不発に終わった。上場投資信託(ETF)の新たな買い入れ枠設定など量的・質的金融緩和(QQE)の強化策を打ち出したものの、マネタリーベースの目標額は据え置き。市場は追加緩和なのかどうか迷い、日本株やドル/円<JPY=EBS>は乱高下した。日本経済に与える効果も疑問視され、金融政策の手詰まり感がより鮮明になってしまったとの指摘が市場で広がっている”

12月18日に日銀の金融政策決定会合の結果が公表されたそうだが、“バズーカ砲が炸裂した爆音すら聞こえなかった”というのが正直な感想だ。
筆者も、個人的に業務が多忙な時期でもあり、黒田バズーカ第3弾が発射されたことすら気付かなかった。

事前予想では、今回の会合で大きな動きはないという見方が大勢を占めていたせいか、株式市場はサプライズ感に突き動かされ、一時は500円高まで上昇したが、次第に、バズーカ砲の中身は大したことがないと冷静に受け止められ、結局、900円近い乱高下を繰り返した挙句に300円を超える下げ幅で取引を終えた。

今回決定された内容は次のとおり。

・マネタリーベースが、年間約80兆円に相当するペースで増加するよう金融市場調節を行う。
・ 長期国債について、保有残高が年間約80兆円に相当するペースで増加するよう買入れを行う。買入れの平均残存期間は、本年中は7~10年程度、来年からは7~12年程度とする。
・ETFおよびJ-REITについて、保有残高が、それぞれ年間約3兆円、年間約900億円に相当するペースで増加するよう買入れを行う。
・CP等、社債等について、それぞれ約2.2 兆円、約3.2 兆円の残高を維持する。

総じて「バズーカ砲」と称するには、あまりにも小粒な内容で、せいぜい、モデルガンから発射されたBB弾程度がいいところだろう。

シティグループ証券・チーフエコノミストの村嶋帰一氏も、「わかりやすい金融緩和策によって、国民や市場の期待に働きかけようとしたのが、黒田日銀のやり方であったはずだ。しかし、今回の強化策はあまりにわかりにくい。手詰まり感さえ感じられてしまう」と評している。

日銀のETF(上場投資信託)購入に関わり新たに設定される3,000億円の枠は、設備・人材投資に積極的に取り組んでいる企業の株式を対象にするそうだが、いかにも表層的なやり方であり、大した効果は見込めないだろう。

そんな靴の上から足を掻くような遠回しな施策ではなく、政府が3,000億円分(この10倍の金額でもよいが…)予算措置し、設備投資(資金力の弱い中小企業を中心に)や中途人材雇用(特に、就職氷河期に被害を被った人材の雇用)に取り組み、日銀がその分だけ国債を買い増しすればよいだけだ。

もはや、日銀の金融政策は完全に行き詰っている。
というよりも、積極的な財政政策による新規国債の増発に裏打ちされない状態を余儀なくされた時点で、行き詰ることが運命づけられていた、と表現する方が正確かもしれない。

現状の異次元金融緩和政策は、既発債の持ち主を機関投資家から日銀へと移管し、国債を実質的に無効化する効果しかない。
これはこれで、重度の借金恐怖症に陥った不勉強な国民を黙らせるには、大変大きな効果なのだが、日銀が保有する国債額の分だけ政府債務額がレスされるという“常識”が、未だ、世間一般に浸透していない状況では、こうした成果が評価されることもない。

異次元金融緩和政策の手柄であったはずの“円安効果”も、昨今の輸出総額は、せいぜい、一時的な微増程度(1年前と比較すると微減)に止まり、過去のピークには遠く及ばない状況では、効果と呼ぶべきかどうかも怪しいレベルだ。
むしろ、輸入物価の高騰を招くだけの厄介者扱いされてもおかしくない。
過度な円安さえなければ、食料品価格の高騰が抑えられ、昨今の原油安効果も更に増幅されたかもしれない、とも言える。

日銀は、ETFやJ-REITを買って自己満足している場合ではなかろう。こんなものをいくら買っても実体経済は刺激できない。
金融政策は、一部の市場関係者を喜ばすためにやるものではない。
いい加減に金融政策の限界を認め、実体経済を直接刺激するために積極的な財政政策を並行して行うよう、政府に対して救難信号を発すべきだ。

さて、話は変わるが、先日、北海道の札幌市に出張する機会があった。
予想に反して積雪が少なかったこともあり、地元の方との間で、市内の除雪に関する話題になった。

札幌市は、豪雪地帯に属していながら200万人近い人口を有する世界的にも稀な大都市であり、昨年度の雪対策費は180億円にも上ったそうだ。
(うち道路などの除排雪費が128億円、ロードヒーティングなどの雪対策費が52億円)

地元の方の話によると、毎年1mを優に超える積雪に悩まされる市民にとって、何より望んでいるのは「除雪ではなく排雪」だそうだ。

除雪とは、道路に積もった雪を除雪用のローダーなどの車両を使って道路脇に掻き分ける作業を指す。

素人目には、交通網維持のためにはこれこそ大事な作業では、と疑問に思ったが、除雪作業といっても、結局は、道路に積もった雪を搔いて、それを歩道や個人宅の玄関前に積み上げる作業でしかなく、積雪があった翌朝(除雪作業はたいがい深夜から早朝に行われる)に、自宅前に大量に積み上がった土砂のような雪を見て、市民はうんざりさせられるそうだ。

憐れな市民たちは、米俵にして10数個分もの大量の雪を、出勤前の早朝から、自宅の裏庭、近所の公園や空き地などに、スノーダンプ(雪を積んで運ぶソリのような道具)を使い、せっせと運ぶことになるのだが、固く締まった上に除雪作業で削られた雪は、まるでレンガのような重さで、1軒分を除雪するのに1時間以上もかかり、汗だくになるそうだ。

確かに道路はきれいになる(地元の方に言わせると、除雪後の道路は滑りやすく危ないとのこと)が、道路の雪が歩道や個人宅前に移動しただけで、市街地にある雪の総量に変化はない。
つまり、端的に言うと、道路にあった雪を市民に片付けろと言っているようなものだ、という受け止め方なのだそうだ

街区に積もった雪を各所の設置された排雪場に捨てることになる“排雪作業”とは異なり、除雪作業は、間に除雪という行為を挟んでいるとはいえ、その中間作業をカットすると、道路にあった雪を個人がせっせと片付けさせられていることになる。

こうした除雪作業のように、交通網の維持という一定の効果は認めざるを得ないものの、市民にとっては有難迷惑な存在でしかないところは、予算や政策規模の割に国民に益をもたらさない現在の金融緩和政策と共通していると言えよう。

日銀幹部やそれを応援するリフレ派の連中は、これまでの異次元金融緩和政策が経済成長に役立っていると盲信しているようだが、それが実体経済を直接的に刺激し、国民一人一人の所得向上につながっているのかを、冷静に分析し真摯な気持ちで反省すべきだ。

