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2017年7月

2017年7月24日 (月)

「安い◯◯は消費者の利益」というまやかし

『豪州産牛肉の輸入単価、米国産上回る 干ばつで生産減』(6/7 日経新聞)
http://www.nikkei.com/article/DGXLZO17433320X00C17A6QM8000/
「オーストラリア産牛肉の価格が米国産を上回る逆転現象が起きている。干ばつの影響で飼育頭数が減少し、現地価格の上昇が続いている。飼養頭数の減少に伴い輸出余力も低下しており、豪州産のシェアも低下している。
 貿易統計によると、2017年1~4月の豪州産牛肉(冷凍と冷蔵、関税除く)の輸入単価は1キロ約607円。米国産は同601円で、豪州産が1%上回っている。5年前の豪州産の価格は399円で、508円の米国産と比べて21%安だった。(略)
17年1~4月の関税適用後の価格は単純計算で米国産が1キロ約832円、豪州産が772円と米国産が高くなるが、適用後でも価格差は7%まで縮小している。(略)
価格差逆転を招いた要因が、豪州で13年から15年前半まで続いた干ばつだ。豪州産は牧草肥育が全体の3分の2程度を占めるとされる。(略)
 豪州の牛は生まれてから出荷まで12~36カ月かかるといい、市場に出回る牛肉の減少が価格上昇を招いた。(略)」

上記ニュースの要点は、豪州産と米国産の牛肉輸入価格の逆転ではなく、2016年時点で我が国の牛肉輸入の9割以上を占める豪州(54%)&米国(38%)の2大産地からの牛肉輸入価格が相当なスピードで上昇している点にある。

豪州や米国で頻発する干ばつ、中国による13年ぶりの米国産牛肉輸入再開がもたらす需給の逼迫などの要因もあり、米国産牛肉はボトム期(98年)と比較してドルベースで約2.5倍、豪州産は日経記事のとおり5年前と比べて約1.5倍と高騰している。

我が国の牛肉自給率は重量ベースで40%程度で推移し、生産量上位の北海道、鹿児島をはじめ、生産地が全国に広く分布している観点から、地方創生や震災復興を支える産業の一つとして、また、世界に誇る和食文化の中核をなす産品として、将来に亘って保護育成を図るべき分野であろう。

呑気なTPP推進論者は「関税引き下げで海外産の安い牛肉が大量に入ってくるのは消費者の利益だ」と大見得を切っていたが、国産牛肉(和牛で約2,400円/㎏、乳牛で約1,100円/㎏)も価格が上がってはいるものの、輸入牛肉との価格差は縮みつつある。

特に問題なのは、肉牛飼育に重大な影響をもたらす「干ばつ」が、豪州・米国両国で常態化しつつあることだ。

豪州は、20世紀以降、5年に一度は干ばつに見舞われていると言われ、ここ最近でも2006~2007年、2013年~2015年にかけて、雨不足により、小麦・大麦の収量が40%も落ちるほどの深刻な干ばつに見舞われている。

また、米国でも、カリフォルニア州で2011年冬季から干ばつが4年連続し、2014年以降も深刻化し、同州ではアウトドア水利用(芝生涵養、園芸)を制限するよう指示が出されるほどで、今年に入って南西部でも高温による干ばつが報告されている。

野放図で暴力的な自由貿易推進論者は、「A国からモノが買えないなら、B国から安く買えばよいではないか」と幼稚な意見を吐くが、現実には生産国が限定される品目も多々あり、気軽に代打を送れるわけではない。
しかも、肉牛の肥育には1~3年も掛かるから、工業製品とは違い、一旦肥育頭数が落ち込むと、その影響は数年にも及ぶ。

日経記事では、「17年の牛の飼養頭数は前年比2%増の2674万頭と4年ぶりの増加見通し」なんて書いてあるが、どうなるか分かったものではない。

“カネさえ積めば何でも買える”(そもそも、カネを過度に積むこと自体、自由貿易のメリットにならないのだが…)と勘違いしてるバカ者が、行き過ぎた自由貿易と国内産業の保護撤廃を叫ぶが、こと主要食糧の確保という観点から、国民の胃袋を“気候変動”という人智の及ばぬリスクに晒すわけにはいかないのだ。

筆者は地球温暖化論を否定する立場の者だが、温暖化云々の影響かどうかは別として、豪州や米国だけでなく、タイをはじめエチオピア、パプアニューギニア、インド、モロッコ、ハワイ、南アフリカ、スワジランド、ミャンマー、ベトナム、フィリピン、パラオ、ブラジル、ベネズエラ、ニカラグア等々、世界各地で深刻な干ばつに見舞われており、穀物や家畜の生産は、まさにタイトロープの上を渡っていると言ってよい。

TPP推進論者の幼稚な思い込みに付き合わされ、「いきなり!ステーキや吉野家の牛丼が安く食えるぞ‼」と意気込むのは勝手だが、このままでは380円の牛丼並盛が500円に値上げされる日も遠くはあるまい。

恐らくTPP推進論者は、「牛肉が高いなら、豚や鳥を食べればいいじゃないか」と、マリー・アントワネットみたいなことを言うだろうが、豚肉・鳥肉・ラム肉だけでなく、不漁続きの鮮魚類の価格も価格が上がっており、“国民総菜食主義者”になるしかないだろう。

我が国は、これまでも十二分に開かれた自由貿易体制の下で、海外と適切な貿易体制を構築し、輸出入ともに世界第4位(ドルベース)という世界屈指の貿易大国の地位を築いてきた実績があり、これ以上の過度な開放や譲歩は不要である。
いまは、20年以上ものデフレ不況で疲弊した需要サイドの治癒や、高齢化に悩む国内生産農家の保護育成に注力すべき時期だろう。

バカげた自由貿易を錦の御旗に国内産業を破壊し尽くした後で、海外からぼったくりまがいの請求書を押し付けられても、もはや何の抵抗もできなくなることを、国民は肝に銘じるべきだ。

2017年7月20日 (木)

マクロ経済の後押しなき人づくりは無責任

ビジネスの世界では、「ヒト・モノ・カネ・情報」を指して“四大経営資源”と呼ぶ者もいる。
そして、四要素の中で「ヒト」が先頭に位置付けられるのは、,「モノ」や「カネ」、「情報」は、ヒトが動かし、意味づけすることによって初めて資源と化すものだからと言われている。

