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2017年12月 4日 (月)

経済談義につきまとう極論と妄想

≪計画経済とは?≫
「一国の経済活動全般が、中央政府の意思のもとに計画的に管理・運営される経済体制。生産手段を公有化した社会主義国家経済の特徴の一つ」(デジタル大辞泉より)

筆者は、自ブログや進撃の庶民のコラムにて、たびたび、機能的財政論に基づく積極的な財政金融政策による不況打破を訴えている。

大規模な財金政策を打つとなると、当然、財源論に話が及ぶわけだが、財源云々より重視すべきは、“いかにして需要不足を早急に埋められるか”であり、調達手法の清濁に拘る気はまったくない。

国債発行という常道以外にも、超長期国債や永久国債、日銀の国債直受け、政府紙幣増刷まで、国民負担とならぬ方法なら何でもよい。

だが、世の中的には緊縮不可避論や成長絶望論を支持する意見が大半を占めている以上、筆者みたいな発想は「頭のおかしなイロモノ」扱いしかされない。

ほとんどの国民が経済や通貨の仕組みをほぼ理解しない状況下では、機能的財政論に基づく積極的財金政策なんて、あたかも絶海の孤島に棲息する“希少種”みたいなものだから、その本質や目的に対する無理解や曲解、誤解も多く見受けられる。

そうした曲解の代表格が、「機能的財政論者は計画経済そのもので、一国の経済を完全にコントロールできると思い込んでいる」というバカなレッテル貼りだ。
いまどき、ロシア人や中国人だって“計画経済”なんて言葉を忘れているし、産業構造が非常に複雑化したミクロ経済を精緻にコントロールできるスーパーマンなんてこの世に存在しない。

筆者が、機能的財政論とか積極的な財政金融政策を強く訴える目的は、実体経済(マクロ経済環境)に需要シーズ(seeds)を充満させ、国富たる供給サイドを維持向上させるための養分を無限に補給し続けるために他ならない。

常に拡大する需要を供給が追いかけ続ける体勢を維持してさえやれば、供給サイドはできるだけ効率よく需要を取り込もうとし、人材投資や生産性向上、技術・サービスの高度化に否が応でも取り組まざるを得なくなる。
その過程で雇用条件の改善や所得の向上がなされ、潤沢な所得を得た家計は、より付加価値の高い商品やサービスを求め、それが企業収益の向上につながり、経済活動が善循環し始めるのだ。

積極的な財金政策の役割は、あくまでマクロ経済の適正温度を保ち、経済循環の歯車を回し続けるための呼び水やきっかけづくりであり、“●●産業の年次成長目標▲%を達成させ、■万人の新規雇用を生む”などといった具合に、個々の産業活動に口出しするものではない。

云わば、野球やサッカーを楽しむための器(=スタジアム)づくりのようなものだ。

国内に世界レベルの野球選手やサッカープレーヤーがいたとしても、スタジアムや観客がスタジアムに足を運ぶための社会インフラがなければ、せっかくのテクニックを披露することも叶わない。

選手たちが自主的に河川敷や野原でプレーしてもよいが、それじゃあ観客が集まらないし、物好きな観客がやってきても、スタジアムという囲いがない以上、誰でも観覧できるから、彼らのプレーに対価を支払うシステムが生まれず、選手たちはたちまち干上がってしまう。

野球やサッカーを楽しむ観客(需要サイド)を大量に呼び込み、選手たち(供給サイド)が存分に力を発揮できるフィールドを用意してやれば、観客からのより大きな喝采を求める選手たちは技を磨こうと切磋琢磨するから、潜在能力やポテンシャルも上がり、彼らの華麗なプレーが観客をさらに魅了することになるだろう。

積極的な財金政策によるマクロ経済運営の基本は、個々の選手や試合の流れにアレコレ指示を下すのではなく、プレーヤーたちが十分な所得を稼げるフィールドを用意し、そこで彼らが競い合って技を磨き、それに魅了された観客らが気前よく対価を支払えるような環境を創り上げることに尽きる。

「財政政策論=計画経済」なんて幼稚な極論を吐くバカ者は、スタジアムの運営者が、「今日の試合は6-2のスコアでAチームが勝つシナリオだから」とか、「今回は、後半20分にBチームのC選手がヘディングで得点することに決めたから」とこと細かに指示するかのように妄想しているようだが、レベルが低すぎてコメントする気も失せる。

企業や家計などミクロ単位の経済主体をコントロールするなんて不可能だし、そうする必要もない。

うんざりするほど続くデフレ不況下で企業や家計がなし得る努力といえば、「雇用条件の切り下げ」や「消費や投資の切り詰め」ばかりで、その結果、国民は成長する意欲を失い、公的投資が軽んじられ、国富も大きく棄損してしまった。

退化と衰退の一途を辿る我が国を再び力強く前進させるためには、手段の清濁に拘っている閑はなく、個々の経済主体の努力が報われ十分な対価(売上・所得)を得ることができ、それが次なる投資や技術開発に原資となるよう実体経済を刺激し続けるべきだ。

成長と前進の向こう側にしか答えは存在しない。

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