黒田バズーカ砲などと称賛され、市場関係者と内輪でハシャギ合って満足するのではなく、マクロ経済全体を俯瞰し、実体経済を刺激するよう政府と強調すべきだ。

中央銀行が、国債の最大の引き受け手となり、政府・与党が積極財政を行う上での無制限の後ろ盾になり続けること、並びに、政府債務の実質的な削減に協力し続けることを堂々とアピールすれば、市場関係者だけではなく、国民や企業の凝り固まった意識が、根底から覆されるだろう。
(その前に、囂々と非難を浴びるだろうが…)

そうでもしない限り、緊縮政策と財政再建にしか興味がない政府・与党の連中や年がら年中借金恐怖症に駆られている国民が目を覚ますことはあるまい。

筆者は、日頃から、金融政策偏重気味の異次元金融緩和政策には批判的な立場を取っているが、経済成長を目的として、日銀がインフレターゲット政策を採用したこと自体は、画期的な取り組みとして評価すべきだと考えている。

問題なのは、その目標が、実体経済を直接的に刺激する施策から乖離していることだろう。それは、P.クルーグマンが主張するように、インフレターゲットの目標値を2%から4%に引き上げれば済む、というものではない。

国民や企業が、経済成長に強い確信を抱き、そこからもたらされる果実を、より具体的に実感できるよう、所得水準や雇用条件(特に、正規雇用の割合向上)から民間企業の業績水準にまで踏み込んだ目標を設定し、政府に協力を強く求めるべきだろう。

日銀は、国民や企業に対して、木で鼻を括ったような目標を掲げて満足するのではなく、実体経済を直接的に刺激するよう、より積極的に取り組むべきだ。

2015年12月18日 (金)

苦悩するの罪人だけでよい

『裁判員事件で初の死刑執行 川崎の大家ら3人殺害の津田寿美年死刑囚ら2人 岩城法相が命令』(産経新聞2015年12月18日)
「確定判決によると、津田死刑囚は21年5月30日、住んでいた川崎市幸区のアパートで、大家の柴田昭仁さん=当時(73)=と弟の嘉晃さん=同(71)=夫妻の3人を包丁で刺殺した。」

裁判員裁判により死刑判決が下された事件で、初めて死刑が執行された事例のニュースが大きく報じられた。

とは言っても、バカマスコミ各社の報道ぶりは、裁判員の適正な判断に基づき、社会のクズが処断され、当然の報いを受けた、と歓迎するものではない。

「裁判員の苦悩」、「悩みぬいた末の判断、重い胸中を激白」などと、死刑判決を下したことが、裁判員の方々にとって重篤な心理的負担を与えていると過剰に報じ、死刑判決を下すこと自体が悪であるかのように誘導している。

こうした偏見に満ちた報道が、現に裁判員に任じられている方や、これから任じられる方に大きなプレッシャーを与えることは想像に難くない。

なにせ、生真面目かつ小心な日本人のことだから、こうした外部からのプレッシャーに動じて、凶悪事件の被告人に厳罰を科すことを躊躇したり、萎縮したりする恐れが多分にある。

「裁判員になって被告に死刑判決を下してしまうと、こんなに後味の悪い思いをさせられるのか」という気になるだけで、正常かつ適切な司法判断を下すのが難しくなるだろう。

本件を報じた毎日新聞の記事でも、『20代の男性は「反省しているように思えたが、いろいろ考えた末の判決。自分たちが選んだ判決でこの人は亡くなってしまうんだとつらい気持ちだった。(判決を)心の片隅に置いて生きていきたい」と振り返っていた。心の負担については「人の命を決めるので、一般市民には重たい決断だった」とした。別の男性会社員も「精神的に大変だった。こういう判断をしていいのかという気持ちもあった」と話した』と、“死刑判決=裁判員にとって心理的に重い負担となる”ことを、これでもかと強調し、暗に、死刑判決を避けるようプレッシャーを与える内容になっている。

筆者は、刑事事件の裁判や量刑に関して、「被告の反省の度合い」が話題になったり、量刑の判断材料になったりすることに、いつも強い違和感を覚えている。

罪を犯した者が“反省したり後悔したりする”のは、至極当然であり、別段、褒めるに値する態度や行為ではない。
刑事罰に問われた者が後悔するのは当たり前のことで、いわば、義務みたいなものであり、それをしたからといってプラスに評価する必要などない。
まったく反省の態度を見せないゴミ屑に対しては、その分だけマイナス評価を加算すればよいだけのことだ。

毎日新聞の記事によると、『確定判決によると津田死刑囚は09年5月、川崎市幸区のアパートで、ドアの開け閉めの音に恨みを募らせ、同じアパートに住む夫婦と大家の男性の計3人を殺害した。裁判員裁判の初公判で起訴内容を認め、被告人質問で「命で償うしかない。死刑囚と思って生活している。申し訳ございません」と謝罪し、死刑を求刑された後の最終意見陳述でも「極刑は覚悟しています」と述べていた』そうだが、こうした態度を“殊勝なこと”と取るか“当たり前のこと”と取るかにより、考え方は変わってくるだろう。

しかし、刑事事件量刑を考えるうえで最も考慮すべきは、事件により最も不利益を被った被害者の不幸や境遇を最大限に憐れみ、それを引き起こした被告を可能な限りの厳罰に処すことである。
そのことが、被害者側関係者の応報感情を幾分かでも和らげるとともに、犯罪という憎むべき行為に対する適切な制裁の在り方を社会に示すことになる。

通常の裁判と裁判員裁判との量刑の軽重を比較した資料によると、性犯罪や殺人に関する量刑13年未満の判決について、裁判員裁判の方が重い量刑を下しているようだが、それ以上の量刑(懲役15年以上、無期、死刑など)については両者とも大きな違いは見受けられない。
(http://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_soc_saiban-trialstaff-ryokeibunpu)

裁判員に任じられた方は、バカマスコミによる“裁判員裁判=量刑が重い”という間違ったイメージに踊らされることなく、良心や社会常識に照らして、是非とも適正な判決を下してほしいと願う。

そもそも、裁判員制度が導入された意義は、検察が求刑した量刑に対して裁判官が7~8掛けの判決を機械的に下したり、殺人を犯しても被害者が複数でなければ死刑判決を下さないという “永山基準なる自主規制”を許可もなく定め、国民感情を無視し、唾を吐きかけるかのような勝手な振る舞いをしてきた“司法ムラの悪習”を是正することにあったはずだ。

裁判員は、憎むべき殺人事件を犯したクズに死刑判決を下すことに、萎縮したり、注書したりする必要は1ミリもない。
さらに、判決を下した被告の刑が執行されたからといって、動揺したり、衝撃を受けたりする必要などまったくない。

重大な事件がもたらした痛みや苦悩を一身に引き受けるのは、被害者御本人や家族、知人の方々はおろか、何の関係もない裁判員まで巻き込むに至り、そういった関係者に多大な不利益や心理的負担を与えた犯罪者(社会のクズ)だけで十分だろう。

2015年12月16日 (水)