確かに、ヒトこそが経営の頭脳や心臓部であることに異論はない。

筆者も数多くの企業経営を目の当たりにしてきたが、「モノ・カネ・情報」を上手く活用して売上に転換できる人材のいる企業の業績は不況下でも堅調だし、逆に、「モノ・カネ・情報」に依存し過ぎたり、それらを粗雑に扱ったりする企業の経営はたいがい上手く行かないものだ。

『日本の「人づくり革命」は成功するか』(6/21 BLOGOS 片山修/経済ジャーナリスト)
http://blogos.com/article/230069/
「安倍晋三首相は、昨日の会見で「安倍内閣は経済最優先」と強調し、「人づくり革命」を断行すると発言しました。「アベノミクス」では、「一億総活躍社会」「地方創生」「女性活躍」などのキーワードが生まれていますが、次なるキーワードが、これですかね。(略)
「人づくり革命」とは、具体的には、幼児教育の無償化、高等教育の負担の軽減、一度社会に出た人が学校に通って技術や知識を身につける「リカレント教育」の拡充などです。
「これまでの画一的な発想にとらわれない『人づくり革命』を断行し、日本を誰にでもチャンスがあふれる国へと変えていく」と、安倍さんはコメントしましたよね。
日本は今後、超高齢化社会、少子化・人口減社会がさらに進み、低成長の時代が続くと考えられます。そのなかで、国を支えていくのは、やはり「人」です。人への投資は怠るべきではない。その意味で、安倍さんが「人づくり革命」を掲げたことは間違っていないでしょう。 (略)」

正直言って、片山氏は安倍首相を買い被り過ぎだ。
この手の評論家は、えてして政治家のリップサービスを誇大評価しがちだが、氏がベタ褒めするほど、安倍首相が“人づくり”に熱心なわけがない。

PB黒字化目標と歳出改革に縛られ財政出動ができない(&したくない)苦し紛れのシワ寄せが、「人づくり革命」云々という美辞麗句になって口をついただけのことだ。

「国を支えていくのは、やはり「人」です。人への投資は怠るべきではない。」という片山氏の言には筆者も賛成する。

国家が国民一人一人の集合体である以上、平均的な人材レベルの高さと、それを支える経済力とのバランスが高次元で調和していないと国家の発展はあり得ない。

だが、安倍首相にしろ、片山氏にしろ、人づくり革命とやらの言葉に酔っているだけで、人づくりの根源を支えるフィールドの整備をなおざりにしていないか?

世間には、公共事業を忌み嫌うあまり、防災問題でやたらとソフト対策を重視し、ハードを軽視したがる者が多いが、安倍首相の人づくり革命宣言にも同じような臭いを感じる。

防災であれ、人づくりであれ、あらゆる問題の解決方法を検討する際に、「ソフトか、ハードか」の二者択一から始める論者は、間違いなく低品質なジャンクだ。

ジャンク論者は大抵の場合、「ハコモノなんて時代遅れ。これ以上国の借金を増やしてどうする‼」とハード整備を頭ごなしに否定し、やたらとソフト対策を美化し、カネを掛けないボランティア活動や地域の助け合いみたいな“空論”を好むものだ。

そして、彼らの真意は、ソフト対策の深化というよりも、とにかくハード対策(=財政支出)に反対するためのアンチテーゼとして“ソフト賛美”を声高に叫んでいるようにしか見えない。

筆者が、安倍流の“人づくり革命”にいかがわしさを感じるのは、不況やマクロ経済環境の劣化を放置したまま、野放図な自由競争やグローバル化、社会保障レベルの引下げを前提とした“厳冬下”でも生き抜く力を国民につけさせようとする意図が見え隠れしているからだ。

片山氏は先のコラムの中で、バブル崩壊以降の失われた20年の間に、人材投資への財源を失った日本企業は内向きになり、数万人規模のリストラを断行した大手電機メーカーや、合従連衡を繰り返した金融機関など、安易な人員削減や賃下げばかりで、重要な経営資源のはずの「人」への投資を怠り、それが日本企業の競争力を低下させたという趣旨の指摘をしている。

この点は、まさにそのとおりで、「人材育成や人づくり」というソフトを支えるには、「企業の財務力や収益力」というハード整備が欠かせないのだ。

マクロ経済環境が無茶苦茶な状態で、いくら人づくりを指南しても、人材育成の原資となる売上や収益が十分に上がらなければ、まともな給料も払えず、育つべき人材も育たない。

栄養不足の土壌に対応する品種の開発に多額の資金を投じるよりも、播種するフィールドの土壌を改良し十分な栄養分を与えてやれば、遥かに収量も品質も向上するのと同じことで、一国の経済政策はマクロ経済環境の改善という「ハード整備」抜きには語れない。

政府は、「革命」とか「改革」といった空虚な言葉ではぐらかさずに、先ず、問題の根源を解決する意志を持つべきだ。

「人づくり」への取り組みはぜひ進めるべきだ。
それと並行して、育成した人材が、スキルを存分に発揮でき十分な対価を得られる経済環境の構築を怠ってはならない。

ハード整備の放置は、政府の怠慢でしかないのだから。

2017年7月18日 (火)

カネを貸せば景気が上向くという勘違い

金融の仕事、とりわけ「銀行業務」は、一般の人々にとって馴染みの薄いものだろう。
「銀行員は3時にシャッターを下ろした後で何の仕事をしているの?」、「銀行って、困った人にはお金を貸したがらないよね」、「銀行なんて、担保さえあればいくらでもカネを貸してくれる」なんて考えている人は山ほどいる。

銀行や銀行員にまつわる世間のイメージは様々で、中には、図星のものもあるが、まったくの誤解や周回遅れ気味の偏見でしかないものも多々ある。

『日経新聞“春秋”(7/9)』
http://www.nikkei.com/article/DGXKZO18649750Z00C17A7MM8000/
「明治に入って、武士が給与として米や金銭をもらう仕組みは廃止された。代わりに士族が受け取ったのが今でいう国債だ。旧津軽藩士たちはその運用をしようと、銀行の設立を考えた。元家老の大道寺繁禎らが相談したのが、すでに銀行を開業していた渋沢栄一だった。
▼渋沢は手厳しかった。士族の救済だけの銀行ではダメだ、と説いた。銀行とは民衆からお金を集めて必要とする人に融通し、国を富ませるところと考える渋沢には、旧藩士たちが思い違いをしていると映ったのだろう。(略)
▼(略)ところが今、地銀の多くは国債や外債の運用に依存する。マイナス金利政策のもと、貸し出しで稼ぐのが簡単ではない事情はあるが、銀行本来の役割を十分に果たしているようにみえないのは残念だ。
▼(略)自分の地域ではどんな産業が必要とされ、どんな事業を伸ばせばいいか。地銀の経営者は描けているだろうか。」

