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2016年2月

2016年2月26日 (金)

異常なのは、正社員を否定するバカの頭の中

世の中に頭のおかしな連中が絶えることはない。
問題なのは、頭脳や倫理感のレベルに問題のある人物が、どうした訳か、社会的に高い立場に居座り、有害な情報を自由かつ強力に発信できる点にある。

今回も、現状認識が全くできていない自称知識人の赤点コラムを紹介したい。

『「同一労働・同一賃金」は実現できるのか 問題は「正社員」をなくす雇用の自由化だ』
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/46188
(2016.2.26(金) 池田 信夫/JB PRESS記事より)

詳しくは、上記のURLをご参照いただきたいが、彼の主張はコラム後段の下記部分に集約されている。

「もう全員の雇用を保証できる時代ではない。雇用維持にこだわっていては企業が消滅し、全員の雇用が失われるのだ。脱熟練化して定型化した職務は途上国にアウトソースされ、コンピュータに置き換えられる。これからのサービス業では、非定型的なスキルが重要だ。
(中略)
スマートフォンなどのITで維持される時代になるだろう。労働者は会社に囲い込まれないで自由に働き、能力の発揮できる職場に移動する時代になる。
 そこでは同一労働とか同一賃金とかいう概念に意味がなくなり、労働者は個人事業者として他人にないスキルで競争する。政府がやるべきなのは賃金規制ではなく、正社員という時代錯誤の雇用形態をなくし、自由な働き方を可能にする雇用規制の改革である』

こうしたコンピュータ万能論者を本気で騙る連中は、昔のロボットアニメの見過ぎではなかろうか。
大型コンピュータに質問すると、ポンッと正解を出してくれたり、あらゆる生産活動を機械やコンピュータが代行してくれたりする世界を空想するのは、いい加減、小学生辺りまでで卒業してもらいたい。

リアルな世界で働いている者なら解かるはずだが、サラリーマン社会を覆う複雑怪奇な労働行為が、すべてコンピュータやスマホに取って代わられることなんて永遠にない。
社内政治や取引先や関係機関との面倒くさい調整に労力の大半を削がれる身としては、こうした面倒事を、ぜひ、コンピュータに代行してもらいたいものだが、ICチップが上司や他部署との根回しをやってくれる日が来ることはあるまい。

池田氏のコラムで聞き捨てならないのは、“もう全員の雇用を保証できる時代ではない。雇用維持にこだわっていては企業が消滅し、全員の雇用が失われる”という「日本経済沈没船論』を振りかざし、経済成長を放棄している点だ。

氏は、コラムの中で、「正社員」という雇用形態は“異常”だと断じたうえで、欧州の雇用形態を引き合いに出し、非正規社員やパートの給与を正社員並みに引き上げると企業が持たないと言い訳している。

日本経済自体が成長を止めて現状維持を続ける、あるいは、衰退トレンドを辿らざるを得ないと諦めてしまうヤル気のない人間にとっては、人件費は単なるコストでしかなく、正社員を排して“社員の総パート化”こそ理想の世界なのだろう。

だが、“自由な働き方を可能にする雇用規制の改革”というくだらぬスローガンの下に、正社員制度を無くし、雇用の流動化を進めてしまうと、恐らく、学問・学歴・研究等に対するインセンティブや労働モラルは限りなく低下し、日本の知的水準は地に堕ちるだろう。

いつクビになるのか判らぬ職場で真面目に働く者はいない。
普通の神経の持ち主なら、長期雇用の保証がなく昇給やポストも不安定な職場に、わざわざ心血を注いで尽くす義理も必要性もない、と考えるのが当然で、労働者は、絶えず次の職場に自分を高く売り込むことに熱中し、情報漏えい、顧客リストや基幹技術情報の持ち逃げ、目先の成績アップのための度を越したパワハラなどの弊害が横行することは目に見えている。

また、安定雇用が確保されないと、住宅や車、教育ローンなどの長期与信を受けることができなくなり、日本経済に大打撃を与えることになるが、池田氏は、こうした問題をきちんと認識したうえで発言しているのだろうか?

ちなみに、独立行政法人労働政策研究・研修機構による「正社員の労働負荷と職場の現状に関する調査」では、転職希望者の希望する雇用形態の問いでは、男性で96.8%、女性で87.7%、合計92.1%が正社員を望むと回答している。
(http://www.jil.go.jp/institute/research/2015/documents/0136.pdf#page=103)

働く者の大半が正社員の身分を望んでいる社会に向かって、「正社員という雇用形態は異常だ」と叫んでも、そんなバカの意見に耳を傾ける者はいないだろう。

また、氏はコラムの中で、 “ヨーロッパで同一賃金が実現しているのは、職務や勤務地が契約で決まっている職務給になっている場合で、経営者などは職務が特定されていないので、同一賃金にはならない”と詭弁を弄し、経営者の権益だけを特別扱いしているが、これも間違いだらけの卑怯な話だ。

日本の多くのサラリーマンは、職務や勤務地の決め事が極めて曖昧で、本来の業務分掌外の仕事を平気で押し付けられたり、辞令一つで簡単に異動や単身赴任を命じられたりすることは日常茶飯事で、欧州のように呑気な職務給制度など全く当て嵌まらない。

よって、経営者は職務が特定できないから同一賃金にはならない、なんていうのは単なる詭弁の類いでしかない。
労働者に正社員のイスすら与えられない無能な経営者は、そもそも経営に携わる資格がないのだ。

正社員という雇用形態は異常だなどと泣き言をいうのなら、経営者層こそ同一労働同一賃金の範を垂れるべきだ。

リストラばかりやって十億円以上もの報酬を得ているとある自動車会社の経営者とか、無茶な値上げをして売上ダウンを食らった時流を読み切れないとある衣料品メーカーの経営者こそ、そこいらの町工場やふとん屋の社長と同一賃金にすべきだろう。

さらに、新自由主義に染まりきった低レベルのコラムしか書けぬ自称評論家のギャラも、駆け出しのコラムニストと同一賃金にすべきではないか。

2016年2月24日 (水)

"ダメノミクス"との決別を

今月16日に総務省が公表した「労働力調査(詳細集計) 平成27年(2015年)平均(速報)」によると、“2015年平均の役員を除く雇用者5284万人のうち正規の職員・従業員は,前年に比べ26万人増加し3304万人、非正規の職員・従業員は18万人増加し1980万人”となったそうだ。

これを受けて、“それみろっ! アベノミクスの成果が(やっと)出たじゃないか”と大喜びしている論者(リフレ系金融緩和万能論者)が若干いるようだが、すっかり冷え込んだ国民や企業の消費・投資マインドを勘案すれば、大負け確定の試合で贔屓の選手がヒットを打ったとはしゃいでいるだけにしか見えない。

総務省の公表データを見れば、確かに、2015年平均の正規職員数は対前年比で26万人ほど増えている。(非正規雇用数も順調に増えているが…)

その内訳を収入別にみると、100~199万円/13万人と低所得層の人数が減る一方で、300~399万円/+11万人、400~499万円/+11万人、700~999万円/+17万人、1000~1499万円/+8万人と増加しており、良い傾向にあると言える。

また、年齢層別に確認すると、最も多いのが45~54歳で+26万人、次いで55~64歳/+7万人、65歳以上/+7万人と中高齢層の増加が目立つ。
一方、15~24歳/+4万人、25~34歳/―7万人、35~44歳/―8万人と、若年層では、一部を除いて全体的に減少傾向にある。

つまり、雇用者のうち中高齢者が増え、若年層は減っており、収入ベースでも比較的上位の階層の人数が増えているのは、こうした人口動態が影響していると思われる。

加えて、人口の多かった団塊世代が徐々に職場から去り、定年退職や再雇用後の定年を迎える世代の人口ボリュームが小さくなっていることもあるだろう。
ちなみに、1949年生まれの人口は269万人もいるが、その後は、1950年/233万人、1951年/213万人、1952年/200万人と十万人単位で減っている。

つまり、高齢層の雇用者人数が増えているのは、単に定年を迎える年代の人口ボリュームが細まったところに、比較的人口の多い1967~1976年生まれの年代の遷移が重なっただけのことだろう。

正規雇用者数は、長期トレンドで見ると、データのある2002年の3489万人をピークに、一時期を除いて減少の一途を辿っており、2015年の数値がちょっとだけ増えたというだけのことで、それも人口動態による要素が大きいと推測する。
過去にも、2005年〜2006年/+40万人、2006年〜2007年/+34万人と大きく増えた例があるが、その後の景気回復につながったかといえば、結果は見てのとおりだ。

昨年に正規雇用者数が増え、収入階層のレベルも向上しているとしたら、多くの国民がアベノミクスの成果を実感できず、消費を減らしているのは、いったいなぜだろうか?