嫉妬や嫉みという負のエネルギーが経済を衰弱させる


『貧すれば鈍する』ということわざを、最近ほど強く意識させられることはない。

ことわざの意味は、「貧乏をすると、毎日その生活のことばかり考えるようになるから、人は知恵や頭の回転が衰えてしまい、賢い人でも愚かになるという意味。また、暮しが貧しくなれば、心までも貧しくなるものだということ(故事ことわざ辞典より)」だそうだ。

これは、昨今、常総市の災害処理に関わる市役所職員の残業代にケチをつけたり、公務員給与が上がったと騒ぎ立てたりする連中の賤しい妬み根性そのものであろう。

“暮しが貧しくなれば、心までも貧しくなる”とは、よく言ったもので、自分たちの生活の苦しさを理由に、何の関係もない人間の給料や待遇に、ぐずぐずとクレームをつけるとは何事か。

不況が長期化し、国内労働者の給料が低迷を続ける真因は、どう考えても、緊縮財政と構造改革路線をひた走り、実体経済の活性化を怠り続けてきた政治や財務省(ここだけは公務員の端くれと雖も特に強く非難すべき)の誤った経済政策にある。
そして、こうした逆噴射政策に熱狂的な喝采を送ってきた“庶民”そのもののせいであることは疑いない。

橋本行革、小泉バカ政権の構造改悪騒ぎ、民主党政権時の事業仕分け、安倍政権が進める消費増税やTPP・財政再建計画等々、自らの雇用を不安定化させ、収入減に直結する猛毒政策を進んで歓迎したのは、どこの誰なのか?
まさか、公務員に無理やり強要されたとは言わせない。

中には、公務員を“上級国民”と揶揄し、彼らの年収(社保込なのかどうかは不明)が40歳前半で700万円を超え、民間と比べて高過ぎる、と文句をタレるのもいる。
(年収700万円といっても、家族や住宅ローンを抱えていれば、決して楽な生活ではなかろう…)

しかし、公務員給与が上がったといっても、先の震災時に減額を強要された分が戻った、あるいは、地方公務員が数年、もしくは、十年以上前から自主的に給与削減に取り組んできた分の削減率が、少々緩和された程度に過ぎない。
(筆者の知り合いの地方公務員は、10%の削減率が9%に緩和されたと苦笑いしていた)

この程度のことで上げ足を取られて、さも、給料がぐっと上がったかのように過大に喧伝されては、公務員たちも堪らないだろう。

我が国のGDPは、橋本行革が始まった1997年をピークにずっと低迷が続いており、GDPの動きと改革ごっこや緊縮気味の財政運営との関係性には、強い逆相関性が見て取れる。

馬鹿げた経済政策に見切りをつけて、世界標準の成長率をキープできていれば、いまごろ、名目GDPは900兆円近い水準に達しているはずだ。
そして、420万円程度とされるサラリーマンの平均年収も700~800万円くらいにはなっていただろう。

緊縮病や改革病に憑りつかれ、みすみす成長のチャンスを逃してきた我が国をしり目に、各国は順調に成長し所得を伸ばしてきた。

世界各国の平均年収(GLOBAL NOTE 2014年資料 1ドル120円換算)を見ると、1位スイス1,140万円、2位ノルウェー978万円、3位ルクセンブルク955万円、以下、デンマーク887万円、オーストラリア840万円と続く。
いずれも、人件費のグローバル競争力がない小国か、1次産品や資源といった付加価値の低い産物を主要産品とする資源国ばかりである。

こうした産業の裾野が狭い特殊な国々と比較して、世界に誇る高度な技術力やサービス提供力を有する日本の平均年収が劣っていること自体が、そもそも奇異なことだろう。

しかも、我が国においては、就業者全体の15%ほどしかいない製造業従事者の平均年収が押しなべて低い(大手メーカーは例外)のも問題である。
例えば、技術士540万円、発電工520万円、圧延伸長工491万円、製紙工474万円、鋳物工426万円、旋盤工417万円、金属プレス工390万円等といった具合に、モノづくり大国ニッポンを自称する割に、彼らの給与水準は決して高くはない。

彼らの待遇は、歴代政府の間違った野放図なグローバル化政策のせいで、途上国の給与水準との競争に晒され、上昇のきっかけを掴めないでいる。

日本は内需主体の経済構造を持つ国である以上、マクロ経済の成長を志向するなら、その構成員たる国民一人一人の所得を漸増させ、それを原資に消費や投資を活性化させる必要があろう。

そのためには、庶民同士が、誰それの給与が高過ぎるとか、あいつは貰い過ぎだとかいった妬みや嫉みは厳に慎むべきで、少なくとも、年収が1,000万円に満たない層が互いの給与水準を批判し合うのは、極めてバカバカしい限りだ。

巷のサラリーマン諸氏は、大した功績も上げてないのに数億~十数億円もの報酬を得ている自称プロ経営者に文句をつけることはない。
一方で、身近で大人しい公務員には、常に批判ばかり浴びせているが、自分の子供には、公務員の職に就いてほしいと願っている。
(親が望む子供の職業ランキングで、「公務員」は不動のトップをキープし続けている)

公務員制度は、国民に対して平等に門戸が開かれているのだから、彼らを羨むくらいなら、努力して試験に合格すればよいだけだろう。(年齢的に、もう遅いんだろうが…)

また、民間企業の給与が上がっていないのに、公務員の給与を先に上げる(正確には、減額率を緩和するだけ)のはおかしい、と愚痴るのも恥ずかしい話だ。

公務員は、国民から負託を受けて公的サービスを提供するのが役目であり、サービス業者の端くれに過ぎない。
たまたま、税金を原資として給与が払われるから、クレーマー庶民から“私たちの税金が~”と下らぬ批判の矢面に立たされるだけで、民間企業の殿(しんがり)役まで仰せつかるような謂れはない。
彼らに、そこまでの義務を負わせるのは、明らかに過剰サービスの強要だと言えるだろう。

“公務員の給与が高過ぎる、土建屋の給与が高過ぎる”などと、次々とターゲットを変えて給料泥棒狩りばかりに熱中していると、やがて、自分の職種がターゲットにされる日が来る。
「俺がなけなしの金をはたいて高い車を買ってやってるのに、車屋の連中の給料は高すぎるんじゃないか?」なんて、見当違いの批判があちこちで沸き起こるだろう。

経済、特に、マクロ経済は、様々な経済主体による複雑な相互連関の上に成り立っている。
他人の給与を批判し、その足を引っ張ろうとする行為は、マクロ経済を構成する連関のピースを破壊する行為に等しい。
そうした自分勝手かつ無責任な行為により、連関の環が断ち切られ、そのパイプも細くなり、それが経済の停滞や衰退を招くのだ。

他人の給与に対する妬みを募らせるのは、気付かぬうちに自分の皿に毒を盛るのと同じことだ。

今の日本では、労働者の4割が非正規雇用だと言われており、重労働と低賃金に苛まれ、厳しい境遇に身を置かざるを得ない方が数千万人はいるだろう。
そういった方々の待遇をスピーディーに改善させたいなら、経済政策の立案や決裁権限を持つ議員の連中の尻をこそ強烈に叩くべきだ。
公務員の給与を下げて事態が改善するくらいなら、とっくの昔に景気が回復しているはずだ。