ここ最近の銀行に対する誤解の最たるものは、春秋のコラムみたいな「金融機関の地域産業牽引機関説」だろう。

例えば、金融庁の資料に目を通すと、地域の金融機関に対して、
「融資先企業の経営課題の解決に資する融資・コンサルティングの提供が必要」
「地域のグランドデザイン作りと自らの業務・ビジネスモデルである企業・産業支援を連携させて地方創生に貢献すべき」
「金融機関は、見通しの立たない会社に対しては、転廃業やM&Aを促すことも必要」
などと過剰な期待と負担を掛ける記述が目立つ。

要は、行政としての怠慢や不作為をほったらかしにして、地方創生の責任を金融機関におっ被せた挙句、ゾンビ企業に引導を渡す介錯人の役目まで押し付けようとするありさまだから、呆れてモノが言えない。

春秋のコラムでは、「銀行とは民衆からお金を集めて必要とする人に融通し、国を富ませるところ」と語った渋沢栄一の理想の高邁さを持ち上げているが、この不況下で、肝心要の『お金を必要とする企業や人』自体が減っているという事実を意図的に見落としていないか?

直近の日銀データによると、国内銀行の預貸差(平成29年4月)は約276兆円と、3年前と比べて65兆円以上も増えている。
確かに、貸出も+2~3%のペースで伸びてはいるが、預金増加のスピードは、その倍以上にもなり、両者の差は拡がる一方だ。

一部の商人を除くあらゆる経済主体が、常に金欠で資金需要が逼迫し、高金利が当たり前だった江戸時代や明治時代ならいざ知らず、不況による需要不足が猖獗を極める現代では、「企業や民衆は、貯金ばかりしてお金を借りてくれない」というのが厳然たる事実だろう。

ところが、一般大衆のみならず、政府やマスコミ、エコノミスト、学識経験者、官僚などといったエスタブリッシュメント気取りの連中までもが、「景気が上向かないのは銀行が企業にカネを貸さないせいだ」、「金融機関のコンサル能力欠如が地方創生の足枷になっている」などと、小学生レベルの言いがかりを、真顔で付けてくるのだから、開いた口が塞がらない。

借入を嫌う企業に、銀行が無理やり「押し貸し」して景気が回復し、地方創生が叶うのなら、これほど簡単なことはないが、事実は違う。
低調とはいえ、ここ3年ほど国内銀行の融資実績は対前年比で2~3%UPしてきたのだから、「融資増加=景気や地方の活性化」が真実なら、とうの昔に日本経済は成長軌道に乗っているはずだが、現実は真逆で、長い不況のトンネルを抜け出せずにいる。

そもそも、銀行が押し貸ししたとして、融資資金を勝手に口座に振り込まれた企業は、そのお金を一体何に使えばよいのだろうか?

さらに言えば、企業は、銀行に対して素人紛いのコンサルティング機能なんて期待していない。
まともに、モノやサービスの開発や製造、物流、売り買いのどれひとつやったこともない銀行員が、経験豊富な実業家に説教を垂れるほどの経営スキルを持っているはずがないからだ。

思えば、明治初期のように産業の芽が勃興し、旺盛な資金需要があった時代は幸せだった。
今のように、資金需要が冷え切った時代は、銀行が「自分の地域ではどんな産業が必要とされ、どんな事業を伸ばせばいいか」と頭を悩ます以前の問題で、銀行に資金を求め新たな事業の開拓に熱意を滾らす起業家自体が見当たらない。

春秋のコラムは、旧き良き時代の銀行の在り方に固執したまま、融資先の開拓に苦心する現代の金融機関を批判しているが、往年の渋沢翁が銀行たるものの理想を追えた時代とは経済を取り巻く環境が違い過ぎることを端から見落としている。

バブル期以前には、「金融業界は経済社会の血液」だと持て囃された時代もあったが、不況による需要不足を病根とする低体温症に苦しむ産業界は、血液循環のスピードが低下し、もはや大量の血液すら必要としないほど重篤な症状に陥っている。

金融機関なんて外部が想像するほど自立的な存在ではない。
極論を言えば、産業界に寄生し、資金供給や決済機能を仲介するだけの生き物に過ぎないから、宿主たる産業界やマクロ経済が健康でないと、忽ち栄養供給が断ち切られてしまう。

寄生虫が幾ら元気を出しても宿主を健康にすることはできないが、幸いなことに金融機関は有り余るほど潤沢な預金量を抱えているから、政府の適切な財政金融政策が打たれ、産業界が活性化した暁には、あらゆる経済主体からの資金需要に応え得るだけのポテンシャルは十分にある。

「銀行員は高い給料を貰っておいて、企業のコンサルひとつできないのか」と批判するのは勝手だが、いくら銀行を突いて融資増強を急かしても、需要が停滞したマクロ経済は微動だにしない。
ガソリン(融資)をいくら注ぎ込んでも、経済を突き動かすエンジン(需要)が故障したままでは車を動かすことなど不可能だ。

外野の人間は、融資(債務)を単なるお金(所得)と混同して誤用しがちだが、融資の借り手が元金に利子を付加した返済義務を負う以上、融資が漸増する経済環境を創り出すには、借り手の事業マインドや投資マインドを、かなり高レベルに過熱させる必要があることをよく理解すべきだ。

企業がカネを借りてでも十分な利益を見込める投資環境の創出こそが問題の根源であり、マクロ経済が活性化して初めて銀行本来の機能も発揮されるのだ。

経済政策を司る者は、こうした基本を忘れてはならない。

2017年7月12日 (水)

アベノミクス周辺は経済素人だらけ

『森長官"異例の3年目"地銀が落ち込む理由』(PRESIDENT Online 7/6 ジャーナリスト/ 鷲尾 香)
http://blogos.com/article/233003/
「(略)政府は7月4日、金融庁の森信親長官と総務企画、検査、監督の3局長が留任する幹部人事を発表した。ある関東地区地銀の役員は、「事前に雑誌辞令が出ていたので、森長官の留任は予想していたが、実際に留任となると気が重い。これからの1年、経営に行き詰まる地銀が出てくるかもしれない」と肩を落とした。
森長官の留任に、地銀業界が落胆するのには訳がある。日本銀行が16年2月にマイナス金利政策を導入してから、初めての通期決算となった17年3月期決算。金融庁のまとめによると、本業の収益から国債等債券損益などを差し引いた「実質業務純益」は、都市銀行(みずほ銀行、三菱東京UFJ銀行、三井住友銀行、りそな銀行、埼玉りそな銀行)で前期比13.2%の減少となった。第二地方銀行41行も合計値が同16.0%減と都市銀行を上回る減益だったが、もっとも減益となったのは地方銀行だった。地方銀行64行の合計値は同19.8%減と約2割も収益が減少した。(略)」