産経新聞社とFNNの合同世論調査(1月24~25日実施)では、安倍晋三首相の経済政策「アベノミクス」による景気回復について「実感していない」が78.2%に達し、「実感している」は16.3%に止まっている。
また、「アベノミクスが成功しているかどうか」については、「成功している」は22.4%と「成功していない」の61.3%を大幅に下回ったそうだ。

総務省の家計調査(二人以上の世帯)平成27年(2015年)12月分速報 (平成28年1月29日公表)でも、消費支出は、1世帯当たり 318,254円と前年同月比実質4.4%の減少(名目4.2%の減少)となり、勤労者世帯の実収入は、1世帯当たり900,229円と前年同月比実質2.9%の減少(名目2.7%の減少)と、こちらも減り続けている。
しかも、消費税増税のおかげでガクンと落ちた2014年比でマイナスなのだから、事態は深刻だ。

さらに、正規雇用者が増えているはずの職場の労働環境は悪化している。
「厚生労働省は23日、長時間労働が疑われる企業5031事業所に対し重点監督を実施した結果、74%にあたる3718事業所に労働基準法違反があったと発表した。46%の2311事業所で労使協定を超えるなど違法な時間外労働があり、24%の1195事業所は厚労省が過労死のリスクが高まると位置づける「過労死ライン」(月80時間の残業)を超え、過酷な長時間労働が浮き彫りになった。(2月23日付け毎日新聞ニュース)」
(http://www.cybozu.net/news/national/20160224k0000m040073000c.html)

嵐の合間に訪れた一過性の晴天を喜びたい気持ちも解かるが、国民の肌感覚や消費行動をつぶさに見れば、アベノミクスの成果など全く信用できない。

リフレ派の連中は、相変わらず、金融緩和政策は間違っていない、アベノミクスの成果は出ている、と現実から目を反らして強弁し、何か都合の悪い指標が出ると、消費税増税のせいだ、と言えば済むと思っているようだ。

しかし、経済財政諮問会議や産業競争力会議に提出された資料を見ても、アベノミクスの真髄は、経済成長ではなく「財政健全化」にあり、消費税増税はその根幹を成す重要政策である。
つまり、不可分の関係にあるアベノミクスと消費税増税を切り分けること自体に無理があり、アベノミクスを支持しながら消費税増税を否定するのは大いなる矛盾だと言える。

現実逃避しかできないリフレ派の連中が、「正規雇用数は増えている」、「失業率は下がっているじゃないか」、「非正規雇用といえども失業するよりマシだろ?」と強がるのはいいが、そんな屁理屈は、生活苦に喘ぐ多くの国民の耳には届くまい。

先に紹介したアンケート調査結果と消費支出のデータが、現実を如実に物語っている。

他人から、景気は良くなっているはずだと諭されても、実際に自分の収入が増えていないのなら、余計なお金を使う気にはなれない。

アベノミクス信者がどう思おうと勝手だが、一般の家計なら、毎月の収入が少なくとも2~3万円は増えないと、収入アップを実感することはできないだろう。

日銀の黒田総裁は、いまだに、異次元緩和やマイナス金利の効果を信じて疑わない(疑えない)ようだが、残念ながら、それらは実体経済にとって、せいぜい、温熱効果くらいの影響しかない。

身体が温まるのは良いとして、長年の空腹に耐えかねている企業や家計の身になれば、それで十分とは言えない。
いま、何より必要なのは、携帯用カイロなどではなく、空腹感を満たせるだけの大量かつ良質な食料と飲料であり、売上や所得に直結する経済政策だろう。

リフレ派の連中は、虫眼鏡でしか見えない小さな手柄を見つけてはしゃいだり、効果の出ない経済政策に固執したりするのではなく、企業や家計のフローとストックを直接的かつ速やかに改善できる政策をきちんと提案すべきだ。

2016年2月23日 (火)

成長戦略という麻薬

今年1月28日に閣議決定された「平成28年度の経済見通しと経済財政運営の基本的態度(経済財政諮問会議提出資料)」には、「今後の経済財政運営に当たっては、これまでのアベノミクスの成果の上に、「デフレ脱却・経済再生」と「財政健全化」を双方共に更に前進させる」と明記されている。

既に、過去のエントリーで何度か触れたが、ひたすら「経済成長・デフレ脱却・所得の向上」に邁進すべきこの時期に、“財政健全化”という文言を経済方針に盛り込むこと自体がご法度だろう。

上記のペーパーでは、「デフレ脱却・経済再生」と「財政健全化」の二兎を追う総花的な方針を謳っている。

しかし、前半部分を担保するのは、小学生が書いた標語のような例の新三本の矢(「希望を生み出す強い経済」、「夢をつむぐ子育て支援」、「安心につながる社会保障」)と一億層活躍社会、TPP対策、生産性革命、ローカル・アベノミクスという数値の裏付けが一切ない空想ばかりで、はなはだ心許ない。(というより、200%不成功に終わるだろう)

一方、後半部分の財政健全化の方は、“「経済財政運営と改革の基本方針2015」に盛り込まれた「経済・財政再生計画」に沿って、2020年度(平成32年度)の財政健全化目標を堅持し、計画期間の当初3年間(2016~2018年度(平成28~30年度))を「集中改革期間」と位置づけ、2018年度(平成30年度)の国・地方の基礎的財政収支赤字の対GDP比▲1%程度を目安として、「デフレ脱却・経済再生」、「歳出改革」、「歳入改革」の3本柱の改革を一体として推進する”と、時期や数値にがっちりと縛りを加えている。

これを見れば、安倍政権や与党の経済方針が、成長や分配よりも、財政健全化や財政再建(=緊縮財政)により大きなウェートを置いていることが解かる。
前半の「デフレ脱却・経済再生」という文言は、あくまで、国民向けのポーズでしかなく、後半の「財政健全化」こそ目標の本丸なのだ。

財政健全化は国民が反対しづらいスローガンだが、無駄の削減や緊縮財政を以って経済運営に当たると、実体経済への悪影響が避けられず、必ず中小企業や国民から不平不満が噴出する。
そうした不満を抑えたり、目を反らしたり役目を果たすのが、生産性革命とか成長戦略といったボヤッとした殺し文句であり、“景気を何とかしてほしいけど、国の借金が増えるのも困る”と考える勉強不足の国民には結構効き目があるものだ。

先日も、新聞の読者投書欄を眺めていると、日銀のマイナス金利政策を批判する傍らで、“日本経済に財政金融政策の麻薬漬けは不要、地域に新しい産業と雇用を生む具体的な産業戦略と政策が必要”だという70代後半の老人からの投書があった。

だいたい、新聞の投書欄は、反原発とか行政の無駄の削減を訴えるものばかりで、この手の駄文を目にするのは珍しくもないが、長期不況を経てもなお、庶民の一般的な発想のレベルはこの程度かと思うと、大きな溜め息をつきたくなる。

世論調査のたびに、多くの国民から、“景気を良くしてほしい”、“雇用を何とかしてほしい”という声が上がるが、いったい、国民は「景気や雇用」の意味をどこまで理解しているのだろうか?

かの投書老人のように、財政金融政策を麻薬と蔑み、これ以上国の借金は増やせない、日本を救うには(中身はよく解からないけど…)“成長戦略”しかない、と妄信するバカ者はあちこちにいる、というより、国民の大半が同じ症状を患っているのが現実だ。

この手の改革真理教の信徒たちは、民尊官卑の発想に凝り固まっており、民間のポテンシャルがフルに発揮されれば不況なんてすぐに克服できると高を括っている。
しかも、不況の原因は、旧態依然とした商慣習やグローバル化の波に乗り遅れたせい、あるいは、行政の無駄遣いや少子高齢化のせいだ、と的外れな論理展開を平気で行うから呆れるよりほかない。

経済活動の起点が、家計の労働力を活用した企業の生産活動やサービスの提供活動だとすれば、それを上手く循環させるには、需要の存在が欠かせないことくらい直ぐに解かるはずだ。
買い手が存在しなければ、生産物はすべて不良在庫化し、経済活動は一歩目で躓いてしまう。

財政金融政策を遠ざけ、成長戦略という張子の虎に頼ろうとする愚か者には、「いったい、何を需要の財源とするつもりか?」と問い質したい。

企業が生産したモノやサービスを購入する際の対価は“通貨”以外に有り得ず、「戦略や政策」を受け取って満足する企業なんて存在しない。

実際に経済を動かすには絶対に通貨が必要であり、それを創造し、実体経済に広く流通させる役割を果たせるのは、財政金融政策をおいて他にない。

戦略なんか立てたところで、裏付けとなる予算措置がなければ、所詮は絵に描いたモチに終わってしまうし、そもそも、商売経験のない官僚が作った戦略なんて上手く行くはずがなかろう。

成長戦略こそ景気回復の切り札だと自信を持って言えるなら、それが通貨増発を促し、実体経済の活発化をもたらすまでのプロセスを具体的に説明すべきだ。

景気回復を願いながら財政金融政策を麻薬呼ばわりするのは、まさに不届き至極な行為であり、絶食を続けて健康体を手に入れようとするようなものだ。

多くの国民は、「国債は国の借金だ」、「巨額の国債を抱える日本経済は破綻する」、「日本はもう成長できない」という紛い物のデタラメを信じて、真っ先に着手すべき財政金融政策を禁じ手と断じる初歩的なミスから、いつまでも抜け出せないでいる。