一部の国民の給与を引き下げて経済が良くなった国なんて聞いたことがない。
下らぬ嫉妬心に費やす情熱を、より生産的な行為に回すべきだろう。
何よりも、国民自身が目を覚まして自らの不勉強と不見識を改め、整合性のある思考を取り戻せぬ限り、現状が好転することはあるまい。

2015年12月14日 (月)

行政は、積極的に守備範囲を拡大すべき

先日、知り合いの金融機関担当者から、ソーシャルビジネスやコミュニティービジネスへの融資を促すための「事業評価の手引き」なるものが中小企業庁から配布されたと聞いた。


近年、金融機関に対しては、金融庁ばかりか、経産省や中企庁からも、余計な口出しやリクエストが届くようになったが、なんでも、中企庁が、わざわざ、こうした手引きを制作した目的は、“金融機関がソーシャルビジネスやコミュニティービジネスに取り組む事業者に対して、ビジネスモデル等の事業内容を評価した融資(目利き融資)に取り組むことを促すため”だそうだ。

要するに、ソーシャルビジネス(以下、「SB」)やコミュニティービジネス(以下、「CB」)の事業化が一向に進まないのは、金融機関が融資を渋っているせいだと責任を擦り付けるつもりらしい。

まったく、ビジネスの現場を知らない素人には困ったものだ。
特に、政治家や学者、役人、マスコミといったエスタブリッシュメントを気取る連中ほど、ビジネスの内容そのものには無頓着で、金融機関が企業や団体に融資さえすればビジネスが上手く行くと単純に思い込んでいるから手に負えない。

また、“金融機関の連中は高給(一部の大手銀行を除くと意外と安月給で肩叩きも早いようだが…)を取っておきながら、融資を渋って零細企業を苛めている”と文句をタレるくせに、いざ不良債権が累積すると、“銀行はいい加減な審査をして国民の大切な預金をドブに捨てた”と掌を返すように批判するバカも同罪だろう。

この手の、いい加減な妄言を吐くそこいらの国民には、“審査を厳格化すべきなのか、リスクを承知で緩めるべきなのか、「(金融機関に対する)債権者」として、はっきりと意思表示してみろ”と言っておきたい。


さて、件の「事業評価の手引き」とやらに話を戻すが、手引きの冒頭には、制作の目的が次のように説明されている。

・少子高齢化や都市と地方の地域間格差などといった構造変化にともなって生じる社会課題に対し、特定非営利活動法人を中心に、ビジネスの手法を活用して地域の社会課題の解決を試みる先進的な取り組みとして『地域課題解決ビジネス』が注目を集めている

・地域課題解決ビジネスに取り組む事業者の中には、事業拡大だけを目的とするのではなく、小規模ながらも、結婚や出産・育児をきっかけに離職した女性の再就職の場、育児期の女性たちが活躍できる場、あるいは、企業などを退職したシニアの活躍の場として多様な働き方を提供する事業者も多い

・しかし、地域課題解決ビジネスは、利益ではなく地域課題の解決を優先する傾向にあったり、そもそも利益の確保が難しい市場を対象に事業を行っていたりするなど、通常のビジネスとビジネスモデルが異なるため、ビジネスモデルの評価手法や支援ノウハウなどは十分に確立されていない

・このため、金融機関からの事業資金の借入に際して、通常のビジネスと同様に財務諸表などの定量面の評価を重視する貸し手と、地域課題解決ビジネスの社会的意義やビジネスモデルなどの定性面の評価をして欲しい借り手との意識の差が大きいことを起因として、融資が円滑に進まないことが課題になっている


要するに、社会的使命感からSBやCBの立ち上げを図る者が、女性やシニア層を中心に増えているが、事業性に乏しい(売上や収益を上げられない)ものが多く、金融機関に融資を頼んでも形式的な審査しか受けられず謝絶されてしまう、ということだ。

“地域課題解決ビジネスは、利益ではなく地域課題の解決を優先する傾向にあったり、そもそも利益の確保が難しい市場を対象に事業を行って”いるそうだが、「ビジネス」を謳う以上、利益を生まないような類の事業であってはならないだろう。

一般の企業や国民は、結構勘違いしているようだが、融資を受けた後の返済原資は、事業の収益(税引き後利益+減価償却)から捻出されるべきものであり、利益を出せないような事業には、そもそも、融資を受ける資格自体がないことを認識すべきだ。

手引きでは、いくつかのSBやCBの事例が紹介され、貸し手と借り手の意識の差を解消する一助となるよう、金融機関は、売上などの定量データだけではなく、情報収集のために金融機関自ら人脈を広めて、定性面の要素(技術力や販売力等)をプラス要素として積極的に勘案すべき、と強調している。

これは、貸し手から見るとゴリ押しに近い暴論で、貸し手との意識の差を埋めたいのなら、借り手側が確度の高い事業計画と数字の裏付けを以って説明すればよいだけの話だ。

筆者も何度か、SBやCBに取り組む創業者の相談を受けたことがあるが、障害者雇用の場を作りたいとか、地域の高齢者の買い物支援をしたいとかいった具合に、社会的な使命感は強いものの、肝心の売上や収益の見込みについては、全く説明できないものがほぼ100%であった。

申し訳ないが、それらはボランティア活動の領域であり、融資という枠の中で事業として評価する性格のものではない。

障碍者就労支援とか介護事業のように、サービスの対価が、法律により担保されている類いのものならまだしも、地域の高齢者が集うカフェを作りたい、とか、町の良さを伝えるフリーペーパーを発行したい、といった理念先行型の事業では、融資対象として心もとない。

手引きでは、SB・CBの収益源として、事業収入。委託事業収入(自治体等からの事業委託)、会費収入、補助金・助成金、寄付収入などを挙げているが、現実には、事業収入や会費収入なんて微々たるものに過ぎない。

結局は、補助金や寄付に頼らざるを得ないのだが、行政の補助金を受給する場合、一部には、年度途中での概算払い制度はあるものの、原則として、先出しした資金を精査したうえで年度の最後に支給されるものだから、年間の運営費を別途調達しておく必要があり、甘い考えで受給できるものではない。

そもそも、SBやCBの事業活動の根本は社会的課題の解決にあり、通常のビジネスとは異なり収益よりも社会的要請に基づいて行う事業なのだから、変に突っ張って事業家を気取るのではなく、公的枠組みの下で補助事業や委託事業としてやればよい。

行政も、こうした実態を判っていながら、民間金融機関にリスクや責任をおっかぶせるのは本末転倒であり、あくまで、国や地域の福祉事業の一端を担う社会的使命の高い事業として、行政が責任を持って運営の面倒を見るべきだろう。

中企庁は、役にも立たない手引きを作り、金融機関に対して、暗に融資を強要するような真似は避けるべきで、SB・CBに携わる事業家が、安心して事業に打ち込めるよう、福祉政策の充実を図りつつ、きちんと財政的支援でバックアップすべきだ。