記事の中で鷲尾氏は、地銀幹部が森金融庁長官の留任に恨み節を述べる理由を次のようにまとめている。

①日銀のマイナス金利政策により、地銀各行にとって収益の柱となる預貸金利ザヤ(貸出金利-預金金利)が大幅に縮小したため、貸出量拡大でカバーせざるを得ないが、不況や過疎化による資金需要低迷でそれも叶わない

②事態打開のため、積極的な有価証券運用を試みるも、森長官は、「地銀以下の業態による有価証券運用には、運用体制面や運用ノウハウなどで問題のあるところも多い」として、有価証券運用の検査を厳格化してしまった

③地銀サイドは、収益対策として無担保・無保証・高金利の「カードローン」を積極的に推進しており、これは、「融資は原則として無担保・無保証であるべき」という森長官のリクエストにも一部合致するはずだが、当の金融庁は、“カードローン=サラ金地獄”を連想する消費者団体からの自粛の声に同調する始末だ

④金融庁が勧める無担保・無保証融資の推進や、新規事業に対する積極的な融資は、大きな貸出リスクを内包しているが、有価証券運用やカードローンといった収益源を断っておきながらリスクばかり押し付けられては堪らない

地銀幹部の落胆ぶりに同情を禁じ得ないが、たとえ森長官の首を挿げ替えたところで金融庁や日銀の方針が変わるものではなかろう。
金融庁のトップなんて、内閣府か財務省の息が掛かった連中ばかりだから、政権のご機嫌伺には熱心だが、監督対象である金融機関の立場に配慮する者なんて滅多にいない。

金融庁なんて、不良債権問題や預金者保護が話題になると、金融機関の融資姿勢を厳しく締め付け、逆に、貸し渋りや地方創生が話題になれば、たとえそれが不良先であっても「融資できない理由を公にせよ」と尻を叩くような支離滅裂ぶりで、まさに、“朝令暮改”や“アクセルとブレークの同時踏み”を命じて平気な顔をする厚顔無恥の輩である。

最近でこそ、金融機関を締め上げた“強権の象徴”として悪名高い「金融検査マニュアル」の凍結・刷新を決め、金融機関との対話を重視する方針を打ち出した。
しかし、次の日経記事の記載どおり、「監督官庁」としての傲慢や増長ぶりが抜け切れぬようなら、検査マニュアルの刷新も無意味なものになるだろう。

【記述1】
「(金融検査マニュアル見直しの)狙いは銀行の経営モデルの変革だ。実体経済に眠ったままのマネーを動かそうとしているからだ。国内行の貸出金残高は約480兆円。最近は上向きつつあるが、00年代初頭とほぼ同水準にとどまる。一方で預金残高は700兆円を超え、5割増えた。この眠る預金を成長投資に振り向かせたい。健全性の確認だけではなく、将来へのビジネスモデルを描けているかを確認する。銀行に守りの経営から攻めの投資を促し、フィンテックや地方創生などを通じて「顧客本位」の金融サービスの普及を狙う。」

【記述2】
「不正融資が発覚した商工組合中央金庫には5月24日、金融庁主導で立ち入り検査に入った。麻生太郎金融相は「なかなか育成庁にさせてもらえない状況なのが問題だ」と指摘。金融庁が強権を封印するのは金融機関が健全性を保ち、社会的信頼を維持するのが前提だ」
(いずれも6月8日付日経新聞記事より)

記述1は、融資が伸びない原因を、金融機関の事業性評価スキル不足や攻めの姿勢の欠如に責任転嫁しようとするものだ。
また、記述2は、商工中金の天下り官僚や出身母体の経産官僚による無謀な融資ノルマのゴリ押しを、金融機関の融資市営の甘さの問題にすり替えるもので、何れも金融庁や財務省、官邸サイドの責任を金融機関側におっ被せてトカゲの尻尾切りで誤魔化そうとする非常に性質の悪い記事だ。

麻生金融相(財務相)は、さも、金融機関側の融資姿勢が改まらないから、何時まで経っても金融庁は検査監督庁のままで育成庁になれないと嘆く素振りするが、バカも程々にしろと言いたい。

中小企業の経営者と議論したことが無く、企業の財務諸表ひとつまともに分析できず、経営のイロハすら解らぬシロウト官僚どもが“育成”できるほど金融事業は甘いものではない。

麻生金融相をはじめ金融庁や財務省の連中には、融資の基本を教えてやるから、2~3年ほど金融機関の支店に張り付き、どぶ板営業の見習いでもやってみろと言っておく。

冒頭の鷲尾氏の記事に、「一地銀が頑張ったからと言って、地方が創生するような生易しいものではない。少子高齢化、地方の過疎化を放置したこれまでの政府の無策を、地銀に押し付けるのはおかしい」という地銀役員の憤懣やるかたない意見が紹介されていたが、筆者もこれに同意する。

地方創生然り、融資活性化然り。
地方交付税の大幅な増額、財政支出による地方産業の育成や公共投資の推進といった思い切った手を打ち、問題の根源や基点に手を突っ込まぬ限り絶対に解決しない。

新自由主義や緊縮主義に染まった歴代の政権は、「日本の財政危機は深刻」という大嘘を金科玉条の御本尊に祭り上げ、積極的な財政金融政策という武器を封印したまま経済問題の解決に当たってきたが、案の定、何の成果も出ていないどころか、病根を放置したせいで、病状(=後進国化&不況の常態化)は悪化の一途を辿っている。

政府や金融庁が自身の経済無策の責任を金融機関に転嫁して、“もっと融資に積極的になれ”、“事業評価スキルを磨いて成長企業を発掘しろ”、“フィンテックで金融革命だ”と叫ぶ様を見るにつけ、あまりの見識の低さと浅知恵に唖然とさせられる。

彼らは、融資を伸ばせばデフレ脱却も地方創生も成功すると勘違いしているようだが、原因と結果がまったく逆なのだ。
政府による適切な経済政策と民間経済主体の努力によって実体経済が活性化(=好況)し、それが企業や家計の資金需要を刺激するのであって、その逆はあり得ないことくらい解らないのか?