このように、自ら成長の意思を放棄する怠惰な思考に安住する国民は、身体に良い食べ物や薬を拒絶して、怪しげなラベルが貼られた毒に手を出そうとしている。

“麻薬漬け”になっているのは、こうした正常な判断能力を失ったバカ者の方だろう。

2016年2月17日 (水)

世論を創るのはマスコミだけの仕事じゃない

2月9日の衆院予算委で飛び出した高市総務相による“電波停止発言”が波紋を呼んでいる。

民主の玉木雄一郎氏が「憲法9条改正に反対する内容を相当時間にわたって放送した場合、電波停止になる可能性があるのか」と問い質したのに対して、高市大臣は、「1回の番組では、まずありえない」としつつ、「私が総務相の時に電波停止はないだろうが、将来にわたってまで、法律に規定されている罰則規定を一切適用しないということまでは担保できない」と述べたのだが、この高市発言に、早速、野党やマスコミが噛みついた。

民主党の安住国対委員長代理(まだ、国会にいたのか…)は、「戦前の検閲制度であり、明らかに放送法を曲解している」とコメントし、(選挙への悪影響を危惧したのか…)与党からも、公明党の山口代表から、「政府が(報道の)内容につい統制を強めるのは慎重であるべきだ」との指摘があった。

マスコミや識者からも、「憲法が保障する表現の自由に抵触する」、「国による恣意的な報道規制につながりかねない」といった批判の大合唱が起こっており、特に、自身の権益が侵されると危惧するマスコミの連中は色を成して反論している。


今回の発言を担保するのは、放送法第4条の規定(政治的に公平であること)であるが、呆れたことに、マスコミの連中は、「放送法は、表現の自由を定める憲法第21条が保障するもので、憲法学者の間では放送局自身が行う“倫理規範”に過ぎない」と主張し始めたのだ。

放送法の存在を「法律」から「倫理規範」へと勝手に格下げし、自分たちが恣意的に運用できるはずだと強弁するのは、“社会の木鐸”を自称する報道機関として恥ずかしくないのか?

放送法は第1条で「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」を謳っており、“表現の自由の横暴”を認めているわけではない。

そもそも、表現の自由の専横が許されるなら、マスコミが目の敵にするヘイトスピーチですら、誰も止める権利はないはずだろう。

条文では、放送機関に対して、“放送の不偏不党、真実及び自律を保障すること”という基本動作が求められているが、こんなものは、放送事業に携わる者なら“イロハのイ”に過ぎず、何ら難しいものではないはずだ。

くどくど説明するまでもなく、マスコミは社会に絶大な影響力を及ぼす強大な権力を有しているのだから、その行動には一定の制限や規範があって然るべきだ。
権利には義務が伴うことくらい子供でも理解している。


マスコミは、表現の自由の侵害とか、報道に対する政治介入とか、大げさに騒ぎ立てているが、放送法第3条で、「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。」と番組編成の自由が保障されており、恣意的な内容でない限り、外部から干渉されることもない。

放送法第4条に定められているのは、
一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること。
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
のたった4つだけなのだが、マスコミの連中は、こんな簡単なことも守れないのか?

政治的に中立な立場を取り、事実をそのまま報じ、対立点があれば両論併記する、これくらいなら、小学生の壁新聞や地域のフリーペーパーでも守れると思うが…。

これが気に食わないなら、放送事業者の免許を返上し、自主制作のDVDを頒布したり、You Tubeでネット配信でもしておればよい。


だいたい、放送法は倫理規範だから放送事業者の恣意的な運用が許される、という論理はおかしい。
倫理規範は絵に描いた餅レベルの扱いで良し、とするなら、マスコミが、企業のコンプライアンス違反を糾弾するのも越権行為だと認めるべきだ。

マスコミの連中が公平公正な報道を放棄し、両論併記を面倒くさがるのは、編成の自由の名を借りた恣意的な番組づくりによる“世論形成権”を手放したくないためだろう。


年明けから、甘利大臣をはじめ、与党議員のスキャンダル報道が相次いでいる。
マスコミは、高市発言を逆手に取り、政権に不都合な報道を規制するつもりかと圧力をかけているが、それは問題のすり替えだろう。

政治家のスキャンダル報道なら、編成云々以前の問題だから、誰にも遠慮せずにどんどんやればよい。
図に乗っている安倍政権を叩くチャンスでもあろう。


だが、いま問題視されているのは、安全保障・エネルギー政策・経済政策・教育問題などといった社会の根幹に係る重要課題に対するマスコミの偏向報道なのだ。

彼らは、レフト線上に自分基準の中立点を設定し、それを“センターライン”だと言い張っている。

両論併記についても、エネルギー政策や経済政策に関する記事では無視されることが多く、間違っても原発推進を強く主張するような意見は報道されない。

せいぜい、“原発の安全性に最大限配慮しながら、適切なエネルギーのベストミックスを実現すべきだ”みたいなオブラートに包んだ表現しか紹介されないし、経済政策に至っては、積極的な財政政策を主張する意見が報道されることなんて、ほとんど無いと言ってよい。

発信されるのは、“積極的な緊縮政策か”、“大胆な構造改革・規制緩和か”の何れかでしかない。
これは、安全保障問題も同じだろう。

マスコミの連中は、“世論を創り上げ、それをリードする権利や資格を持つのは、自分たちだけだ”という思い上がりを捨て真摯に反省すべきだ。

放送法第174条には、「総務大臣は、放送事業者(特定地上基幹放送事業者を除く。)がこの法律又はこの法律に基づく命令若しくは処分に違反したときは、3月以内の期間を定めて、放送の業務の停止を命ずることができる。」と明確に定められており、同法は倫理規範だから無視して構わない、という詭弁は一切通用しない。

放送法なんて、ごく当たり前の事しか規定されていない優しい法律なのだから、これを守れぬほどレベルの低い事業者に貴重な放送免許を与える必要はない。

政府は、法の運用を厳格化し、表現の自由を専横する賤しい連中の行動に、きちんと足枷を嵌めるべきだ。

世論というものは、放送免許を独占する一部の不心得者の手により都合よく左右されるものではなく、国民一人一人が創り上げるべきものであろう。

2016年2月15日 (月)

何でも若者に責任転嫁するのは「老害病」の証拠

厚労省や文科省の発表によると、今年3月に卒業予定の大学生の就職内定率(H27.10.1時点)は66.5%(前年同月比1.9%)と5年ぶりに悪化したそうだ。

少子高齢化が進む日本において、労働力確保の意味合いから、年々数が減り続ける若者に対する求人ニーズが高まり、そこに希少価値が生じるのでは、という期待があった。

しかし、現実には学卒の若者層の4割近くが非正規雇用に甘んじている。
また、上手く正社員の座を射止めた者も、即戦力という名の下に過剰な期待を背負わされ、ろくな職場教育も受けられぬまま、過剰なノルマを課されて日々苦闘している方も多いと思う。

若者は、貴重な戦力として職場から歓迎されるどころか、いきなり諸先輩や上司と同じ土俵に乗っけられ、激烈な競争に駆り出される始末だ。
まともな教練や訓練もなく、武器も持たされずに、いきなり最前線に放り出されるようなものだろう。

厚労省のデータでは、H24年の大卒3年目以内の離職率は32.3%に達し、多くの若者が過酷な労働現場で苦しんでいることが窺える。
(※バブル期でも25~27%くらいの離職率はあったのだが…)

だが、社会は、こうした惨状を目の当たりにしても、まったく反省する様子はない。
自分たちは、若者たちにロクな社員教育も施さないのに、“最近の若者は根性がない”、“働き口なんて幾らでもあるのに選り好みして甘えている”という愚痴ばかりが口をついて出てくる。

こうした身勝手な愚痴を聞かされ続ける現代の若者からすると、会社に蔓延る老害の連中が何を言っているのやら、と大いに反発を感じていることだろう。

さて、「老害」という単語は、既に多用され浸透していると思うが、その意味を調べると次のようになる。
“高齢者に対する蔑称。反意語に老益がある。本来は、世代交代が図れず老朽化した『組織』に向けて使われる言葉。転じて、能力の衰えた高齢者が社会や組織の中で活動の阻害をする際に使われる”(ニコニコ大百科より)

会社だけでなく、政界・官界・財界・マスコミ・言論界など、ありとあらゆるところに、性差を超えて、「老害」と蔑まれる連中は棲息している。

筆者など、日本がバブル崩壊後の長期不況から抜け出せず、どんよりとした閉塞感に覆われているのは、愚か者の代名詞である「団塊の世代」を中心とする老害の連中のせいだ、といって差し支えないと考えているが、先日、こうした定説を覆そうとする珍説を目にした。