財務省を筆頭に、緊縮財政派の連中は、年々膨らむ福祉予算に頭を痛めているようだが、それ自体が馬鹿げた発想である。

“予算が膨らむ=社会的ニーズが高い”ということだから、そこに財政支援をすればよいだけのことだ。
福祉事業に対する予算さえきちんと裏付けてやれば、膨大なビジネスチャンスが国内の福祉市場に発生し、それこそ、先を争って民間事業者が投資を活発化させるだろう。

これこそが、彼らの大好きな「民間主導の経済活性化」につながるのではないか。

財源なんて幾らでもあるのだから、削減とか改革みたいな非生産的な行為はしばし忘れて、前に進むことだけを考えればよい。

2015年12月10日 (木)

「欲求>我慢」という経済環境が成長を生む

筆者も仕事柄、創業や起業の相談を受けることがある。
洋菓子店を開業したい、地元の農産物をネット販売したい等々、方向性は様々だが、日本政策金融公庫総合研究所のレポートによると、 開業時の資金調達額は平均で1,464万円、うち金融機関等からの借入額は平均928万円程度だそうだ。

ちなみに、一般の金融機関では、創業者に対する新規融資を実施する機会は、周囲が思っているほど多くはない。というより、ほとんど無い、といった方が正確だろう。

創業者が融資を望む場合に、真っ先に相談すべきは、日本政策金融公庫国民生活事業(昔の国民金融公庫)である。
ちなみに、公庫の創業者向けの無担保・無保証人融資制度を使うと、事業費の1割以上の自己資金が必要になるが、条件に応じて1.00~2.90%の金利(固定金利)が必要になる。

史上希にみる低金利時代が続いているとはいえ、事業リスクが極めて高い創業者向け融資の金利としては、これは、大バーゲンと言ってよいほどの低金利(しかも固定金利)で、バブルの頃なら、恐らく10%は下らなかっただろう。

だが、競争ばかり厳しくてモノが売れないこの時代に、手元の資金に乏しい創業者が、十分低いとはいえ、元金に金利分を足した負債を抱えようとする動機は何だろうか。

その動機とは、『時間を買うこと』にある、というのが筆者なりの答えだ。
融資とは、時間を買い、短縮させるための行為で、融資に付随する金利とは、短縮のためのコストである。

例えば、ケーキ店の開業を目指す創業者が、5年掛かって貯めた300万円の自己資金を元手に、1,200万円の開業資金を用意せねばならないとしたら、不足する900万円分の融資を受けることにより、900/300×5年=15年分の時間を短縮できることになる。

このまま借入に頼らずコツコツ自己資金を貯め続けると、物価上昇がまったくないと仮定しても、目標の1,200万円を貯めるまでに、さらに15年分の月日が必要になろう。

15年も経ってしまえばマーケット環境も激変するだろうし、年をとって創業どころではなくなり、創業意欲自体が萎えてしまうかもしれない。
こうしたリスクを乗り越え、15年分の期間を一気に縮めるのが、融資の持つ最大の役割だと認識している。

マクロ経済の低迷と歩調を合わせるように、金融機関の融資状況はパッとしない。

国内銀行の融資額は今年に入ってから前年対比3%を上回る伸びが観測され、一時の低迷は脱したように見える。

しかし、地域の金融機関、特に、信金・信組は融資先の開拓に四苦八苦しており、中小企業や小規模事業者の大半がお世話になる信用保証協会付けの融資は、新規の保証承諾や保証債務残高は、何れも前年実績割れが続いている。(H27/10 保証承諾額は前年同月比96.8%、保証債務残高は同93.2%)

世間には、“中小企業には資金需要があるのに、金融機関側が応えきれていない”と言い掛かりをつける輩がいるが、いやしくも、返済を前提とする資金である以上、返済能力に疑義のある融資を軽々に「資金需要」と呼ぶべきではない。

「資金需要」と呼んでいいのは、マクロ経済環境が活性化し、前向きかつ返済原資のエビデンスが確かなものに限定すべきだ。

今は赤字に苦しんでいるけど、将来大化けしそうなキラリと光る技術や強みを持っているダイアモンドの原石みたいな中小企業は確かに存在する。
しかし、大概は発掘されぬまま、あるいは、研磨されぬままで終わる。
そういった企業の経営者は、根っからの技術屋で、強みであるはずの技術を売上に変える熱意が足りない種族が多いからだ。
彼らは、モノを創ることにしか興味がなく、最も大切なマーケティングや営業から逃げ回るから、売上や利益が上がるはずがない。

思い起こせば、バブル期頃には7~8%もの高利でも、争うように融資が伸びて行ったそうだが、あちこちに転がっている収益やビジネスのタネを誰よりも早く手に入れようとして、当時の企業や家計が、高いコストを払ってでもいち早く時間を買いたい、という強い熱意を持っていたことの証左だろう。

こうした投資や消費に対する意欲の強さは、「家計や企業の我慢と欲求との綱引き」によって決まるのだと思う。

融資(投資)が右肩上がりで伸張するのは、金利というコストを払ってでも時間を買いたい、という欲求が我慢の限度を軽く超えられるような経済環境が引き起こす現象であり、それは消費にも同じことが言える。

翻って、デフレ不況期に融資が低迷したのは、事業拡大や消費に対する熱意や欲求が冷め、我慢の限度内に収まってしまったからだろう。
(生活必需品等で我慢の限界を超える場合は、他の商品やサービスの消費を削る代替消費が発生する)

マクロ経済(GDP)を成長させるということは、家計や企業の消費や投資に対する欲求を、我慢との綱引きに勝てる強さにまで増強することである。

しかし、そうした欲求を何の裏付けもなしに増強させることはできない。

リフレ派のように、所得や売上の増加という実弾を伴わない空手形(異次元緩和によるインフレ期待)をいくら乱発しても、人々の欲求が強まることはない。
また、緊縮財政派が唱えるような、社会保障制度の見直し(=改悪)や国の借金の削減は、所得や売上の削減に直結する負の効果しか生まず、役に立たないどころか害悪でしかない。

家計や企業の消費や投資に対する欲求を焚き付けるものは何か。
欲求が我慢の限界を越えられない原因は何か。
その答えは、誰しもが既に知っているはずだろう。

2015年12月 9日 (水)

ダイバーシティという名のコストカット

官公庁の役人の得意技といえば、お役所言葉を使った紋切り型の対応とカタカナ用語の多用による文章の美文化だろう。

特に、カタカナ用語は、毎年のように何処からともなく新語が産み出され、「アメニティータウン」、「イノベーション」、「インキュベート」、「ワークライフバランス」みたいなカタカナ語が、いつの間にか市民権を得ているから不思議なものだ。

ここ最近の流行は「ダイバーシティ(多様化)」だろう。
この言葉自体は、多様な人材、特に女性力の活用により企業のパフォーマンス向上につなげるという「ダイバーシティ経営」から派生したもので、数年前から徐々に使われ始め、平成28年度予算獲得を狙う各省庁の資料や政府の審議会等に提出された資料でも結構使用されている、

だが、政府や官庁が“ダイバーシティ”なる言葉を使う時は、額面通りに受け止めてはいけない。
彼らが意図するダイバーシティとは、“多様化の名を借りた賃金や雇用条件のフラット化”でしかないからだ。