靴の上から足を掻き、痒みが止まらぬと靴に文句をつけるような大バカ者に、国民生活の未来を左右する経済政策の舵取りを任せてはいられない。

2017年7月10日 (月)

相互扶助の意味

福岡・大分両県に跨る甚大な被害をもたらした今回の豪雨により、お亡くなりになられた方々や被災されたすべての方々に、心からお悔やみとお見舞いを申し上げますとともに、災害対応や対策、救助・捜索活動にご尽力なさっておられるすべての関係者の方々に、心から御礼を申し上げ、敬意を表したいと思います。

『不明者ら捜索続く=死者18人、孤立なお500人・九州豪雨』(7/9 時事通信)
https://news.infoseek.co.jp/article/170709jijiX959/
「九州北部を襲った記録的な豪雨で、福岡、大分両県では9日も行方不明者らの捜索活動が続いた。両県ではこれまでに計18人の死亡が確認され、他に有明海に面した佐賀県などで男女5人の遺体が発見されている。5人は被災地から豪雨で流された可能性があるとみられ、警察が身元確認を進めている。
 福岡県では20人以上と連絡が取れず、大分県では依然、約500人が孤立している。豪雨による被害が相次いだ5日午後から、生存率が下がる目安とされる72時間が既に経過。警察や自衛隊などは不明者らの安否確認を急いでいる。(略)」

ここ数年だけでも、我が国では豪雨による大災害が頻発している。
主なものだけでも、
2016年8月の台風3連続上陸による北海道・東北豪雨(死者行方不明者13名)
2016年6月の熊本豪雨(死者行方不明者7名)
2015年9月の関東・東北豪雨(死者8名)
2014年8月の広島土砂災害(死者74名)
と、毎年のように痛ましい犠牲者が出ている。

自然災害の中でも、特に水害の威力は凄まじいもので、過去にも豪雨や大津波により多くの人命が奪われてきた。
しかし、峻険な山岳が背後に迫り、網の目のような河川を眼前に暮らさざるを得ない国土的条件もあって、日本人は水害のリスクと切り離せない生活を余儀なくされてきた。

筆者も、ここ数年の間に多くの犠牲者を出した各地の河川のうち、いくつかの河川を実際に見たことがあるが、周辺地域の田畑に水の恵みを与え、小鳥や虫の飛び交うのどかな風景をもたらしてきた普段の穏やかな表情が、台風の襲来や梅雨前線の停滞により一変し、猛り狂う鬼のような凄惨さを見せつける様には、表現しようのない絶望感と憤りを覚える。

先週、九州北部を襲った豪雨は、福岡・大分両県に多数の死者と行方不明者をもたらしたが、中には警戒に当たっていた消防団員の方や、出産を控えて里帰りしていた若い妊婦の方が実母と幼子とともに被害に遭われて亡くなられる大変痛ましい被害もあり、胸が塞がる想いがする。

また、現地のニュース映像を見ていると、昨年の北海道での台風被害と同様に、数え切れぬほど大量の流木が生活領域に雪崩れ込んでいるのが目につく。
いったい、これだけ膨大な量の流木が、何処から来たのかと訝しむのも束の間、いずれの流木も、根こそぎ引っこ抜かれて放り投げられたようなありさまで、さらに、ほとんどの木が丸裸の状態で生皮がすべて剥がれていたことに戦慄すら覚える。

先月、北海道に出張した際に、十勝清水町から帯広市内を通りかかったが、河川のあちらこちらに昨夏の台風で押し流された大量の流木が未だ無造作に転がっており、河川敷に遭ったゴルフコースが見る影もなく消え去っていた。
地元の方に聞いてみると、予算や人出不足もあって大量の流木の撤去や処理作業がまったく追い付かず、バイオマス発電の原料に換算しても軽く5年以上は持つと自嘲美味に話していた。

今回被害に遭われた福岡・大分の方々は、連日30℃を超える猛暑の中で過酷な避難生活を強いられ、土砂に押し流された家屋を見て絶望を余儀なくされ、失った財産の大きさに茫然とさせられることになる。

たった一度の大雨のせいで生命や財産を失い、何の準備もできぬまま生活や人生をリセットされる被災者の理不尽さを思うにつけ、失った命は取り返しようがないが、せめて、喪失した財産を国家の補償で取り戻してあげてほしいと切に願う。

以前のエントリーでも書いたが、いきなり眼前に現れた大災害を前にして、冷静に行動できる者などほとんどおらず、いま起こっていることは現実なのかと慌てふためき、優先すべき行動を上手く理解できないケースが多いのではないか。

マスコミや第三者は“命を守る行動を”と呼びかけるが、理不尽な状況に晒されている当人は、命の次に大切な家財喪失のリスクを前にして、誰もが身を守る行動を選択できるわけではない。
命だけ助かっても、財産を失ってこの先どうやって生活すればよいのかと逡巡するのが普通の人間だろう。

国民の間に、自然災害で失った財産や雇用は、国家が通貨や特例国債を発行してでも必ず補償するという共通理解さえあれば、誰もが自分や家族、隣人の命を守る行動を即座に選択できる。

国家や社会というものは相互扶助の関係を維持することで成り立つものだから、日本という国土に暮らす以上、誰しもが自分の身に降りかかる恐れがある自然災害によって喪失した財産を、国家の責任で補い合うことに何の矛盾や不都合があるというのか。

安倍首相は、この緊急時に呑気にG20の会合に託けて外遊し、「保護主義と闘う」などと気勢を上げて見えない敵との不毛なシャドーボクシングにやる気を見せたり、次の内閣改造で甘利氏のような問題人物の党役員起用を画策したりする暇があるなら、毎年のように我が国に甚大な被害をもたらす自然災害に対する生活復興制度の確立に尽力すべきだろう。

まあ、所詮、安倍ちゃんには無理だろうけど…

2017年7月 6日 (木)

支持率低下を売国で誤魔化す安倍政権

「日欧EPA大枠合意、首脳協議できょう宣言」(7/6 日経新聞)
http://www.nikkei.com/article/DGXLZO18529550W7A700C1MM8000/?n_cid=NMAIL001
「日本政府と欧州連合(EU)は経済連携協定(EPA)交渉の大枠合意を6日の首脳協議で宣言すると決めた。岸田文雄外相は5日午後(日本時間同日夜)、訪問先のブリュッセルでマルムストローム欧州委員(通商担当)との協議後、「閣僚間で大枠合意の達成を確認できた」と表明した。日欧間で関税がなくなる品目は全体の95%超に達する見込み。世界の経済・貿易の3割を占める大経済圏が誕生する。(略)
 岸田氏は協議後、記者団に「大枠合意によって保護主義的な動きのなかで世界に前向きで大きなメッセージを送ることができる」と意義を強調した(略)」