『日本を「老害」の国にしているのは「グズ」な若者』
(武蔵野大学、杏林大学兼任講師 舞田敏彦=文/プレジデント 2月10日(水))
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160210-00017294-president-bus_all&p=1

舞田氏によると、日本が老害の国になったのは、なんと、選挙に行かない若者のせいだそうだ。

上記のレポートで舞田氏は、衆院選の投票率が1967年(第31回)の74.0%から2014年(第47回)では52.7%まで低下しており、特に、20代の若者層では、66.7%から32.6%へ半減していると指摘し、“20代が選挙に行かないから「老人天国」”になると警鐘を鳴らしている。

氏は、“いつも自分が行っている投票所で若者を見かけない、これでは、若者の意向は政治に反映されない、政治への要望は若者と高齢者とでかなり異なるが、重きが置かれるのは常に後者であり、その結果、若者の政治不信が強まり、ますます選挙から離れていくという悪循環に陥っている”と力説する。

そして、次回の国政選挙から、選挙年齢が18歳以上に引き下げられるのを引用して、「自分たちの要望を実現してくれる候補者(政党)を推すという、具体的な行動をとらないといけません」と述べている。

選挙権を持っている者で、それを行使する気がある者は選挙に行けばよい。
だが、上記のコラムだけではなく、マスコミの連中がよく口にする「政治家の眼は投票率の高い高齢者層にばかり向いている」、「選挙に行かないから若者向けの政策が疎かになる」というお決まりのセリフを、そのまま鵜呑みにしてよいのだろうか?

有り体に言うと、「政治家の眼は投票率の高い高齢者層にばかり向いている」というのは、まったくのウソだと思う。

政治家の眼差しは、若者は無論のこと、せっせと投票所に足を運ぶ高齢者にも向けられていない。彼らは“庶民”の生活になんて、そもそも興味を持っていないのだから。

だいたい、政治家の連中が、選挙対策として高齢者のご機嫌を取ろうとするなら、年金支給年齢の引き上げ、高齢者医療制度の自己負担率引き上げ、消費税率引き上げ、介護医療制度の改悪、異様な低金利誘導などといった“高齢者イジメ”とも言える政策を断行するはずがなかろう。

要するに、選挙に行こうが行くまいが、庶民に対して苛政を以って対峙しようとする政治家の姿勢に変化はないのだ。

また、「選挙に行かないから若者向けの政策が疎かになる」という決まり文句にも説得力はない。

舞田氏の主張どおり、昭和40年代のように、若者世代の投票率と政治の方向性とが正の関係にあったのは、単に、“高度成長期の只中にあった”というだけのことだろう。

当時の若者層の高投票率は、1960年代に一世を風靡した安保闘争や大学紛争などの影響を受けただけに過ぎないし、それが経済成長を後押ししたわけでもない。

なぜなら、当時の若者の政治に対するエネルギーは、経済政策よりも、安全保障問題や反戦運動、大学自治みたいなボンヤリしたイシューに重きを置いており、投票行動が日本経済を動かしたと捉えるには、かなり無理があるからだ。

若者が選挙に行かない限り、景気対策や雇用対策、少子化対策などといった自分たちの政治的な要求は通らない、というのは、一見まともな意見に見える。
しかし、当の政治家たちが、そういった問題に対する危機感を共有しようという意欲を持たない限り、それが実現されることはなく机上の空論に過ぎない。

この先、若者の投票率が劇的に向上し、それにより前回の選挙で惜しくも落選した特定の候補者が当選できたと仮定しよう。
では、前回の落選者の中に、若者だけでなく、広く国民の生活向上に資する政策を強く訴えていた候補者が、そんなに沢山いただろうか?

私は一人も思い出せない。

現職の議員を見ても、落選した議員を見ても、残念ながら、日本を老害天国から救える目ぼしい人材は殆どいない。

若者の投票行動が世の中を変える、なんていうのは、世間知らずのセンチメンタルな意見である。

なぜなら、現職も、これから出てくるだろう候補者も、おおよそ既存の政党に属する連中には、ロクな人材がいないからだ。

いずれも、庶民の生活なんて二の次、三の次の新自由主義者ばかりで、そういったポンコツだらけの連中に、まともな政策を期待する方が間違っている。
いわば、汚水に塗れたバケツから清水を掬おうとするようなものだ。

もはや、日本の政党政治は耐用年数を終え、機能していない。
国民よりも政党内の立場にしか目が行かない“サラリーマン議員”の巣窟と化している。

これは、小選挙区制を中選挙区に戻す、といった手段で解決可能な問題ではなく、政党政治や議院内閣制、民主主義の象徴としての選挙制度などといった既存の政治機構を一旦ご破算にするくらいの大胆な制度や発想の転換が必要だろう。

筆者としては、「役に立たない“(自称)政治のプロ”」の発言力を削ぎ、彼らの奮起を促す意味も込めて、有権者のうち国会議員への就任を希望する者を予め登録させ、国政選挙のたびに、無投票率に該当する議席分を、この登録者の中から無作為に選出する方式を提案したいが、この点に関する詳しい話は、また別の機会に論じたい。

今回採り上げた舞田氏のように、日本の老害病の責めを全て若者におっ被せようとするなんてトンデモナイことだ。

若者は今日・明日の生活で手一杯だし、数年に一度の選挙に行ったところで、政治を簡単には変えられないことくらい、とっくに悟り切っている。

そもそも、庶民のための政治なんて端からやる気がないくせに、国民に対して、「俺たちの気持ちを動かしたいなら、お前らが投票に行けよ」と脅しをかけること自体が、烏滸がましい行為だ。

政治家たるもの、自ら政治を志す以上、国民が投票に行こうが行くまいが、率先して、国民や国家のニーズを探り、国民生活の安定や発展に資する政策を勉強し、実践するのが当然だ。

政治家に課せられた義務を勝手に放棄し、“自分たちが動けないのは、投票しない若者のせいだ”と開き直るのは、まさに本末転倒であり、そんなバカ者は政治家失格で、今すぐ議員バッジを返上すべきだ。

国会議員の成り手なんて、他に幾らでもいるのだから、やる気のないグズに議員の椅子を預ける必要はない。

舞田氏もそうだが、常識人を気取り、政治家の義務を易々と放棄するバカ者に同調して、“若者が投票に行かないから、何時まで経っても政治が良くならない”と、いい加減な論を吐くクズな連中こそが、日本を老害大国に貶めた張本人だと言える。

2016年2月12日 (金)

株価と改革だけで経済を語るバカ者

本原稿を書いている時点で、日経平均株価は前日比800円以上値下がりし、15,000円を割り込んでいる。

しかし、筆者は株価の動向に一喜一憂する気はない。

年金基金や機関投資家の運用、企業の決算などを考慮すれば、当然、株価は高いに越したことはないが、ここ2年間くらいのチャートを見ると、日経平均は上下7,000円くらいの値幅で変動しており、少々値下がりしたとて大騒ぎする必要もなかろう。

問題なのは、『日経平均株価=日本経済を映す鏡』だとばかりに、株価が上がるたびに“一喜”するバカな連中が、政官財の要所要所に充満していることだ。

こうしたマヌケな連中が、株価上昇に乗じて、“景気回復だ”、“トリクルダウン効果だ”と大騒ぎするが、そのたびに、経済政策は金融政策のみで事足れりという風潮が蔓延し、肝心要の財政政策が選択肢から巧みに除外されてしまう。

昨年10~12月期のGDPも、多くのエコノミストがマイナス成長を予測しており、景気の減速が顕在化しているにも関わらず、特効薬たる財政政策を求める声は皆無に近い。
株価がちょっとでも上がると“景気は着実に回復している”と鼻息が荒くなるくせに、株価が暴落しても、不思議と景気対策を求める声は上がってこないものだ。

さて、ここ数日の株価下落を受けて、その要因を日銀のマイナス金利政策に求める意見が相次いでいる。

先月29日にサプライズ発表されたマイナス金利政策の狙いは、実質金利引き下げによる投融資の活発化や円安・株高の演出にあると言われ、中には、最大の借り手である日本国の財政救済だという暴論まで飛び出すありさまだ。

確かに、マイナス金利が発動して2週間余りの間に起ったことは、当初の目論見を裏切ることばかりだが、その功罪について現時点の株価のみで判断するべきではない。

個人的に、マイナス金利政策は、日銀が望むような効果、特に、投融資の活発化につながる可能性はゼロに近いと思う。
なぜなら、日銀やリフレ派の連中が夢想するほど、実体経済の投融資は『実質金利の高低』の影響を受けていないからだ。

企業や家計が積極的な投融資に踏み切るには、調達した元本+利子分以上の収益を得る確信が必要になるはずだが、現状の実体経済には、そのような収益のチャンスが転がっているようには思えず、少々金利(実質金利)が下がったからといって、投融資に前のめりになれる者は、そう多くは居るまい。

