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2019年1月

2019年1月31日 (木)

メソポタミアのツケ払い帳では貨幣負債論を説明できない

筆者は、これまで何度か貨幣負債論(貨幣の本質は「信用=負債」である)の誤りを指摘し、貨幣負債論者の主張にも目を通してきたが、どうもピンとこない。

 

貨幣の本質が信用(“貨幣発行者である国家に対する信用というのが筆者の見方)であるというのはよいが、そこから「貨幣=信用=負債」と結論づけるのは無理がありすぎる。

 

一般的に、金融機関が企業へ融資する行為を「与信(融資という信用枠を与える)」と呼ぶから、負債が信用の一形態なのは確かだが、その逆は必ずしもではない。

信用という言葉の意味には、契約や決済といった債権債務関係だけではなく、例えば、研究成果やモノの真贋等に対する信頼や評価といった意味合いも含まれるから、「信用=貨幣」と言い切るのは明らかに言い過ぎだ。

 

何よりも、貨幣負債論を証明するための説明材料が、何時までたっても「日銀の貸借対照表・古代メソポタミア文明の大福帳・ヤップ島の掛け取引」の三点セットから抜け出せないことにガッカリさせられる。

 

三点セットを使った貨幣負債論者の主張を順に紹介し、その矛盾点や誤りを指摘していく。

 

【主張

『日本銀行の貸借対照表を見ると、その負債の部の先頭に「発行銀行券(=日銀券=紙幣=貨幣)」が計上され、日本銀行(あるいは、統合政府)から見て、発行した「日本銀行券」は紛れもなく「負債」であるから、貨幣が負債であることは会計上正しい』

 

【指摘

・硬貨や紙幣といった法定貨幣(日銀法による強制通用力を含む)の発行元である政府や日銀は、そもそもバランスシートを作成する必要などない。仮に作成するとしても、紙幣を負債勘定に計上するのは明らかに誤りであり、紙幣発行益として資本の部に蓄積させるか、現金として資産勘定に計上すべき。日銀は発行した紙幣に対して、何の返済義務や清算義務も負っていない。現に日本政府の貸借対照表を見ると、政府が発行する硬貨(政府紙幣)は負債勘定のどこにも計上されておらず、貨幣造幣益という収入になる。貨幣負債論者は、紙幣(日銀券)と硬貨(政府紙幣)を区別せず、いずれの貨幣も負債であると言い張っているが、政府のB/Sを見れば、それが誤りであることが解る。

 

・日銀のB/Sの資産勘定には「現金(硬貨=政府紙幣)」や「国債」が計上されている。つまり、日銀券とほぼ同価値の硬貨や国債が「資産」として計上されている以上、日銀券(紙幣)のみを負債扱いするのは大いなる矛盾でしかなく、まったく説明がつかない。

 

・そもそも、会計上の資産勘定は、貨幣に換金されるがゆえに資産性を認められているのであり、貨幣への換金確度が高い順に並べられている以上、資産性の大元たる貨幣が負債であっては、話が根本から覆ってしまう。

 

【主張

『古代メソポタミアでは既に信用取引が一般的な決済方法だった。古代メソポタミアの民は、居酒屋の支払いを毎回ツケ払いしていた。その証拠に、古代メソポタミアから発掘された銘板にはこうした信用取引の記録が大量に残っている。この銘板を保有するということは、銘板に記載されている支払額と同額の資産を保有することになる。現代で言えば、企業の発行する約束手形が流通するようなもので、まさに、古代メソポタミアでは負債としての貨幣が流通していた、ということになる』

 

【指摘

・メソポタミア人の飲み屋のツケ払いメモが残っていたことを以って、信用取引が一般的だったと言い切るのはおかしい。我が国では現金決算が一般的で、クレジットカード利用率(消費に対するカード決済利用率)17%ほどに過ぎないが、例えば、3000年後の人類が、JCBカードの利用明細を発見して、「いまから3000年前の日本では、既に現金決済が消滅し、毎回クレジット決済していた」と断言するようなものだ。メソポタミアの銘板は、たまたま残っていた飲み代のツケのメモ書きを見た者が、当時の信用取引の様子を誇張しただけだろう。