政府・自民党の連中は、先の都知事選大敗で大恥をかかされた腹いせのつもりか、あるいは、政権支持率暴落に対する失地挽回のつもりなのか、TPP騒ぎの時と同様に、国内議論をすっ飛ばしたまま勝手に日欧EPA合意の既成事実を創り上げている。

壊国と売国記事しか書かぬ日経も、“世界の経済・貿易の3割を占める大経済圏の誕生”、“保護主義的流れに対抗”、“欧州に自動車や日本酒を売りやすくなる”との印象操作により、政府の太鼓持ち記事をぶち上げた格好だ。

トランプ大統領が、せっかくぶち壊してくれたTPPの亡霊を復活させようと躍起になる新自由主義者の粘着ぶりと、自己の利益や意志のためなら国内産業や農業すら平気で足蹴にしようとする酷薄さに、表現しようのないほど強い憤りを覚える。

今回のEPA交渉でEU側から関税撤廃や引下げを要求された主な品目は、チーズ、バター、豚肉、ワイン、菓子、パスタなどで、逆に日本側から要求している品目は、自動車、電化製品、ホタテ、日本酒、緑茶などが挙げられている。

各品目をざっと見た印象では、EU側の要求品目の多くは、日本国内でも調達が可能、且つチーズや豚肉、ワインなど重点的に産業育成を図っている品目が目立つ。

一方、日本側の要求品目は、自動車を除くと、EUサイドで調達困難な品目、端的に言うと、日本が価格交渉力を有する品目が多い。
特に、日本酒や緑茶なんてEUでは造れないのだから、関税を課す方がどうかしてるし、欧州に根強い和食志向を後ろ盾とした強気の交渉ができるはずだ。

無論、自動車や電化製品分野では、韓国や中国、アメリカなどのメーカーとの競合があるものの、日本国内メーカーが競合国への人材・技術流出防止や知財保護の努力さえ怠らなければ、十分に競争力の優位性を維持できるはずだ。

要は、日欧EPA合意という外交成果(国民にとっての成果とは言えない)を得たいがために、政府は、国民や国内産業との合意調整を行う努力すらせずに、妥協すべきでない、あるいは、妥協する必要のない分野で安易に妥協を重ねたとしか思えない。

政府は、“農林水産業の高付加価値化”や“攻めの農業”といったスローガンの下で、六次産業化を推進してきたことは周知の事実で、その結果、国内には247社ものワイナリー(H27)が誕生し、チーズ工房の数も200者を超えたと言われている。

また、国内の養豚農家数はH16/8.9千戸→H26/5.3千戸と漸減一途で、一戸当たりの飼養頭数をH16/1,095頭→H26/1,810頭に拡大させて、何とか全体の頭数を維持しているような状況にある。(国内飼養頭数:H16/9,724頭→H26/9,537頭)

国内のワイナリーやチーズ工房、養豚業者は、何れも経営規模は小さく、財務力も脆弱で、産業育成の緒についたばかりの状態と言える。

個々のワイナリーやチーズ工房は中小零細業者がほとんどで、売上規模はせいぜい数百万円から1億円未満と小さすぎるゆえにコスト吸収力がない。
また、養豚業者は、口蹄疫や豚流行性下痢といった外的脅威に加えて、輸入飼料(コストの7割近くを占める)の高止まりもあり、養豚経営安定対策事業などの支援策頼みの経営を余儀なくされている。

このため、いきおい販売価格も高く設定せざるを得ず、デフレ不況下で消費サイドの財布の紐が固い状況では、非常に厳しい経営を迫られるのだが、このタイミングで外国産ワインやチーズ、豚肉の関税を引き下げられては、ただでさえ価格競争力に乏しい国内産品は、強烈なアゲインストに晒されることになるだろう。

これでは攻めの農業どころではない。
零細なワイナリーやチーズ工房の経営者は、ファイティングポーズをとる以前に、リングに上がるチャンスの芽すら摘み取られてしまい、高付加価値化への道も断たれてしまう。

政府や自民党の連中は、六次産業化を推進してきた自らの政策を否定する醜悪な貿易協定に手を染めてはならない。

EUの連中は、各地で凄惨なテロを惹き起こす不法移民の輸入には熱心なくせに、不届きにも、我が国の農水産物には日本政府による放射能物質検査を義務付けるという輸入規制(一部緩和されてはいるが…)を頑なに崩そうとしない。
テロという顕在化したリスクには無頓着で、妄想と言いがかりに過ぎない放射能汚染に過剰反応するEUの傍若無人を放置したまま、我が国にとって大したメリットもないEPAに批准するなど、屈辱外交以外の何物でもない。

しかも、EPAには、投資家対国家紛争解決(ISD→途中でSICS(投資裁判制度)に名称変更)や金融・保険市場の開放、ビザ発給要件緩和、公共事業を巡る政府調達の参入障壁排除、インターネットを使った商取引、中小企業支援等々、TPP問題でお馴染みの司法制度を蔑ろにするバカげた条項が潜り込んでいる。

また、EU側が、日本郵政グループの簡保や農協などの共済組合の保険サービスが差別的だとイチャモンをつけているそうで、TPP同様に金融・保険・公的サービスに主戦場が移る恐れも強い。

政府が財界やエコノミスト、官僚、マスコミ、識者といった一部のインナーサークルの利益と意思だけを尊重し、国民や産業界との調整や合意取得を故意に怠る政治姿勢は、もはや議会制民主主義の体をなしていない。

政府にコケにされた国民は、都議選や加計学園だけじゃなく、こうした重要問題における政府のいい加減な対応をよく観察したうえで、政権に対する支持・不支持を判断すべきだ。

「他に受け皿がないから」なんて小学生みたいな理由で支持する者も多いが、そもそも、受け皿の有無など聞いていない。
そんなものに関係なく、いまの安倍政権を指示できるかどうかだけで判断できないような輩は、選挙権を返上させるべきだ。

2017年7月 5日 (水)