一方の為替や株価の動向については、マイナス金利政策のみに影響を受ける性質のものではないから、現状の円高・株安の責めを、マイナス金利のみに負わせるのは酷だろう。

所詮、マイナス金利政策なんて金融政策の一アイテムに過ぎず、そもそも、マクロ経済を大きく動かすほどのパワーは持っておらず、せいぜい、金融市場の低金利をダラダラ継続させるだけに終わるだろう。
そんな些末な政策に目くじらを立てる必要もない。

また、“マイナス金利の失敗でアベノミクスの限界が見えた”という台詞にも違和感を覚える。
アベノミクスは、マイナス金利のような奇策に頼るより遥か以前の、政権発足直後以降の経済運営において財政政策を蔑ろにしている時点で、既に限界を迎えていたからだ。
アベノミクスは、とうの昔に限界を迎え、その効力を失っている。

先日、とあるニュース番組でマイナス金利が取り上げられ、番組の司会者が訳知り顔で、「黒田総裁はマイナス金利という思い切った賭けに出た。日銀はやるべきことはやっており、いまやボールは政府側にある。政府は、早急に財政健全化の道筋をつけ、構造改革や規制緩和を断行すべきだ」と意味不明な解説をぶっていた。

この寝惚けた司会者のように、政府側のやるべき政策オプションとして、「マイナス金利+緊縮財政+構造改革+規制緩和」の四点セットを挙げるバカ者の無神経さと不勉強ぶりには激しい憤りを覚える。

「マイナス金利+緊縮財政+構造改革+規制緩和」と景気回復との間に、いったい何の関係があるのか?
経済の本質を理解できずに、「緊縮・改革=良いこと」という思い込みに酔っているから、こんな周回遅れの台詞が口をつくのだろう。

この類いの“改革バカ”こそ、前述したとおり、株さえ上げれば景気が良いと錯覚する幼稚な「株価経済主義者」の最たるものだろう。

だが、経済に無頓着なのは、マスコミだけではない。

政府は経済政策を日銀の金融政策に丸投げするだけで、自らタクトを振ろうとする気概は全く感じられない。
「景気回復」という言葉が躍るだけで、そのために何が必要なのかを全く理解できていないから、株価や為替の動向に右往左往するばかりで、イニシアティブを取ろうとしない。

また、日銀も、異次元緩和政策やマイナス金利をはじめ、マーケットに対するサプライズや市場に与えるインパクトの大きさばかりを気にするだけで、その先にある実体経済への気配りが足りない。

だが、実体経済の主役は企業や家計であり、そこを直接的に刺激する経済政策でなければ何の意味もない。

玄人ぶって、日銀にマーケットとの対話の重要性を説くバカをよく見かけるが、政府日銀とマーケットとの“内輪話”や“サプライズごっこ”なんて、どうでもよいのだ。
円安や株高だと騒いでも、そういった経済因子を実業の糧にするだけの資金力がなければ、そんなものはただの雑音に過ぎない。

政府や日銀が真に対話すべきは、実体経済を司る企業や家計であり、そこへ投ずべきは、「緊縮財政+構造改革+規制緩和」の毒薬3点セットではなく、そうした経済主体の懐を直接的に潤せる政策でなければなるまい。

果たして、「マイナス金利+緊縮財政+構造改革+規制緩和」のような愚策がそれに相応しいものか否か、ちょっと考えれば子供でも解かるはずだが……

2016年2月10日 (水)

貨幣は国家が造るもの〜カネを惜しんで国民を苦しませるな!〜

筆者も参加している「進撃の庶民」のサイトに、非常に興味深いブログが紹介されていたので、読者の皆様にもご紹介したい。

『政府紙幣と機能的財政論』holyfirework様
(http://ameblo.jp/holyfirework/entry-12123541200.html)

こちらのエントリーには、アメリカの南北戦争時に発行された政府紙幣(グリーンバック紙幣)の生まれた経緯を軸に、アメリカ独立や南北戦争が起こった背景について、貨幣国定説を絡めた示唆に富んだ論考が掲載されている。

リンカーンは、南北戦争という国家の大危機を前にして、当時の財務長官チェースの献策を容れて1862年~63年の2年間で450億ドルの新紙幣(グリーンバック紙幣)を発行して戦費を調達し、アメリカの統一という大事業を成し遂げたそうだ。

アメリカの南北戦争は、対外戦争ではなく、国内戦争であるため、国家基盤やそれに担保された国家の信用は、外国と戦火を交える場合より大きく棄損されるはずだろう。
なにせ、国家が二分され互いに殺し合うのだから、国家の弱体化は免れ得ない。

財政破綻教の常識からすると、そんな折に政府紙幣を増刷しても誰にも信用されないか、あるいは、たちまちハイパーインフレになり、市場が大混乱に陥ってしまうはずだ。
しかし、史実を見ると、そういった懸念はまったくの杞憂に過ぎなかったようで、実際に、グリーンバック紙幣は何の問題もなく流通し、兵士の給料支払いや軍事物資の調達に使用されたようだ。

この辺りの事情は、戊辰戦争による財源不足や殖産興業に向けた資金不足を補うために明治政府が1868年に発行した太政官札とよく似ている。
太政官札も、発行当初こそ紙幣に不慣れな国民になかなか流通しなかったが、政府が、太政官札を額面以下で正貨と交換することを禁止したり、租税および諸上納に太政官札を使うように命じたりしたことで、やがて問題なく流通するようになった。
つまり、国家の法制力により法定貨幣が通用する『貨幣国定説』が機能したということだ。

アメリカの南北戦争にしろ、明治維新にしろ、近代では国家の命運を揺るがす一大事が起きるたびに政府紙幣の存在がクローズアップされることがある。
大事業を成すためには、それ相応の資金が必要になるのだ。
裏を返すと、国家に火急の事態が生じると、カネよりも武器や物資の価値の方が遥かに上がり、“通貨の信認”云々という綺麗事など言っていられなくなるということだろう。

翻って、我が国を取り巻く現状はどうであろうか?

すでにバブル崩壊後20年以上の時が経過したが、その間に政府が積極的な経済政策を打ったのはほんの僅かな期間だけで、総じて緊縮政策や構造改革騒ぎに興じるばかりで、成長を諦め不況を放置している。
少子高齢化社会を運命づけられた日本、はもはや成長できないとばかりに、緊縮策を押し付け、“身の丈経済社会”を強制しようとしている。

長らく不況を放置し続けたツケはとてつもなく大きい。

厚労省の資料(平成23 年度社会保障予算~限界が見えた財源の捻出~)によると、年金・医療・福祉などの社会保障給付費の総額は、(データが古いが…)H22予算ベースで105兆円に達し、ここ20年余りで倍増している。

高齢者の人口割合が増加の一途を辿り、将来的にも社会保障費の負担増加が確実視される一方で、労働者層の所得は横ばい、或いは、下降のトレンドを描いており、家計における社会保障関連の負担は増すばかりだ。

こうした負担増加に対して、政府は、年金支給年齢の引き上げや支給額の引き下げ、薬価や診療報酬の改訂、高齢者の健康増進運動などの対応策を取っているが、まったく役に立っていない。
特に、年金支給年齢の引き上げや支給額の引き下げは、現役世代のモチベーションアップを邪魔するとともに、世代間闘争を煽り、家計防衛意識をますます高めるだけで、消費をシュリンクさせるだけの愚策としか言えない。

たったの20年で倍以上に膨れ上がる社会保障費を、現役世代だけで補填するなんて、あまりに荒唐無稽な方策だろう。
これは、人口構成の大きな変動がもたらした経済的厄災であり、国民の責めに帰すべき性格のものではない。
であれば、誰の腹も痛める必要はなく、通貨発行権という国家が共有する無尽蔵の財源を活用すればよい。

年間ベースで50兆円も増えた社会保障費を、政府紙幣を活用して負担すれば、大規模な財政政策と同様の景気刺激効果が見込まれる。

サラリーマン諸氏は、自分の給与明細を見れば気付くと思うが、総支給額から天引きされる控除項目のうち、税金よりも年金や保険の金額の方が遥かに多くなっている。
総支給額のうち、おおよそ20%くらいの金額が控除されてしまい、差引支給額は惨憺たる金額になってしまう。
この部分の国庫負担割合をぐっと引き上げて、手元に残る実所得を増やせば、勤労者世帯にとって大きな所得増加につながるだろう。

また、以前から問題になっている介護事業従事者の低賃金問題解消のための財源として活用するのも良い。

こうした「カネを使うべき」事業や分野は、それこそ幾らでもあるだろう。
多くの国民や業界から、国庫負担を求めるWillリストを募り、政府紙幣を財源とする資金供給を行ってもよい。
カネの価値や通貨の信認を惜しんで、不況を成すがまま放置するなど、あまりにバカバカしい行為である。

カネの価値が多少下るくらいなんでもない。
国家による資金手当てにより、様々な事業や制度が円滑に運営され、国民の効用が上がり、国家全体としての厚生が遥かに高まるだろう。