 

・信用取引を貨幣の負債性を証明する材料として持ち上げるのは、あまりにも不適切であり、それを以って「貨幣=負債」と決めつけるのも単なる早とちりだ。信用取引の存在は負債の概念の証明にはなるが、それを貨幣の負債性に転嫁するのは誤りだ。貨幣は、負債や債務の清算に使われた道具に過ぎず、負債そのものではない。特に、モノやサービスの品質や量が著しく低次元であった古代メソポタミア時代において、負債を清算する手段として、必ずしも貨幣を使う必要はなかったはずだ。むしろ、労役や小麦、オリーブの実、干し肉で払った方が喜ばれたかもしれぬ。貨幣は負債や債務を数量的に可視化するための単位やツールでしかなく、それを負債そのもののように勘違いしてはならない。

 

【主張

『ヤップの島民は魚、ヤシの実、ブタ、ナマコの取引から発生する債権と債務を帳簿につけていった。債権と債務は互いに相殺して決済をする。決済は一回の取引ごと、あるいは1日の終わり、一週間の終わりなどに行われる。決済後に残った差額は繰り越され、取引の相手が望めば、その価値に等しい通貨、つまりフェイを交換して決済される。彼らはフェイという代用貨幣を使って現代的な信用取引をしていた。負債と信用の関係から貨幣は生まれた』

 

【指摘

・繰り返しになるが、信用取引の存在は負債の概念を証明することができても、貨幣の負債性を証明する材料にはなりえない。ヤップの民が使ったフェイという代用貨幣は、信用取引の決済ツールとして使われただけ、つまり、債権債務の移動を記録するボールペンやノート代わりでしかなく、負債性を証明するものではない。それを証拠に、決済に使われたフェイは相手側に渡されることなく庭先に放置されたままだったというではないか。貨幣(ここではフェイ)が負債なら、決済行為という資産と負債の交換が行われると同時に相手側に移動していてしかるべきだ。

 

・そもそも、主要な生産物が魚、ヤシの実、ブタ、ナマコの4つしかない社会なら、それらが貨幣以上に貴重な資産となり、貨幣の存在などほぼ不要になるはず。では、ヤシの実が資産だとして、その対岸にある負債とは何なのか?実をつけていないヤシの木を負債と呼ぶべきなのか?貨幣負債論者は、万物との交換価値を持つ貨幣を最高の資産だと位置づける代わりに、貨幣の資産性を根拠づけるために発行元(政府や日銀)に貨幣の負債性を負わせようとする。しかし、それは、モノやサービスが有り余る高度な文明社会でしか通じない言葉遊びの類いでしかなく、貨幣が何の通用力も持たない荒野や砂漠、大雪原、無人島では、資産も負債もクソもない。そこでは食料や水こそが唯一の資産であるが、その資産性の根拠となる対義語を探しても何も見つからない。貨幣で買えるモノやサービスがいくらでもあれば、「貨幣は資産。誰かの資産は誰かの負債だから、貨幣は発行元の負債だ」なんて呑気な言葉遊びもしていられるが、いくら貨幣があってもそれで何も買えないような荒涼たる社会では、そんなへ理屈は通用しない。

 

・貨幣は負債と信用との関係から生まれたのではない。交易の利便性を高め、経済発展の基盤を創ろうとする強い意志を持つ国家と国民の信頼関係から生まれたのだ。

 

【主張

『ハイマン・ミンスキーは、「誰でも貨幣を創造できる。問題はその貨幣を受け入れさせることにある」と述べた。これは「誰でも負債(借用証書)を創造できる」「問題はその負債(借用証書)を受け入れさせることにある」と言い換えることができる。企業は手形という借用証書を発行できるし、個人でも小切手という借用証書を発行することができる』

 

【指摘

・我が国において、個人で当座預金口座を開設し、小切手(パーソナルチェック)を切れる者はほとんどいない。もともと少なかったのが、クレジットカードの普及もあって、パーソナルチェックを見かけることはまずない。そんなものを貰っても、受け取った方はどこに持ち込めばよいか知らない(銀行の窓口に持ち込めば現金化は可能)し、小売店や飲食店でパーソナルチェックを出しても、100%受け取りを拒否られるだろう。また、手形の使用も激減しており、2017年の手形流通量は374兆円と1990年のピーク時の4797兆円と比べて8%未満にまで落ち込んでいる。つまり、負債=借用証書の創造ニーズは墜落寸前にまで消滅しつつある。