成長を諦める国民に明日はない

『かつて民主主義は資本主義と蜜月関係だった~なぜ民主的でないルールが広がったのか』
(7/2 東洋経済ONLINE 的場昭弘/神奈川大学国際センター所長、教授)
http://toyokeizai.net/articles/-/178396
「最近、資本主義経済の未来に対して、悲観的観測が多い。リーマンショック以後10年が経とうとしているのに、資本主義社会にこれといったしっかりとした復活の兆しがあるわけではない。先進国の成長率は1%前後である。(略)
日本においても、世界においても、かつてのような民主主義的な議論が乏しくなりつつある。民主的過程を経て、何かが決まるのではなく、先に何かが先行し決まっている、という感じだ。それに対する批判も、ほとんど問題にさえされないときているので、ストレスは溜まる一方である。(略)」

上記コラムの中で的場教授は、次のように指摘している。

①“1970年代に先進国を襲ったスタグフレーション”と、“大量消費社会の終焉と賃金の上昇”が、資本主義の利潤率を低下させて急激な経済停滞”を生み出し、それが新自由主義を蔓延させるきっかけになった。

②新自由主義的思想は、利潤率低下や経済停滞の病根たる賃金上昇やストライキの頻発といった“民主的権利意識”を廃除する救世主として忽ち世界中に拡散され、その壮大な社会的実験場こそが「EU」である。

そのうえで、的場氏は、EUという、国民の民主的意思や国家を超えた特異な組織では、政治家が国民の利益を一顧だにせず、すべての物事は、国民の負託を受けてすらいない一部の経済界と官僚主導により都合よく進められてしまう“非民主的形態”が常態化していると指摘し、
「政府は国民を忖度するのではなく、他国の首脳や経済界を尊重して、どんどん新しい法律をつくりあげていく。まさにそのさまは、グローバル化という魔力が国民主権を危機にさらし、市民権を奪い去ろうとしている姿でもある。
なるほど地球は今、一つの世界国家に近づきつつあるという表現ができるかもしれないが、その実態は資本とその代弁者であるエリートによる世界国家にすぎない」
と喝破している。

筆者は、政治が国民の意思から離れること自体は、何も最近始まったことではないと思うが、政治家が国民の利益を考慮せず、経済財政諮問会議や産業競争力会議などといった類のいかがわしい審議会や懇談会に政策提案を丸投げして、財界やエコノミスト、マスコミ、識者、官僚という極一部の「インナーサークル」の意思や利益に沿った政策ばかりを行う様に、激しい憤りを覚えるし、反吐を吐き掛けたい気分だ。

何より問題なのは、政治にコケにされた当の国民が、自らを足蹴にする政治家の姿勢を、「旧弊を打破する構造改革」だの、「民間的発想の導入」、「官主導から政治主導へ」、「決められない政治からの脱却」などと評価し、放任していることだ。

“下がり続ける平均収入”、“上がり続ける社保料と消費税率”、“雇用の不安定化と非正規雇用の増加”、“蜃気楼のように後退を続ける年金支給開始年齢”、“移民受容れによる社会不安増大”、“TPPやEPAといった不平等貿易の促進”、“中身が空っぽの地方創生”等々、新自由主義思想に染まった為政者の迷走ぶりは目に余り、国民生活に直結する経済指標は低迷を続けたままだ。

しかし、国民はそれを批判するどころか、「財政政策は子孫にツケ回しするだけの愚策だ」、「生産資源を適正に配分するには聖域なき構造改革しかない」、「グローバル化は世界の潮流だ」という新自由主義者の甘言にコロリと騙され、自らの身を危うくする苛政を熱烈に支持するのだから、もはや救いようがない。

新自由主義者の騙しのテクニックは、
①国民から、「希望」や「成長」の芽を断つ(=積極的な財政金融政策をタブー視)
②自信を喪失した国民をシバキ上げ、情緒的不安定状態に陥れる(=相互不信感の蔓延)
③待遇や社会的地位の僅かな差異を針小棒大に喧伝し、吊るし上げる(=「公務員・農協・土建業者・正社員・男性」を魔女狩りのターゲット化)
④生活が良くならないのは利権に巣食う奴らの所為だと魔女狩りを始める(=「公務員・農協・土建業者・正社員・男性」叩きを煽情)
⑤魔女狩りによる景気悪化を、“改革が足りないせいだ”、“利権に群がるゴキブリの所為だ”と他人の責任にすり替える
⑥現状を変えるには“改革しかない、規制緩和しかない、歳出削減や社会保障削減しかない”と強弁し続ける
という、まことに幼稚かつ単純な手口だが、こんなものに騙される国民がウヨウヨいるから開いた口が塞がらない。

国民を騙すテクニックで最も肝要なのは、「景気や経済の話と、“お金”との関連性を断つこと」なのだ。

経済活動や、その結果としての景気動向は、モノやサービスの生産と消費、投資の連環の上に成り立つものだから、景気を良くして欲しいという国民の切なる願いを叶えるには、実体経済への貨幣投入量を増やさざるを得なくなり、新自由主義者どもが忌み嫌う財政金融政策を避けて通れない。

そうはさせじと考えた新自由主義者は、景気や経済とお金との関係性を切り離して、「財政支出は子孫に借金をツケ廻しするだけの麻薬だ」、「構造改革による生産性向上でグローバル競争に打ち勝つ以外に手はない」、「経済にフリーランチはない、ポピュリストに騙されるな」と国民に向かって訳知り顔で説法し、景気や経済はお金ではなく“個々人のやる気や倫理の問題”だと大嘘をついて騙し続けてきたのだ。

一方の国民の側も、毎日のようにお金を使い経済活動の循環に手を貸しているにも関わらず、お金と経済との関係に無理解や無関心を貫き通し、新自由主義者どもの怪しい新興宗教に進んで騙され続けてきたと言っても過言ではない。

新自由主義者から緊縮受忍の精神を強要され、それを妄信し切った国民は、すっかり成長や自らの幸福を諦めてしまったように見える。
昨今の選挙が、国政や地方政治を問わず、改革自慢しかしない新自由主義者どもの縄張り争いと化したさまを見れば、それがよく解る。

いまや、選挙に勝とうとするなら、いかに国民に対して厳しい事が言え、その夢や希望を断てるかが問われる。

本来なら、デフレ不況に苦しめられる国民に成長や分配を語り、未来への希望と活力を与えるのが政治家たるものの役割だろう。
だが、現実はまったく逆で、国民の利益を忖度する政治家はジャンクや詐欺師だと蔑まれ、国民をシバキ上げようとする自称改革者こそが本物の政治家だと崇められるような倒錯した時代なのだ。

国民ファーストや都民ファーストといった精神や掛け声を、政治家任せにしているうちは、何も変わらない
国民自身が、国民ファーストの考えを尊重し、その実践を強く政治家に求めぬ限り、暗澹たる不況が終わることはない。