国家を支える根幹は人材の育成にある。
先進国と発展途上国との教育環境や教育水準を見れば、それは一目瞭然だろう。

だが、日本の教育を取り巻く環境は全く予断を許さない。

独立行政法人日本学生支援機構の資料によると、大学生の収入事情は、H24の年間収入は約200万円と10年前と比較して24万円余りも下がっている。
(http://www.garbagenews.net/archives/1989935.html)
減額の主因は、実家からの仕送り額が34万円も減っていることで、その分を奨学金などで補填して凌いでいるようだ。

国立大学の年間授業料は54万円ほどと、バブル期の1.8倍にも跳ね上がる一方で、その間家計は不況の只中にあり、仕送り額を減らさざるを得なかったことが解かる。

このため、昨今の大学生は奨学金に頼らざるを得ず、H24の大学生の奨学金利用割合は52.5%とH4の22.4%から大幅に増加している。
そして、奨学金を利用した多くの学生が、就職後のローン返済に苦しめられることになる。

日本の将来を担うべき最高学府の人材が、生活資金の確保や借金返済に汲々とさせられるなど異常としか言いようがない。
国公立大学の授業料くらい年間5千億円ほどもあれば賄えるだろう。
この程度なら、国債の増発や政府紙幣を活用して難なく調達できるはずだ。

国家の礎となる貴重な人材にカネで苦労させるよりも、そうした労力を勉強や研究に振り向けさせる方が、国家的厚生は遥かに向上する。

いくらでも創り出せる通貨を惜しんで国家を支える人材を疲弊させるようなことは、決してあってはならない。

2016年2月 8日 (月)

「実質金利」の限界

『15年の実質賃金0・9%減 物価上昇で4年連続下げ』
(2016年2月8日 09時30分 共同通信47NEWS)
「厚生労働省が8日発表した毎月勤労統計調査(速報)によると、2015年の働く人1人当たりの給与総額(名目賃金)は月平均31万3856円で、前年より0・1%増えた。増加は2年連続。ただ物価上昇の方が大きかったため、物価の影響を考慮した実質賃金は0・9%減で、4年連続のマイナスだった」

厚労省の発表によると名目賃金が、ほんの僅かばかり増えたようだが、たったの0.1%増ではあまりに迫力に欠ける。
30万円の月給だとして、0.1%なら、たったの300円増えただけだから、まったく増えていないと感じる人も多いのではないか。

しかも、日用品を中心とした物価上昇の影響で実質賃金は4年連続ダウンしているため、一般の家計の感覚なら、安倍政権になって以降、ずっと不景気が続いていると感じるだろう。

「実質賃金」の話をすると、リフレ派の連中から「名目賃金は上がっており、アベノミクスの成果はきちんと出ている」と文句を言われそうだ。

相変わらず、リフレ政策の根幹を成す物価目標の未達状態が続いているということは、名実ともに賃金水準の上昇率が不十分であるということになるはずだが、彼らがそれを受け容れようとしない。

そんな実質賃金嫌いのリフレ派だけど、同じ実質値でも「実質金利」の方は大好物だから、ややこしい。

ご存知の方も多いだろうが、リフレ政策は、「貨幣数量説」と「フィッシャー方程式」を理論的なベースとしている。

貨幣数量説は、『貨幣供給量×流通速度=物価×実質GDP(国内総生産)』という式を基に、世の中に出回るお金の量を増やせば物価は上がるという理論で、一見、尤もらしいが、“世の中の出回るお金”に、日銀当座預金で爆睡中のブタ積み資金まで加算するから実体経済とのズレが大きく、ほとんど役に立っていない。

もう一つのフィッシャー方程式は、米国の経済学者アーヴィング・フィッシャーが1930年に唱えた理論で、『実質金利=名目金利-期待インフレ率』で表される。
この式を変換すると『名目金利=実質金利+期待インフレ率』となり、名目金利が一定なら期待インフレ率を高められれば実質金利の低下につながり、それによって個人消費や企業の設備投資が促進され、物価上昇や景気回復を通じたデフレ脱却へ向かう、という理論である。

ここで筆者が疑問に感じるのは、リフレ派の連中が考えるほど都合よく、実体経済で活動する企業や家計等といった経済主体が「実質金利」に反応するのか、という点である。

そもそも、「期待インフレ率」なる指標が顕在化するのかどうかも怪しいものだが、存在し得ると仮定し、それが高まり、マクロ的視野で測った場合の「実質金利」が低下したとして、現況のような長期不況下にある状態で、果たして、多くの経済主体が、それをビジネスチャンスと認識し、消費や投資を活発化させるだろうか?

期待インフレ率が上昇したとしても、当然、業種や事業者、或いは、製品や商品単位でバラつきが出るだろうから、実質金利の下がり具合にも温度差が生じるため、「実質金利低下=投資や消費の活発化」という公式が成り立つ保証はない。

自分たちの業界が取り扱う商品が、すべからく、インフレ率上昇による商機に恵まれるわけではなく、業界内の競争が激しく、物価動向に便乗した値上げや販路拡大をできない業界や事業者は、実質金利が低下するどころか、仕入コストの波に呑まれることさえある。

実質金利の低下が投資環境の改善を促すこともあるだろうが、それは好況期に限定され、投資に対するインセンティブが低下する不況期においては、大した効果は望めない。

特に、20年にも及ぶ長期不況を経て、企業や家計は投資や消費に相当慎重になっている。
しかも、アベノミクスの成果とやらも、ほんの一部に限定され、せいぜい“給料の下落に歯止めが掛かりつつある”といった程度のものに過ぎず、企業や家計は、いまだに経済動向に対して強い猜疑心を抱いているのが実態だ。

こうした経済環境下で、実質金利が少々上がったからといって、消費や投資に前のめりになる理由などなかろう。
なにせ、彼らには、消費や投資以外に貯蓄(支出しないという意味も含めて)という選択肢もあるのだから。

インフレ率が上昇し、いくら実質的な金利が低下したとしても、投資に対するリターンが見込めないような経済環境であれば、そもそも投資することの意味が失われてしまう。

実質金利の低下は、十分に活性化した経済環境に対するブースター的な効果は見込めるものの、それ自体が、単体で大きな経済的モーメントを引き起こすような力を持ち得てはいない。

リフレ派の連中は、実質金利が下がっても消費や投資に興味を持てない経済主体を指して、「ビジネスチャンスをむざむざと逃す感度の低い人たち」だと揶揄するかもしれない。

だが、斜に構えて上から目線で、脱落者たちを揶揄しても事態は改善しない。
世の中には、実質金利が高かろうが低かろうが、そんなものには関係なく投資に踏み出せない企業など掃いて捨てるほど存在しているからだ。

そうした企業は、そもそも、投資に際して金利水準なんて気にしていない。
彼らが考慮するのは、長期的な売上や収益の見通しに関する確度のみであり、さらに金利(実質金利を含む)が低ければ、なお良し、といった程度のものだ。

確かに、高度成長期やバブル期のように、比較的金利水準や物価上昇率が高く、商機が続々と湧き出てくる経済環境下なら実質金利が果たす役割は大きい。
なぜなら、こうした経済状況下では、投資から収益獲得までの間の時間短縮や機会損失の防止が大きな意味を持ち、金利水準云々よりも、一日でも早く投資資金を手に入れることが重要視されるからだ。

しかし、少々持ち直したとはいえ、現状の経済環境は明らかに不況下にあり、日本経済は重度の内臓疾患を患ったまま、いまだ病床にあるというべきだろう。

実質金利の低下は、いわば、お得なディナー券を手に入れるようなものだ。
元気に外に出て働けるような人なら、それをこぞって手に入れようとするはずだ。
だが、体調を崩して病床で横たわっている人に、いくらディナー券をチラつかせても、そもそも食欲がないのだから、そんなものは要らないと迷惑がられるだけだろう。

世の中のあらゆる経済主体が、実質金利を見て投資や消費に前のめりになると妄想するは大間違いである。
リフレ派は、実質金利云々を論じる前に、それがキチンと機能する経済状態が創出されるよう適切な経済政策を訴えるべきだ。

2016年2月 3日 (水)

「外需信仰」という防波堤

この間、農林漁業者の会合に参加したが、その席で挨拶に立った農業者が、「TPP大筋合意のニュースで農家は大変動揺している。国内の人口は2050年ころには8,000万人くらいに減るから、今後は東南アジアなど海外輸出を増やすしか選択肢はない」といった趣旨のスピーチをしていた。

筆者は、こういった“経済動向は人口に束縛される”という類いの都市伝説を彼方此方で聞くたびにウンザリさせられるのだが、この手の「胃袋経済論者」が喜びそうなニュースが報じられた。