例えば、経産省などは、女性活躍推進のためダイバーシティ経営の推進を謳い、ダイバーシティ経営に優れた企業は「多様な人材を活かすマネジメントの能力」や「環境変化に適応するための自己変革力がある」とし、『ダイバーシティ経営企業100選』なる(誰からも注目されない)制度を創設して表彰している。

また、産業競争力会議辺りの夢想に溢れた資料を眺めていると、女性や外国人の活用を賛美する文脈から、日本式経営に対するアンチテーゼとしてダイバーシティ経営を対比させ、その効率性や先進性を持ち上げている。
(ダイバーシティ経営の成功事例として、会議資料で取り上げられた日産とホンダの業績が、いまひとつなのはご愛嬌)

彼らに言わせると、日本式経営は、“年功序列型、生え抜き、日本人、男性中心になりがちなので、それらを無視し、個別に優秀な人材を見つけて引っ張る”ことが重要だそうだ。

しかし、こうした日本式経営の構成要素に瑕疵があるとしても、それらはすべて内的要因でしかなく、経営者の能力と権限を以って改善できる程度の要素に過ぎない。
わざわざ、女性やシニア、外国人(移民)みたいな低コスト人材という“外圧”を使って脅しをかける必要はないはずだ。

本来なら、自社の弱点を見定め、経営者自身のスキルと権限を以って解決や改善に当たればよいだけの話なのだが、自身の経営能力に自信を持てないから、多様化やグローバル化の名を借りた女性や移民の活用のような安易な手法に逃げ込もうとしているだけだろう。

要は、女性やシニア、外国人の活用といった美名の下に、雇用の流動化や人件費の低コスト化を図りたいだけなのだから、「女性が輝く日本」とか「働き方改革」といった綺麗事で誤魔化そうとせず、素直に、賃金コストの低減と解雇の容易化をしたいだけだと主張すればよいではないか。

彼らは、偉そうに、「多様な人材を活かすマネジメント能力」が大切だとほざいているが、“企業に忠実な均一化された日本人男性労働者”ですら、まともにマネジメントできていなかったのに、女性・シニア・外国人(しかも、質の悪い途上国からの移民)のようなワガママ人材の混成チームをマネジメントできる自信があるのだろうか?

ダイバーシティ(多様化)経営を実践したいのなら、国内に1000万人はいる(経済財政諮問会議の資料より)という労働意欲を持つ人材を、なぜ活用しないのか。

多様化とは突き詰めると、個性やスキルの違いであり、性差や年齢差、国籍のみで語るべきものではない。
ダイバーシティ経営を唱える論者が、女性・シニア・外国移民に執着する理由は何か、合理的な説明が必要だろう。

本来、多様化すべきは、国内産業を構成する企業群である。
原料調達から、在庫管理、マーケティング、デザイン、製品加工、流通、アフターサービスに至るまで、無数の企業が複雑に絡み合い連関し合う、一見非効率的に見える産業構造こそが、高品質と信頼を担保する日本製品やサービスの強みを支えてきたのだ。

だが、政府は、国内産業を多様化するどころか、“企業の新陳代謝を促す”と称してゾンビ企業やゾンビ産業狩りに勤しんでいる。

比較優位論を曲解した選択と集中により、生産性や効率の低い企業や産業を切り捨てようとするが、新陳代謝とか選択という軽い言葉の裏に、雇用の喪失や技術承継の断絶という国家的損失が隠れていることに気付かぬフリをしている。

我が国には6000万人以上の就業者がおり、その能力や得意分野等は、まさに千差万別である。
とある企業のエースが、別の企業で同じ能力を発揮できる保証は何もないし、逆もまた然りだろう。

6000万人以上の雇用を守ろうとすれば、スキルとか人材とかいった綺麗事を並べてはいられない。とにかく、あらゆる手を使い、雇用の場を確保しておくことが必要になる。
個々に見れば役に立たないダメ社員であっても、何らかの職務に従事させておく方が、失業させたまま放置するよりも、数万倍は社会的効用があるものだ。

ダメ社員を雇用し続けることは、一見、ムダで非効率な行為かもしれないが、社会を構成するあらゆる階層や能力の人々に、“自分も普通に努力すれば、生活できるだけの職にありつける”という絶大なる安心感を提供でき、ひいては、それが社会全体の安定感につながるのだ。

彼らの雇用と所得を守り続けることが、GDPの柱となる個人消費を支えるとともに、弛まぬ技術革新や改善を産み出し、日本経済の最大の強みである技術力やサービス供給力の源泉となり得る。

厳しい競争やプレッシャーさえ与えれば、技術革新が促進されると考えるのは、雨不足を嘆いて雨乞いするレベルの迷信に過ぎない。
競争と合理化を旨とする欧米諸国の製造業が、軒並み弱体化してしまった教訓を忘れていないか。
ITや医薬、宇宙開発等といった欧米が持つ最後の砦も、早晩、日本や他の中進諸国に取って代わられる日も近いだろう。

日本企業の生産性低下や国際競争力の地盤沈下が叫ばれて久しいが、その要因は、野放図な資本移動の自由化と過度な競争、雇用の流動化や所得分配率の低下による人材の枯渇にある。

政府や企業経営者は、ダイバーシティ経営を盾にした更なるコストカット策に逃げ込むのではなく、高い潜在能力を持つ国内の労働者のやる気や能力をフルに引き出し活用する方向に舵を切り直すべきだろう。

2015年12月 3日 (木)

マスコミと自称弱者だけが持つ思想弾圧特権

最近、弱者の権利保護を盾に取っての度を超した「言葉狩り」や「思想狩り」が横行している。

『県職員「同性愛は異常でしょ」と投稿…処分検討(12月2日読売新聞)』
“岐阜県技術検査課の30歳代の男性職員が、ツイッターに「同性愛は異常」などと投稿していたことが分かった。
職員は1日、県の聞き取り調査に対して事実関係を認め、投稿を削除したうえで謝罪文を書き込んだ。県は職員の処分を検討する。
同県人事課やツイッターなどによると、職員は先月29日、神奈川県海老名市の市議がツイッターに同性愛者に対する差別的な書き込みをしたことを受け、「同性愛は異常でしょ。だいたい、何で同性愛者とかは自分の変態的異常性を公表したがるんだ?」などと投稿した。この日、職員は休みだった。
職員がツイッターのプロフィル欄に「某県庁職員」などと記載していたことなどから、投稿後、県に複数の情報が寄せられ、発覚した。同課は「県職員として不適切な発言で、極めて遺憾」とし、職員の処分を検討している“

これとは別に、先月も、韓国で、世宗(セジョン)大の朴裕河(パク・ユハ)教授の慰安婦問題に関する著作を巡り、元慰安婦らに対する強制性を否定する内容だとして、韓国の検察当局が、朴教授を名誉棄損で在宅起訴する、というトンデモナイ事件が起こったばかりだ。

本件に関する韓国検察の起訴理由は、“朴氏が慰安婦を「自発的な売春婦」であるかのように描いて「虚偽の事実で慰安婦の名誉を毀損した」と断じ、「学問の自由を逸脱した」”から、という質の悪いクレームレベルのイチャモンである。
だが、「名誉棄損=学問の自由の逸脱=起訴」という公式が成り立つなら、政府や法務当局は、自らの恣意的な判断により、いくらでも思想の統制や弾圧をすることができるだろう。

こんな横暴が許される国なら、お隣の将軍様主権国家と何ら変わりない。
韓国は、建付けの悪い「民主主義」という看板を下ろすべきではないか。

冒頭に紹介した岐阜県職員のツイッター発言に対する過敏な反応と行き過ぎた処分も、韓国の異様な世相と同じ性格の反応だと思う。

当の職員の同性愛者に対する発言は、確かに中傷の域を出ないが、仮に中傷の対象が“同性愛者”ではなくニートや引きこもり、失業者など他の弱者であったら、これほどの騒ぎになっただろうか?