 

・先のヤップ島の話でも、貨幣を信用取引の帳尻決済にしか使っていなかった様子が窺えるが、これこそが信用取引と貨幣の負債性を強引に結合させたがる貨幣負債論の限界なのだ。貨幣の役割を信用取引清算システムに矮小化する発想から抜け出せず、生産活動を高度化するための貴重な資産として理解する努力を怠ったばかりに、貨幣が十分に活用されず経済の発展が妨げられてきたのだ。ヤップ島がいまだにタロ芋や漁業頼みの低次産業に止まっているのは、貨幣を掛け売りやツケ払いの清算に利用するだけで、生産力の高度化や経済発展の糧として活用する発想が抜け落ちているからにほかならない。真の国富と呼べるのは生産力やそれを支える技術力、労働力であり、貨幣を国富増強に資する国民全体の富や資産だと理解せぬ限り、先進国とはなりえない。

 

 

貨幣負債論者にアドバイスしておくとすれば、信用取引や金融市場の信用創造論を以って貨幣負債説を説明するのは無駄だということだ。

それらは、負債の諸形態を説明できても、貨幣が負債であるという証明には役立たない。

 

また、「貨幣は発行者にとって負債、保有者にとっては資産というのは、MMTにおいては定義になっている」という説明もいい加減すぎる。

 

MMTの貨幣負債論に疑問を抱く者は、定義云々以前に、なぜ貨幣が負債なのか、貨幣が負債なら政府は何を以ってその債務を清算するのかと問うているのに、その点を何も説明せず、いきなり“貨幣が政府の負債なのは定義なのです”と結論だけ述べても、誰の理解も得られまい。

 

貨幣負債論を唯一証明できる方法はただ一つだけ、『政府や中央銀行は、貨幣という負債を誰に対して、何時までに、何を以って返済(清算)すべきなのか』という疑問に対して、箇条書きで具体的に答えることだ。

 

“貨幣は返済義務のない特殊な負債”というセリフではまったく回答というレベルに達していない。

 

負債に特殊もクソもなく、負債は負債(金銭的な返済義務を負う債務)である。

一般的な国民が理解できぬ特殊な言葉の定義を乱用するのは、理の通った説明から逃げようとする詭弁と非難されても仕方あるまい。

 

“特殊な負債”という理解不能な言い回しは、そこいらの国民には通用しない。

永遠に負債を拡大できるという説明は国債の説明としてはOKだが、そもそも負債ではない貨幣の説明としては不適切だ。

 

特殊というなら、一般的な負債とどこが違うのか、解りやすい言葉で具体的に説明すべきだ。

もし、それが“返済義務を負わない”という意味なら、もうそれは「負債」ではない。

何か別の修飾語を探してくるべきだ。

 

政府にとって、国債は間違いなく負債だが、貨幣は国民にモノやサービスの購買力を与え、それが国全体の生産力や付加価値をUPさせ、供給力の高度化を通じて国民生活をより豊かにし、労働の質の向上にもつながる。

そして、国家と国民とはイコールの関係にあるから、貨幣は国債とは異なり、国民にとっても国家にとっても、あきらかに「資産」なのだ。

 

緊縮派に同調して経済をシュリンクさせたいなら、貨幣を負債だと言い張っても構わぬが、貨幣負債論は「貨幣=政府の負債=国民負担で補填すべき債務」というネガティブイメージを払拭できず、緊縮主義者による「国債は自分たちの借金=財政再建のためなら増税もやむなし」という誤ったメッセージにお墨付きを与えるだけに終わるだろう。

2019年1月28日 (月)