『農林水産物輸出額 過去最高の7452億円-27年』
(農業協同組合新聞 2016年2月3日)
「農林水産省は2月2日、平成27年の農林水産物・食品の輸出額(速報値)を発表した。3年連続で最高額を更新し前年比で1335億円増え7452億円(21.8%増)となった。
政府は農林水産物・食品の輸出を平成32年に1兆円とする目標を掲げ28年に7000億円とする中間目標を立てていたが、これを前倒しで達成した。(後略)」
http://www.jacom.or.jp/nousei/news/2016/02/160202-29056.php

価格が高いばかりで大した付加価値もないフランスワインですら、年間輸出額が1.2兆円(2012年/FAO資料)にもなろうというのだから、質の高い日本の農産物(加工品を含む)の輸出高が、今後大幅に伸びても何の不思議もない。
海外に売れば売るだけ農業者の所得向上になるのだから、官民挙げて大いに輸出に注力すればよい。

だが、筆者は、こうした輸出礼賛一色の記事を読むたびに強い違和感を覚える。

なぜなら、胃袋経済論者が外需獲得や輸出を語る際には、必ずと言ってよいほど、内需縮小宿命論を前提に、内需振興と輸出拡大とが対峙させられ、さも当然のように両者をトレード・オフの関係に置いて論じるからだ。
もはや、“外需のためなら内需を犠牲にしても構わない”と言わんばかりである。

しかし、農産物や関連する加工品の外需拡大には、大きな課題が残っており、政府が夢想するほど簡単なものではない。

一つには、物流の根本を成す輸出インフラ整備の立ち遅れの問題があり、もう一つには、製造や物流コスト高の問題、また、外需の不安定さという日本マターでは解決不能な厄介な問題も立ちはだかる。

政府が輸出振興を叫ぶのは口先だけで、国内のインフラ整備は立ち遅れており、生産地や加工地と輸出の出発点となる海上コンテナや航空貨物の拠点地域との距離の問題が生じている。

生産地の近くに、輸出規格の港湾施設や国際定期便が発着する空港が、きちんと整備されていればよいのだが、現実には、国内における海外コンテナの主要な船積港(輸出量月3000トン以上)は東京・横浜・神戸など8か所、航空貨物の発空港は成田・羽田・関西など7か所程度に止まる。

輸出と簡単に言っても、港のすぐ傍で物を作っているわけではない。
青森の農産物を東京や神戸まで運んだり、稚内の水産物を400㎞以上離れた苫小牧港まで輸送したりする手間やコストが当然掛かる。

このほかにも、コンテナを埋めるだけの物量の確保、混載時の温度管理・臭気防止、破損防止用の緩衝材の問題(コスト高・回収費用・国別の材質規制)、輸出中の温度・湿度・鮮度管理、輸出先での煩い検疫やその割に貧弱な冷蔵設備の問題、復路の空荷輸送等々、眼が眩むほど大量の課題をクリアせねばならない。

特に、コンテナに搭載する積み荷の確保が大きなネックとなる。
海上コンテナの長さは、主に20フィート (6,058mm)、40フィート (12,192mm) の2種類があり、幅は8フィート (2,438mm)、高さは8フィート6インチ (2,591mm)もあるため、これだけの量の荷を積み、継続的に売り捌くだけの販路を確保する必要がある。

概して小規模事業者の多い農林漁業者や加工食品メーカーにとって、これは高い壁となる。
複数の事業者や農家から多品種の積み荷を預かり、それらを混載させる手もあるが、温度管理や臭気防止のほかにも、生産計画や出荷時期もバラバラであり、現実的にはかなり難しい。

また、昨今、中国発の経済危機到来が懸念され、それが新興国や資源国に波及し、世界同時不況が囁かれている情勢で、徒に外需へドライブをかけるのは、後の火種となりかねない。

国内需要を満たした余りを輸出して小遣い稼ぎをするつもりならよいが、外需をメインマーケットに見立て、それに寄り掛かろうとするのは非常にリスクが高い。

国際通貨基金(IMF)が1月19日に公表した今年の世界経済見通し(改定値)では、2016年と2017年の世界全体の成長率をそれぞれ3.4%、3.6%とし、いずれも、当初見通しより0.2%下方修正し、特に、ブラジルやロシアなどの資源国はマイナス成長を予測している。

農産物や加工品などの売上総体(内需+外需)が伸びるのは構わない。
問題なのは、その内訳に占める外需依存度を過度に引き上げてしまうことだ。

高級メロンが飛ぶように売れるからと調子に乗り、外国人にさえ売ればよいと外需に頼り切っていると、中国の経済不況の波をモロに被った新興国や資源国の失敗と同じ構図になってしまうだろう。
自国によるコントロールの範囲外にある外需への依存度が増すだけ、産業としてのリスクは高まり脆弱性が増すことに警戒すべきだ。

どうも、政府や官僚、財界ばかりか、当の農業者まで、内需と外需とをトレード・オフの対立軸で捉え、成長する外需に気を取られ、内需を蔑ろにする思想に憑りつかれているようだ。
あたかも、「国内人口の減少は止められず、このままでは日本経済は破綻する」、「いまどき内需振興を口にするのは時代遅れの恥ずかしいこと」だと言わんばかりである。

だが、国内の所得の総計でもあるGDPの動向は、人口のみに左右される訳ではない。

100名が500万円ずつ消費するよりも、90名が700万円ずつ消費できる社会の方が、遥かに豊かであることくらい、すぐに理解できるだろう。

現在、平均で600円ほどのサラリーマンのランチ代が、バブル時代のように750円くらいになれば、それだけで経済成長できるのだから、少々人口が減ったからといって悲観する必要はない。

人口の減少率を、一人当たりの所得や消費に使う金額の増加率が上回ればよいだけの話だ。
そうした豊かな社会を形成できれば、遠からぬ将来に人口減少のトレンドを変えることも容易だろう。

冒頭にご紹介したスピーカーではないが、やたらと“輸出だ、外需だ”と持ち上げる連中は、外需に期待するというよりも、むしろ、内需振興を求める意見を鎮圧するための“殺虫剤”として、都合よく外需という言葉を利用しているだけだ。

彼らは、外需や輸出拡大に煌々たる光を当てる一方で、内需をその対義語として位置付け、そこに暗い陰影を落とすことにより、内需を創造する財政政策に“時代おくれ”、“禁じ手”というイメージを植え付けようとしている。

外需依存症の連中が外需振興を叫ぶ意図は、海外市場の開拓というよりも、案外、内需拡大に固執する気に食わない勢力を黙らせたい、という辺りにあるのではないか。

しかし、本来、内需と外需は対立させるべきものではなく、両立させてこそ相乗効果を発揮できるものだろう。
特に、農産物などは、産出額全体で8.5兆円にもなり、輸出の占める割合は1割にも満たない。
伸び盛りの輸出振興に注力するのは良いとして、メインマーケットたる国内需要の掘り起こしを放棄する意味など全く見出せない。

「人口が減る国内からいかに上手く逃げ出すか」ではなく、「当面人口減少が見込まれる国内において、いかに一人当たりの農林水産品の購入額を引き上げられるか」に知恵を絞るべきだ。

必死に外貨を稼いでも、長期的な時間軸で見れば、輸出量の増加に伴う自国通貨高の壁に何時かはぶつかることになる。
そうしたリスクを回避できる国内需要の振興と掘り起こしにこそ、注力すべきである。

製造業では、最終消費地の近くで生産する「消費地生産」の美名の下で、野放図な製造拠点の海外移転が進められてきたが、このまま外需依存症を放置していると、将来的に農業従事者の海外移転すら進みかねない。

こうした事態を招かぬためにも、積極的な財政金融政策による内需拡大を図り、農業の地産地消促進に向けた社会基盤を創り上げていくべきだ。

2016年2月 2日 (火)

大衆相手の言論活動の難しさ

読者の皆様は、ブログやツイッターなどのソーシャルメディアを、どのように活用しているだろうか?