特定の弱者や団体(障害者団体や同和団体など)を誹謗中傷したわけではなく、世間一般に存在する同性愛者という“個人や団体を特定できないふわっとした存在”を中傷したからと言って、なぜ、これほどバッシングを受ける必要があるのだろうか?

特定の個人に対する常軌を逸した誹謗であるならまだしも、休日に個人のツイッターで、誰を傷つけたのか特定しようもないレベルの悪口を発したからと言って行政的な処分を科されるのは、明らかに行き過ぎた越権行為や脱法行為であり、当の職員は、県の処分や県に苦情を寄せたバカな暇人連中を相手取り、訴訟を起こしてもよいだろう。

今回の処分は、憲法が保障する思想信条の自由や表現の自由を侵す許し難い行為である。

そもそも、性に対する考え方や嗜好の自由が許されるなら、それらに対する異見や反論があることも当然許容すべきだろう。
昔と違い、現代では、かつて差別的な扱いを受けた“弱者”が、ケースによっては強権を発動できる“強者”へと容易に変わり得る時代になったことを十分に考慮する必要があり、「弱者=永遠にいたわり続けるべき存在」という固定観念を基に判断すべきではない。

弱者保護の名を借りた過剰な検閲行為や思想・言論弾圧行為は絶対に許されるべきではないが、こと対象が慰安婦とか在日韓国人、同性愛者、被差別部落などといったマスコミ受けのいい相手となると、マスコミの連中は、掌を反して、お得意の『表現や言論の自由』という伝家の宝刀をそっと棚の中にしまい込み、中傷者に対して猛烈にペンの暴力を振るい始めるから始末に負えない。

彼らの卑怯かつ恣意的な行動を俯瞰していると、表現の自由なんて言葉が、いかに軽くて実を伴わないものであるかを思い知らされる。

それは、こんなニュースにも表れている。

『観光ポスター: 美少女キャラは「セクハラだ」批判受け撤去(12月1日毎日新聞)』
“このキャラクターは美濃加茂市の農業高校をモデルに描いた人気ライトノベル「のうりん」に登場する美少女。昨年1〜3月にテレビアニメ化され、人気となった。
(中略)
これに対し、「このイラストでは(イベントに)家族や恋人同士では行きたくない」「人気を集めりゃなんでもいいわけじゃない」などとインターネット上で批判が上がり、協会側は同29日、駅のポスターを撤去した。
 スタンプラリーは市内の飲食店を利用しスタンプを集めると、特製グッズがもらえる企画で今回が4回目。市によると、過去3回も別の美少女キャラで宣伝したが、今回のような批判はなかったという。
 同協会事務局の担当者は、三重県志摩市が、市が公認したオリジナルの海女さんキャラについて、反対署名などを受けて公認を撤回したことを引き合いに、「今回のポスターは人気作品(のキャラクター)をそのまま使っているだけなのに」と困惑の表情を見せている“

これなども「女性=弱者=女性蔑視(軽視)につながる表現はご法度」という固定観念が生み出したくだらぬ騒動だ。
ポスターの内容に文句をつけたバカどもの言いたいことは、有史以来男性に虐げられてきた女性を性の対象としか見ていない下劣な表現はけしからん、といったところか。

だが、仮にこれが男性キャラを使って、同じような表現をしていたら、まず、このような騒動に発展することはなかっただろう。
ジェンダーフリーとか男女平等をうるさく言う割に、差別だと騒ぎ立てる発火点がいつも一方通行なのは、なにゆえか?

マスコミや一部の弱者を称する連中が、言論や思想のイニシアティブを取り、弱者保護の御旗の下に、醜悪な言葉狩りや思想弾圧を平気で行うような状況を看過し続けていると、遠からぬ未来に、名も知らぬ隣人同士による何とも言いようのない息苦しい監視社会が到来すると予測する。

(※)今月から、試行的に同じ記事をアメブロにもアップします。
http://ameblo.jp/kobuta1205/

宜しくお願い致します。

2015年12月 1日 (火)

本当の「インフレ期待」とは〜期待するだけでは、インフレ期待は生まれない〜

先月末に名古屋市で講演した日銀の黒田総裁から、追加緩和の実行を匂わせるような発言が飛び出した。

「日銀総裁、物価2%は早期に達成 賃金上昇まで待つ考えない」
(11月30日ロイター、http://www.msn.com/ja-jp/news/money/)
『日銀の黒田東彦総裁は30日、愛知県の名古屋市内で講演と会見を行い、賃金と物価の動きは同調的とし、賃金が上がるまで物価の上昇を待つ考えはない、と語った。2%の物価安定目標の早期達成にあらためて意欲を示したもので、物価の基調に変化が生じれば「追加緩和であれ何であれ、ちゅうちょなく金融政策を調整する」と強調した。
総裁は中長期的に物価と賃金が同調的に動くのは「統計的な事実」とし、「物価目標の実現をゆっくりやっていれば、賃金の調整もゆっくりになるだけだ」と指摘。このため、毎月などのペースでみて賃金の上昇が物価よりも遅れているからと言って「賃金がもっと上がるのを待とうとはまったく考えていない」と明言し、「物価のパスを考えていく上では、賃金も上がっていくことを期待している」と語った。
そのうえで、「われわれは賃金をコントロールできるわけでもないし、ターゲットにしているわけでもない」と述べ、物価2%の早期達成によって賃上げも実現していくとの見通しを示した。物価の問題である以上、「まず行動すべきは日本銀行」と強調。「物価が2%の目標に向けて着実に前進していくことが重要」とし、「2%の物価安定目標の早期達成が難しいのであれば、ちゅうちょなく追加緩和であれ何であれ金融政策を調整する」と語った。』
(後略)

つい先日、日銀の白井審議委員から、2%の物価目標達成が16年度後半から17年度前半にずれ込むかもしれないとの発言があったばかりで、目標達成のロールオーバーが永遠に続くのかと懸念されたが、総裁直々に、そうした消極的な意見の火消しに走り回らざるを得なくなったのか。
いまや“経済政策のオオカミ少年”と化した日銀首脳陣が、相当焦りを募らせていることだけは確かだろう。