生活向上給付金

『実は違う!?「住居費は収入の3割」という定説』
https://manechie.so-net.ne.jp/learn/mane_1704628182.html
「「住居費は収入の3割を充てるのがいい」。収支のバランスを考える上で、住居費の収入に占める適切な割合はこれが最適だと思っている方も多いのではないでしょうか。
社会人になったばかりの頃は住居費の3割負担が多少きつくても、給料が上がるにつれ、その割合は徐々に下がり、生活に余裕が出てきます。やがて結婚して家庭を持ち、広い住宅に移るとまた苦しくなるのですが、そのうち楽になるという理屈でした。
しかし、それはあくまでも、年功序列で給料が右肩上がりに増えることが前提です。(略)」

“家賃は収入の3割以内に抑えて…”
いまから30年近く前、バブル期に学生時代を過ごしていた筆者も、アパートを探す際に同じようなことを言われていた。

当時は好景気ゆえに家賃相場もなかなか強気で、仕送りとバイト代を合わせても家賃が3割以内に収まらず、金が無くていつもピーピーしていたのを思い出す。

さて、都市部に暮らすサラリーマンの苦行といえば、「通勤地獄・ブラック労働・重い住宅ローン」が三定番だろう。

住宅ローン返済負担率(ローン返済元利金/可処分所得)は、2000年代以降およそ20%前後で推移してきた。
これだけだと、一見、家計にゆとりがあるように見えるが、景気の良かった1980~90年辺りの負担率は12~15%ほどしかなく、平成不況が本格化して以降、家計に占める住宅コストはより重くなっている。

そもそも、80-90年代といえば、都銀の住宅ローン金利が9%近く、住宅金融公庫(当時)の金利でも5.5%と、今の7~10倍近くにもなる目玉が飛び出るような超高金利だった。
また、マンション平均価格は、ここ数年上昇傾向にはあるが、それでも、バブル期(80年代後半~90年代初頭)には及ばない。

住宅ローン金利が史上稀にみる超低金利、かつ、バブル期よりは安い住宅価格という条件下にもかかわらず、住宅ローン返済負担率が当時よりも高止まっているのは、収入の低下と税や社会保険料負担増加による可処分所得の低下のせいにほかならない。
【参照先】
https://www.jri.co.jp/MediaLibrary/file/report/researchfocus/pdf/9654.pdf
https://biz-journal.jp/2016/06/post_15689_2.html


最近の住宅ローン金利比較サイトを見ると、期間15~20年で1.0%を切る商品も珍しくなく、本来なら、住宅ロー返済負担率が10%を切ってもおかしくないはずだ。
そうなると、家計の可処分所得はグッと上がり、消費活性化に向けた大きな財源も生まれるだろう。

国土交通省のデータによると、平成29年度の注文住宅購入者の住宅ローン年間返済額は平均で156万円(首都圏)だそうで、返済負担率が半分になれば、年間80万円近い余資が生じる。
ちなみに、消費税率8%による負担額は、年収500~600万円世帯で年間18.2万円だそうだから、年間80万円という金額のインパクトがいかに大きいか解るだろう。(ボーナス1~2回分になるかも…)

返済負担率を大幅にダウンさせるような大改革を現実化させるには、
①金利引下げ⇒すでに史上空前の超低金利→×
②住宅建設コスト大幅カット⇒建築関連業者の業績崩壊+大量の失業者発生→×
となれば、後は収入を加速的に増やすしかない。

本来であれば、史上最高益を上げる大企業を中心に、労働分配率の引き上げを強制すべきで、それに並行して、消費税やガソリン税、酒税等の廃止や社会保険料負担の半減等により、名実両面からの所得UP政策が必要だが、現実的には長期的な取り組みを余儀なくされるだろう。

こうした長期的な課題を解決する間に、内需の芽が萎んでしまわぬよう、即効性のある所得UP策や需要喚起策が必要になる。

以前に何度も自ブログで提案してきたが、筆者、国民一人当たり月額3~4万円の生活向上給付金の創設を提案したい。

これは、国民にとって大きな負担となる住宅費相当の給付金を継続的に支給することにより実収入を引き上げ、消費支出に振り向ける財源の創出を目指すもので、ベーシックインカム(以下、BIと表現)の一種だと理解していただきたい。