2017年7月 3日 (月)

都議選は改革ゴミの掃き溜め

東京都議会選は、自民党幹部が犯した失策や失言の数々がマスコミの標的にされ、大方の予想どおり自民党の歴史的な大敗で幕を閉じた。

正直に言って、今回の都議選ほど興味をそそられない選挙もなかった。
なにせ、選挙の争点が、“改革(改悪)&緊縮による日本縮小”を標榜する自民と小池チルドレンどもの二大勢力同士のショバ争いでしかなく、どちらが勝っても周回遅れの改革キチガイを喜ばすだけの、謂わば「粗大ゴミと生ゴミの喧嘩」の域を出ないからだ。(※他の政党は「家畜糞尿」)

選挙を終え、自身の求心力保持のため豊洲移転問題を故意に拗らせた小池のババアが勝利の祝杯を挙げる姿は見るに堪えないが、今回の自民惨敗が安倍首相や自民党の力を国政レベルで削ぐことになるのなら、鼻を摘まんで前向きに評価せざるを得ないのかもしれない。

さて、あまりの大敗ぶりに涙目の自民党支持者を他所に、フランス国政選挙と同様、小池の厚化粧ババア率いる都民ファーストの会なる有象無象の輩が都政第一党の座を占めることになったが、都民ファ単独の議席は55議席と、過半数(64議席)には遠く及ばず、公明党(23議席)ほかの協力なしには強引な議会運営もままならないという非常に不安定な状況にある。

しかも、公明党とは何かと角突き合わせる共産党も19議席を確保しており、今後の小池パフォーマンス知事は、議会運営を有利に進めようと、公明との連携を軸に、時には共産、或いは自民との微妙な駆け引きを余儀なくされる。

都民ファの連中は、小池人気にあやかるだけのシロウト集団に過ぎないから、こうした政治的駆け引きに長けた人材など皆無で、各党派との利権争いや下らぬ諍いを起こし、権力を笠に着て増長したチルドレンどもの不祥事も相俟って、ここ1年半ほどの間に空中分解を余儀なくされるだろうと予想する。

なにせ、都民ファ勝利の報とともに、数年後の小池国政転出がまことしやかに語られるほどだから、小池のババアにしてみれば、都議選なんて自身のキャリアアップのための踏み台でしかないのだろう。

そんな党首の軽い態度は、即座に腰巾着どもにも伝わるもので、今は調子づくチルドレンの連中も、共に国政進出のチャンスを窺い行政叩きや御注進に精を出すバカ者や、梯子を外され右往左往し周囲に当たり散らして不祥事を起こす者など、内部分裂や足の引っ張り合いが噴出し、早々に馬脚を露わすことになるだろう。

とは言え、世間的には小池都政をヨイショする意見が大勢を占め、詐欺師紛いの勝ち馬に乗ろうとする下賤な輩が跋扈している。

『古賀茂明「小池首相誕生の秘策は小泉進次郎氏とのバトンタッチ」』(7/3 AERA dot.)
https://dot.asahi.com/dot/2017070200026.html?
「東京都議会議員選挙は、予想通り、小池百合子東京都知事率いる「都民ファーストの会」の圧勝で終わった。
 小池知事には東京五輪・パラリンピックや築地・豊洲問題だけでなく、公約通り、東京都政の「大改革」に邁進してもらいたいが、都議選が終わって、気になるのは、小池知事の次の一手だ。
 本人は否定しているが、この選挙で大勝すれば、国政に進出し、さらには総理の座を狙うのではないかという見方がある。(略)
 年齢のことを考えれば、国政復帰は早い方が良い。しかし、「無責任批判」を封じるのは難しい。このパラドックスを解くのは至難の業だ。
 そこで、やや荒唐無稽だと思われるかもしれないが、それを可能にする方法を提案したい。
 それは、オリパラ直前の小泉進次郎氏へのバトンタッチだ。(略)
 オリパラ直前の都知事選で、サプライズ候補として小泉進次郎氏が立候補すれば、そんな批判は吹き飛び、都民も国民も若き都知事誕生へと熱狂的な支持を示すだろう。(略)」

“元改革派官僚(自称)”を気取る古賀氏らしい、世間やマスコミに阿った小池・小泉Jrの太鼓持ちコラムには鳥肌ものの気持ち悪さしか感じない。

古賀氏は、自民党守旧派や官僚組織と闘い、規制改革や公務員改革を勝ち取ってきたという自慢話が十八番の“改革利権に集るクズ”のひとりで、日本の経済基盤や社会基盤を破壊することで地位や名声を得ようと奔走し、デフレ不況の永続化に加担したという意味では、元財務官僚の高橋洋一らと同じ穴の狢と言ってよい。

そもそも、古賀氏風情が「首相は小池、都知事は小泉Jr」などとキングメーカーを気取ること自体、片腹痛いのだが、国民の意思を無視して、未来の首相候補や都知事候補をお気に入りの政治家グループに限定させようとする発想そのものが、改革派を称する日頃の言動と矛盾していないか?

改革ごっこに興じる仲良しグループの間で、首相や首長のイスを廻しっこしてデフレ不況を深刻化させ、日本を後進国化させるのが、元改革派官僚の信条だとでも言うのだろうか?

政治家の座を特定の地位にある者が専横することを認めるかのような古賀氏の言動は、彼が批判してきた自民党守旧派の発想と何ら変わりなく、“改革派言論人”を気取ってきた自らの過去を否定することにしかならない。

古賀氏みたいに思慮の浅い輩は、自らの言論をマスコミや世間受けの良い『改革派』という装飾で着飾ってはいるが、所詮、美味しい利権や地位を得るために“改革派”という看板を利用するだけの性質の悪い集り屋に過ぎない。

いまの政界は国政や地方政治を問わず、何処を見渡しても、“自称改革派気取りの有象無象”の利権争いばかりだ。

“「緊縮財政(PB黒字化&歳出改革)」、「構造改革」、「規制緩和」、「移民促進」を口にせぬ者は政治家ではない”といった昨今の時代錯誤的風潮もあってか、政界は改革自慢をするバカ者で溢れ返っており、彼らが改革を叫ぶたびに、我が国から経済成長と分配の芽が摘み取られていく。

今回の都議選は、改革利権に巣食うゴミ政党同士の茶番劇を存分に見せつけられたが、下らぬパフォーマンス合戦の醜悪な結末が、改革派を称するエセ政治家どもの終焉のきっかけにでもなればよいと願っている。

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