上記の黒田総裁の発言で気になったのは、“物価上昇が賃金上昇を担保する”と単純に思い込んでいる節がある点と、日銀の金融政策は賃金のコントロールできないと言い放ち、雇用の質には関心を持っていないことを認めた点だ。

リフレ派のようにインフレターゲット政策を手放しで擁護する連中は、フィリップス曲線を持ち出して、「インフレが起こると失業率が下がり、失業率が上がると物価が下がる」と主張するが、結果だけを捉えて、それが事象の全ての要因を説明できるかのように決めつけるのは間違っている。

インフレが失業率の低下を保証するのではなく、なぜインフレが起こったのか、どういう経済要因がインフレを引き起こしたのかを含めて考察する必要がある。
適切な経済政策により家計や企業の所得や売上が増え、消費や投資が活発化してディマンドプル型のインフレが起こるなら良いが、いまのように、フローが改善されぬまま、生活必需品ばかりが値上がりするようなコストプッシュ型のインフレなど、誰からも歓迎されないだろう。

さらに、“失業率”と一括りにするのではなく、その反対側にある雇用の質の在り方まで確認しておく必要があるだろう。
表面上、失業率が減っていたとしても、それが非正規雇用やパートタイムが増えただけなら、単なる“雇用改善詐欺”でしかない。

黒田総裁は、会見の後段(後略した部分)で、「明らかに企業の価格設定行動が変わり、家計も受容している」と発言しているが、それはトンデモナイ勘違いだ。

消費の現場を歩けば直ぐに解かるが、生活需品の中でも、特に衣料系や食品関連の値上がり(便乗値上げも含めて)が目立つ。
食料品などは、値上がりに加えて、内容量の削減により実質値上げされたものも数多くある。
おまけに、消費税の増税も重なり、家計は相当強いショックを受けている。

先日公表された総務省の家計調査(10月確報)では、勤労者世帯の実収入は48.5万円と、前年同期比で実質▲0.9%、名目▲0.6%と2ヵ月連続で減少し、1世帯当たりの消費支出は28.2万円と、前年同期比で実質▲2.4%、名目▲2.1%と大きく落ち込んでいる。

こうした厳しい環境下で、家計が、企業の強引な値上げを前向きな態度で受容するはずがなかろう。
アチコチ見渡しても、便乗値上げされた商品ばかりで他に選択肢がないから、仕方なく従わざるを得ないだけのことだ。
それを証拠に、食品売り場で痛い目に合った家計は、財布の紐をきつく縛り上げ、他の品目への支出を減らし、その余波を喰らったTV(▲48.5%)やPC(▲21.7%)、自動車(▲29.4%)等が大きな損害を蒙っている。
つまり、収入全体が減る中でTVやPCから食料品への代替消費が起こってしまったということだ。

従来から、リフレ派の連中は、インフレターゲット政策を採るアベノミクスで雇用は改善していると大はしゃぎしてきたが、結果を見ると、増えているのは飲食店や介護、建設といった一部の業界だけで、その内容も、非正規雇用やパートみたいな以前から間口が広く、手を挙げれば誰でも就ける程度の雇用が拡大しただけに過ぎず、最大のボリュームゾーンである正規の事務職の求人倍率は0.3倍にも満たないのが現実だ。

非正規やパートでも、失業するよりマシというのは醜い言い訳で、収入が増えず大した働き口もなく、不況感が強まる状況で日配品の価格上昇が進み、止むを得ずパートや非正規に就かざるを得ない人が増えただけのことだろう。

こうした状況下での黒田総裁による“日銀は賃金をコントロールできない発言”は、金融政策の限界を吐露したものといってよい。

リフレ派は、インタゲ政策の効果として、物価安定、インフレ期待、円安効果、雇用改善などを論っていたが、実際にもたらされたのは、円安に起因した輸入物価高によるインフレ不安と経済的苦境からの非自発的なパート就業の増加くらいのものだろう。

そもそも、雇用改善まで謳いながら、雇用条件や賃金の改善にまで踏み込まないのは非常に無責任な態度であり、黒田総裁の賃金コントロール放棄発言は、雇用の質までは問わない(というより、どうでもよいとしか思っていない)ことを公に認めたようなものだ。
インタゲ政策効果として、ガラクタみたいな条件の雇用でも良いから、とにかく失業率が低下したという実績を上げたい、という心情を、つい、口にしてしまったのだろう。

黒田総裁は、「ちゅうちょなく追加緩和であれ何であれ金融政策を調整する」とかなり踏み込んだ発言をしている。
しかし、財政支出の拡大による実体経済への直接的な刺激策に担保された金融緩和政策なら別だが、現行路線上のマネタリーベースを積み上げるだけの緩和策なら、日銀の国債保有額が増えること以外に大した効果は望めないだろう。

黒田総裁をはじめ日銀首脳陣やリフレ派の連中は、金融緩和政策とインフレターゲット設定の意義を、いまこそ問い直すべきだ。
世間を驚愕させた異次元緩和政策の目的は奈辺にあったのか、実体経済を好転させるためなのか、単に為替操作と株価引き上げのためだったのか、真摯に反省すべきだろう。

リフレ派は、いい加減に、「物価上昇=景気回復」という固定観念から脱却し、企業や家計、特に、中小企業や中低所得者層のフローとストックの改善が急務であることを認識する必要がある。

金融緩和政策のみの一本足打法に固執せず、大規模かつ長期の財政政策との連携を図り金融政策のポテンシャルを発揮すべきだ。

実体経済を十二分に刺激し、家計や中小企業のフローとストックを強化し、物価上昇を許容でき価格より品質の向上を求める消費層の拡大を目指すことこそが、経済政策の王道だろう。

経済のあちらこちらに、商売のタネや儲け話が散らばり、それらを狙って、家計や企業が後さき考えずに眼の色を変えて消費や投資するような熱の充満した経済環境を創り出すことが肝心だ。
金融市場にブタ積みされた巨額のマネーは、債券市場に対する威圧効果以外の何も生み出せないが、政府による万遍なきバラマキは、実体経済に収益のシーズを確実に植え付けることができ、収益期待やインフレ期待を出現させる効果を持っている。
用意すべきは借りるカネではなく、使えるカネでなければならない。

先日TV番組で、60~70年代に一般家庭に普及したブリタニカ百科事典の話が紹介されていた。
いまでは、紙媒体での印刷を終了したブリタニカ百科事典だが、普及当時には現在の価格に直すと120万円以上もしたにもかかわらず、教育熱が高まっていたこともあり爆発的に売れたそうだ。(筆者の実家にも似たような辞典があった記憶がある)

60~70年代といえば、サラリーマンの平均年収が今の1/4にも満たない時代であったが、積極的な財政政策と輸出の拡大による富の増加が、家計にも十分に波及し、所得が右肩上がりで伸びていた。
そうした所得増加に対する確度の高い期待に担保され、家計や企業は値段を気にすることなく、積極的に消費や投資に勤しんだのである。

リフレ派の連中は、本物のインフレ期待とは何か、ということを歴史に学ぶべきではないか。

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