奨学金の返済負担を抱えたまま都会に就職した若者が、低賃金・高家賃に喘ぎ、ダブルワーク、トリプルワークに手を出し、出口の見えぬ貧困のスパイラルに落ちる様など見たくはない。

巷に蔓延るインチキBIは、年金や医療など既存の社会保障制度の簡素化や一元化の方便として持ち出されるものばかりで、BIを施行する代償に年金や失業保険、介護保険などの廃止を訴える愚論が目立つ。

わずかばかりのBIをエサに、虎の子の年金などを取り上げられてはかなわない。
こんな紛い物が国民の理解を得られるはずがなかろう。
社会保障制度の複雑さは確かに問題であり、絶対に簡素化すべきだが、廃止や統合を持ち出すのはお門違いも甚だしい。

筆者が提案するBIは、既存の社保制度を廃するものでも、人質に取るものでもなく、あくまで、それらを温存しつつ、20年以上も続く長期不況下で重傷を負った家計所得の傷を癒すために、消費に回せる資金を直接給付することによって「medical treatment(治療)」を施そうというものだ。

全国民に月3~4万円を給付すると、年額で43~58兆円ほどの財源が要るが、国債の日銀間接引き受けと政府紙幣の増刷で半分ずつ賄えばよい。

現在、社会保障給付費は120兆円近くに上り、うち70兆円近くを家計と企業の保険料で賄っている。
この負担を半減する(=国庫負担割合UP)のに必要な額を35兆円として、先の給付金と合わせて78~93兆円ほどの財政支出がなされるとすれば、我が国の経済は空前の好況期を迎え、高度成長期をも凌ぐ高成長を遂げるだろう。

「国家予算100兆円超えでバラマキ批判の大合唱が起きているのに、そんなの無理に決まってるだろ‼」との批判もあろうが、ありもしない財政破綻やハイパーインフレに怯える臆病者の統失患者には、世の中にカネが溢れて何の不都合があるのかと問い質したい。

頭の悪い財政破綻論者は、実体経済下に流すカネ(=所得に直結するお金)の量を増やすと、1秒後にハイパーインフレが起き、10秒後には日本経済が消滅するかのように騒ぎ立てるが、現実を知らぬバカでしかない。

例えば、中国の国家予算(単位:十億人民元)の推移をみると、1982年/130→1992年/400→2002年/2240→2012年/15,178と、最初の十年間で3倍、次の十年間で5.6倍、その次の十年間で6.7倍、1982年→2012年の三十年間では、なんと116倍と爆発的に増えているが、中国でハイパーインフレが起きたというとぼけたニュースなど聞いたことがない。

ましてや、日本の国家予算を180兆円(国債費を除くと150~160兆円くらいか?)ほどに増やす程度でハイパーインフレに怯えるなど笑止千万だ。

“インフレ、インフレ”と騒ぎ立てるバカも多いが、所得が減り続ける不況下でコストプッシュインフレに苛まれるよりは、所得が右肩上がりで増える好況下で多少のインフレに立ち向かう方が、遥かに気楽で容易だろう。

世の中の仕組みとは誠に複雑怪奇で面白いもので、インフレ経済下とはいえ、手頃な値段で買えるモノやサービスは少なからず存在するはずだから、「低収入&中高価格」よりも、「高収入&高価格」の経済環境の方が、消費者も遥かに多くの選択肢を手に入れられるものだ。

また、国内の失業人材を無視した“エア人手不足”を言い訳にして、急激な経済成長は深刻なモノ不足をもたらすと主張する馬鹿者もいる。
だが、彼らは“需要増=販売数量増”という、経済成長を物量でしか測れぬ時代遅れも甚だしい「胃袋経済論者(成長は胃袋の数に比例すると信じるシロウト)」でしかない。

たとえ人口や生産数量が増えずとも、モノやサービスに対する消費者一人当たりの購入単価、つまり付加価値が上がれば何の問題もない。

400円ののり弁を100個しか造れないと嘆くのではなく、のり弁が600円でも売れる、あるいは、1,200円のステーキ弁当が飛ぶように売れる“高付加価値経済”へ移行すればよいだけのことだ。