私も自ブログを開設して超不定期便で記事を投稿するとともに、「進撃の庶民様」のサイト(http://ameblo.jp/shingekinosyomin/)をお借りして拙文をご提供する機会を頂戴している。

私などは、年がら年中、「大規模な財政金融政策だ」、「国債をもっと刷れ、政府紙幣も活用しろ」と叫んだり、リフレ派や緊縮財政派(+エセ分配一派も)の悪口を言ったりして、“自分基準の言論活動”に勤しんでいるわけだが、いわゆるソーシャルメディアを言論活動に使うのは、実際は極めて少数派に過ぎない。

ちょっと古いデータだが、総務省が2008年に行った調査によると、日本国内で公開されているブログの総数は、およそ1700万もあったそうだが、そのうち稼働しているのは300万ほど、約18%に過ぎず、記事総数でカウントすると、約13億本のうち8億本が読まれていないそうだ。

また、総務省「次世代ICT社会の実現がもたらす可能性に関する調査」(平成23年)によると、ブログやSNSの利用目的で最も多かったのは、「知りたいことについての情報を探すため(ブログで40.2%)」で、次いで「同じ趣味・思考を持つ人を探すため(同39.8%)」、「知人とのコミュニケーションのため(同11.1%)」という結果だった。

ちなみに、言論活動っぽい範疇での活用割合(「社会・地域コミュニティの問題解決等」という回答)は、ブログで2.5%、フェイスブックなどで0.9%、ツイッターで2.3%と、ほんの僅かに過ぎなかった。
(http://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h23/html/nc232320.html)

「ソーシャルメディアの出現により、情報発信の多角化や多様化が実現した。これは、情報革命だ!」なんて大騒ぎするのは、いささか勇み足というもので、大半は、ベッキーときのこ頭のクズのように、存在価値マイナス以下のしょーもない文字の羅列に費やされているのが現実だろう。

さて、ブログやSNSを通じて、社会的あるいは経済的な思想や持論を世に発信している論者の中には、持説が世間になかなか浸透せず、それどころか、政治や世論の流れが真反対の方向に爆走するのを見て、表現しがたい無力感や徒労感に苛まれている方も多いことだろう。

“それもこれも、国民や大衆が愚かで無知なせいだ、このまま言論活動を続けることに意味があるのか”、と愚痴をこぼしたくなる気持ちもよく解かる。

前置きが長くなったが、今回のコラムでは、「大衆は愚かな存在なのか」、「愚かだとして、そういった大衆相手に行う言論活動は無意味なのか」という2点に私見を述べたい。

先ず、「“大衆の愚かさ”に関してお前はどう思うのか?」と問われたなら、私は迷わず、こう答える。

「大衆は、社会的規範を順守し、各々が与えられた地位や職業などの役割においては、おおむねまじめで勤勉である。しかし、こと、安全保障、経済、エネルギー、食糧等といった社会構造の骨格となる諸課題に関しては、おおよそ無関心で、自分たちの立場を悪くするような愚かしい選択を繰り返してばかりいる。その思考や行動原理はミクロ的視野に支配され、マクロ的視野でモノを考えようとする気が無い。つまり、総じて愚かな存在である」と。

私とて、ブログでエラそうな高説をぶってはいるが、所詮は大衆を構成する一員に過ぎない。
しかし、自己の利益を侵害することが明らかな政策ばかりを、わざわざ積極的に選択し続けるような愚を犯すことはない。

選挙のたびにマスコミが行う世論調査では、必ずと言ってよいほど「経済問題や社会保障の問題を解決してほしい」、「景気を回復させてほしい」という回答が上位を占めるが、回答した大衆が、“経済や景気の意味”を理解しているようには思えないし、理解するための努力をする様子もまったく見受けられない。

“じゃあ、景気を回復させるにはどうすべきか?”と彼らに問うと、「カルロス・ゴーンのような改革者が政治家になるべきだ」、「日本経済が不調なのは、アップルやグーグルみたいな革新的な企業がいないからだ」、「政治はムダ遣いを止めろ」、「TPPをステップにし、国際化の波に乗り遅れるな」などといった小学生みたいな答えが返ってくることだろう。

経営と経済とを混同し、改革や供給サイドが経済を牽引するという古びた因習に囚われたまま一向に進化する気配がない。
彼らは、「改革・変化・グローバル化・革新」みたいなカッコイイ言葉に乗せられ、自らの実利を簡単に手放そうとする。

こうして、「緊縮→改革→デフレ→不況→緊縮…」という無限ループの罠に嵌り続けるのだが、それが自分たちの生活や雇用の破壊につながることに気付こうともしない。

20年も不況が続いているのだから、いい加減に自分たちの発想が間違っているのではないかと疑うべきだが、彼らは、地獄への一本道を前進する考えを変える気はないようだ。

それどころか、景気が悪いのは改革が足りないせいだ、という前提条件の下で、郵便局員→公務員→土建業者→農家といった具合に、次々に悪人を仕立て上げ、魔女狩りに勤しむありさまだから、呆れるよりほかない。

自らの生活に害を及ぼす政策を選択し続けておきながら、自身の不徳を絶対に認めようとせず、全ての責を外部や世間に押し付けようとする大衆に対しては、「救いようのない愚か者」だとしか言い表せない。

次に、「大衆が愚か者だとして、そういった大衆相手に行う言論活動は無意味なのか」という点について述べたい。

最初に結論を述べると、「言論活動の目的を“持説を普及させて大衆の意識を変え、それを政治や政策に反映させること”のみに限定してしまうと、せっかくの努力が無意味に成り得る」というものだ。

言論活動とは、自身が信じる特定の思想や信条を広く発信する行為だが、それを行う多くの論者は、持論が大衆に浸透し、その支持を得て政治や政策に反映され、やがて社会構造や経済構造に変化を与える、という構図を描いていると思う。

しかし、実際に、“言論の発信→大衆の支持→選挙へ影響→政策に反映→世の中が変化”という経路を辿る事例なんて極めて稀で、それを現実に成し得るのは、現時点では、巨大な情報ネットワークと発信能力を有するマスメディア以外には無理だろう。

例えば、オバマ大統領誕生の際の草の根運動や小泉(バカ)政権誕生時の熱狂をこうした公式に当て嵌める方も多いだろうが、私は、こうした事例も、単にマスコミ報道に煽られ、大衆が先導されたに過ぎないと考えている。

特定の論者の思想が大衆に広がって彼らが政権の座に就いたわけではなく、 “史上初の黒人大統領の誕生”、“自民党をぶっ壊すと叫ぶ改革者を新たなリーダーに”というマスコミ発のエポックメーキング活動に大衆が熱狂させられただけのことだろう。

では、現実に実行されている政策は、どのような支持や経路を得て誕生したのかといえば、政治や財界、官僚、それらの周囲に寄生するステークホルダーという極めて限定的なインナーサークルに携わる連中の思考が具現化されただけに過ぎない。

小泉バカ政権の誕生や構造改革(改悪)フィーバーも、マスコミがゼロから創造し、それが大衆の支持を得た、というよりも、むしろ、大衆の多くが、元々、深層心理内に抱えていた、社会的な権益(実際は大した権益でもないのだが…)を持つ者に対するルサンチマンや閉塞感の打開策として改革や変革を安易に選択しがちな無責任な態度に、マスコミが火を点けた、という方が正確だろう。

デフレ不況の発生と歩みを共にし、政策のメインストリームを形成してきた新自由主義や緊縮主義、構造改革主義的な政策も、特定の言論活動が大衆の支持を得て発生した、というよりも、元々、大衆の思考や世論に内在していた、あるいは、ビルドインされていた旧弊に対するルサンチマンが、マスコミに煽られて発露しただけのことだ。

私がよく批判するリフレ派の金融緩和絶対論なども、世間における支持率や浸透率は1%にも満たないだろうが、アベノミクスの一環として堂々と実行されている。
物価目標を悉く反故にしても、総裁や副総裁の首が飛ぶこともない。
これなども、決して、リフレ派の論者の主張が世に受け容れられ、政策に反映されたわけではなかろう。

要は、タイミングだけの問題なのだ。

個々の論者やブロガーの発信力など、所詮は微々たるものだ。
現実は、“言論の発信→大衆の支持→選挙へ影響→政策に反映→世の中が変化”というイメージどおりには動いてくれない。

大衆という生き物は、総じて、社会の変革に無関心で他人任せである。
そして、この“無関心”が、我々が想像する以上に、社会の前進を阻む重たい“アンカー”としてマイナスの機能を果たしている。

こうした重たいアンカーに縛り付けられた停滞した社会を動かすには、自己の努力以外の何らかのモーメントが必要になる。
自力のみで動かすのが、もはや不可能に近い“大衆というとてつもなく重たいアンカーに縛られた社会構造“を無理やり動かそうとするよりも、もっと梃子の原理を活用する方が簡単かもしれない。


では、“大衆への言論活動は無意味で、やり続けても仕方がない”という結論になるかといえば、そうではない。

“何をやっても世の中は変えられない、それなら無意味な活動なんて止めてしまえ”とばかりに言論活動を放棄すべきではないし、その必要もない、と明言しておきたい。

無料で発信できるツールが十分に揃っているのだから、活動の意味の有無は各自の判断に任せるとして、どんどん活用して持論を世に問うべきだろう。

そもそも、言論活動は、「意味がある」からやるべきものなのか?

それは、自分の想いと現実の政策や世論のうねりとの乖離に憤りを感じ、悪化する一方の世情を憂いて持論を世に問いたいという強烈な心情に突き動かされて自発的に行うものであり、意味や成果の有無を問うような筋合いのものではないだろう。

もっとシンプルに、自身の抑えきれぬ感情を発露する、という動機だけで良いのではないか。

言論活動を実践するうえで最も忌むべき行為や態度は、いつまでも変わらぬ現実に業を煮やしてコロリと変節し、持説を曲げてまで世論や強者に阿ったり、過去の自分と決別するために、それまで同調していた論者に無理やり噛みついたりすることだろう。

こういった類いの“賤しい転びバテレン”に堕ちぬよう心掛けたいものである。

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