経済の質や強靭さを最終的に決める要素は、モノやサービスを高い品質を保ちつつ造り出せる生産能力に尽きるが、それらを円滑に稼働させ、より高度化させるためには、絶えずお金(貨幣)という燃料を投じ続けねばならない。

国家(国民)がカネを惜しんで、経済成長など望むべくもない。
国家(国民)カネを使わずして、豊かな生活を手に入れることなど叶うはずがない。
カネを恐れる守銭奴は国家(国民)を貧困に導くだろう。

2019年1月24日 (木)

新自由主義+反原発ゴロ=中二病のクズ

新自由主義者という生き物は、改革とかイノベーションとかいう言葉を切り口にして経済を騙りたがるものだが、得てして、そこいらのオバちゃん並みの経済観念しか持ち得ていない。

彼らの経済論が常にスベりまくる理由は、経済成長における需要の役割を軽視し、経済活動にエネルギーを与える貨幣の使用を控えたがるからに他ならない。

いまだに学生気分の抜けないド素人は、「(あくまでも自分基準で)良いものを作れば必ず売れるはず」、「イノベーションを起こせば経済は成長するはず」という世迷い言を信じ込むだけで、イノベーションとやらに対価を支払う需要家の財布の中身をまったく気にかけようとしないから、せっかくの技術革新も買い手のつかないゴミを大量生産するだけに終わってしまう。

『古賀茂明「アベノミクス終焉 野党は『天使の成長戦略』示せ」』(1/7 AERA dot.)
https://dot.asahi.com/dot/2019010600010.html?page=1

古賀氏は、新自由主義&緊縮主義的思想に染まり切った元経産官僚のくせに、なぜか安倍首相を敵視するという変わり者だ。(新自由主義者同士の同族嫌悪なのかも…)

彼はAERAに掲載されたコラムにて、打倒安倍政権の立場から野党の奮起を促し、自民党との政策差別化を打ち出すため、「自民党支持者の既得権を叩く規制改革」、「『悪魔の成長戦略』から『天使の成長戦略』へ」というスローガンを使うべきだと提案している。

また、「天使の成長戦略(失笑)」とやらの具体策として、
●全国の過疎地で25年までに自動運転ライドシェアを実現するためにタクシー規制を抜本改革
●原発関連予算を全廃し再生可能エネルギーに投資
●官民ファンドを全廃し再生可能エネルギーファンドを創設
●ドイツ、デンマークなどの先進企業を誘致し、世界最先端の自然エネルギー100%の先進地域を実現
といった提案をしている。

要は、「自民党の票田たるタクシー規制を緩和しろ」、「原発排除のために自然エネルギー革命を起こせ」、つまり、憎きタクシー業界と原発業界をイジメ抜けと言いたいわけだ。

古賀氏はコラムの中で、タクシー規制改革と再生エネ推進策を「自民党が打ち出せない経済政策。それもバラマキとは一線を画した「夢のある改革」政策」だと自画自賛しているが、筆者には、世間知らずで経済効果マイナスの素人提案にしか見えない。

タクシー規制撤廃と再生エネ推進を旗じるしにして選挙に勝てると本気で信じているとしたら、古賀氏の政治感覚は中学生レベルと断言できる。

まず、タクシー規制改革だが、悪評高い2002年のタクシー業界参入規制緩和の影響により、年間輸送人員はピーク比で1億人以上も減り、延べ実稼働車両数も減り続けている。
バブル期には90%を超えていた車両稼働率(都内)も最近は76.8%にまで低下し、600万円近かった乗務員の年収も419万円にまで落ち込み、全産業男性労働者の平均値(685万円/2017年度)との差異は広がる一方だ。
【参照先】https://www.smbc.co.jp/hojin/report/investigationlecture/resources/pdf/3_00_CRSDReport069.pdf

古賀氏は、小泉のバカの口車に乗せられ、やってはならない規制緩和に手を染めたばかりに業界全体が過当競争に陥り疲弊した大失敗を繰り返せというつもりか?

過疎地の買い物難民対策なら、政府の恒久的な補助制度によるスーパーの誘致や移動販売車の巡回強化、バスや列車等の公共交通機関の増発こそが本筋であり、ライドシェアみたいな小手先の対策など何の意味もない。

田舎の婆さんとて、自宅とスーパーとの往復だけでは用をなさず、病院やクリーニング店、役場、外食等々、外に出てたしたい用事は結構あるものだ。
そんな時に、他人の車を使うライドシェアだと、何かと気を使って複数個所を回るよう言い出しにくいし、そもそも、電話をかけるのでさえ怪しいのに、アプリを使って敗者を申し込むなんて出来っこない。

また、自動運転技術の実用化には相当の時間と法整備が必要だし、意外と低所得層の多い高齢者が気軽に手を出せるとも思えない。
自動運転技術を使わせるべきは、田舎の爺さんや婆さんよりも、むしろ、煽り運転をするような糞バカDQNの連中だろう。

古賀氏のもう一つの主張である再生エネ推進策については、単なる反原発ゴロツキの利権を拡大だせるだけの愚策でしかなかろう。

彼は、簡単に原発関連予算を全廃しろと言うが、既存の原発施設のメンテナンスを一体、だれが責任を持って行うというのか。
こういう無責任なことを平気な顔して言うから、反原発ゴロの連中は度し難いほどの大バカなのだ。

再生エネの主力選手たる水力発電強化のため、大規模なダム開発を進めるというなら賛成したいが、ゴロツキの頭の中には再生エネ=太陽光+風力という発想しかないから、安物の中華製太陽光パネルや、台風に羽根をへし折られるヤワな風ぐるまをあちこちに設置して環境破壊を惹き起こすだけに終わるだろう。

古賀氏は、ドイツやデンマークの先進企業を誘致して、我が国を世界最先端の自然エネルギー100%の先進地にしたいと述べているが、ヨーロッパのような甘っちょろい気象条件の下で培われた技術など、世界最恐の自然災害発生地域である我が国では通用しない。

ドイツや北欧諸国と聞くだけで目をキラキラさせる“おのぼりさん”は、不用意な発言をする前に、現実に何が起きているかよく勉強することだ。

『「日本の過酷な環境に苦戦した海外製風車」、足利工業大学・牛山理事長に聞く』
https://tech.nikkeibp.co.jp/dm/atcl/feature/15/062700033/062700001/?ST=msb&P=4
「「日本で風力発電は故障が多い」というイメージを与えてしまった理由の1つが、多くのサイトで欧州企業製の設備を安易に導入したことです。デンマークやドイツで実績のある設備といっても、日本の国土は、欧州に比べて過酷な自然環境です。
 欧州製風車が日本で苦しんだのは、「強風」「乱流」「雷」の3つです。台風による強風が日本の風車開発の課題になっていることは、すでに述べました。加えて、7割を占める山では、風の向きが頻繁に変わります。また、日本海側に多い雷も発電設備に脅威です。」

そもそも、再生エネがどれほど技術的に発展しても、そこから生み出された電力が旺盛に消費されぬ限り、再生エネ業界が生き延びることはできない。
サプライサイドがいくら夢を語ったところで、その夢に対価を支払う者がいなければ、技術はたちまち陳腐化してしまう。

古賀氏が、安倍政権打倒のために野党に肩入れしたい気持ちは解らぬでもないが、AERAのコラムに載った内容は、あまりにも筋が悪すぎる。
どうせ提言するならば、もう少し真剣に勉強して、国民生活の向上と産業力強化に直結するような提言をすべきだろう。

まぁ、彼のような反原発ゴロは、口先ではきれいごとばかりだが、実際の行動は獣以下の人非人のようなクズも多いから、多くを期待する方が無理だと思うが…。

『報道写真家・広河隆一氏セクハラで代表取締役解任 関係者が明かす「モテると勘違い」』
http://news.livedoor.com/article/detail/15800055/
「(略)今週発売の週刊文春が「世界的人権派ジャーナリストの性暴力を告発する」と題し、広河氏からのセクハラ行為を訴える女性の元スタッフらの証言を報じていた。記事によると、広河氏は「DAYS JAPAN」編集部でアルバイトをしていた女子大生や、ジャーナリスト志望の女子大生と肉体関係を持ったほか、女性アシスタントなどにセクハラ行為をしていたという。(略)
広河氏は、チェルノブイリ原発事故やパレスチナ難民キャンプ虐殺事件などの報道で知られる有名フォトジャーナリスト。(略)」

2019年1月21日 (月)

ポンコツ円安万能論

昨年末から年初にかけて株価や為替が大きく変動したせいか、株や円ドルレートだけで偉そうに経済を騙ろうとする“シロウト評論家”が跋扈している。

筆者は、これまで何度も指摘してきたが、株価や為替なんてものは、経済活動の結果として現れる数多の指標の一つに過ぎず、それが経済のファンダメンタルを大きく左右することはないと思っている。

風邪を引いたからくしゃみが止まらないのであって、くしゃみを無理やり止めれば風邪が治るわけではない。

『NY外為ドル指数上昇:米経済大復活、日本経済轟沈?』(1/4 アゴラ 藤巻健史Facebookより転載)
http://agora-web.jp/archives/2036507.html
「(略)米国債で運用したとすれば年2.64%の利回りになるのに日本国債で運用すればほぼ0%にしかならない。
日本は世界最悪の財政状況にあり、かつ世界最大のメタボの中央銀行を持ち危機的状況にある。
それにもかかわらず昨年、世界の主軸通貨で円だけがドルに対して強くなった。(略)
ハーバード大のEzra F. Vogel教授が「Japan as No1」という本を出版した日本の黄金時代の1979年、米国は低迷の時代だった。その時の$/¥は1ドル=240円だった。
その後、低迷していた米国が大復活し、日本経済は轟沈しつつある。当然円は弱くなるはずなのに逆に$/¥は=昨日朝、一時104.87円と大幅に強くなってしまった。
ここに日本経済の矛盾と経済停滞の最大の理由がある。(略)
国力に比べて強すぎる円高が日本の経済低迷の最大の原因だ。(略)」

藤巻氏といえば、“1ドル=200円の超円安で日本経済大復活”でおなじみの超円安論者だが、今となっては時代遅れも甚だしいポンコツ評論家に過ぎない。

巷の円安論者は、日本は貿易立国という“神話”にいまだに囚われ、輸出産業さえ元気なら日本経済は問題ないとばかりに円安推進論をがなり立てるが、事実は異なる。

我が国は紛うことなき“内需立国”であり、実質GDPに占める純輸出の寄与度はミジンコレベルだ。
実際、日本の純輸出(実質値)は2011年第2四半期以降ずっとマイナスだ。
【参照先】https://www.nippon-num.com/gdp/actual-ix.html

この状態で藤巻好みの超円安にでもなれば、名目の輸入額(輸入コスト)が大きく膨らみ、GDPマイナス要因となるばかりか、企業の原材料仕入れコストを圧迫する。

折からの長期不況下で需要サイドの値上げ許容力はゼロに近いから、コスト高を販売価格にすべて転嫁できる企業は少なく、マーケットはスタグフレーションさながらの深刻な不況に陥りかねない。

このところ人手不足が企業を苦しめる最大要因であるかのような大嘘が罷り通っているが、実際に中小企業の経営者を悩ませているのは、「需要停滞(=売上減少)」と「原材料やエネルギー等のコストUP(=原料高)」なのだ。
【参照先】独立行政法人中小企業基盤整備機構「第154回中小企業景況調査(2018年10-12月期)」http://www.smrj.go.jp/doc/research_case/154th.pdf(15ページ)

この状況で1ドル=200円もの超円安が到来すると、海外からの仕入れコストが倍増するだけに止まらず、エネルギーコストの負担も圧し掛かるから、国内産業は壊滅的な打撃を受け、諸物価高騰の波は家計の消費支出にも大きなダメージを与えるだろう。

超円安の恩恵を享受する肝心の輸出型大企業はといえば、空前の経常利益を上げておきながら、2017年の労働分配率は66.2%と43年ぶりの低水準に落ち込んだとおり、輸出増で稼いだ収益を分配する気がまったく見受けられない。

藤巻氏みたいな能天気なバカ者は超円安で日本経済大復活だと叫んでいるが、そんなものは根拠マイナスの大法螺でしかなく、大半の国内産業や家計は“深刻な物価高騰と惨憺たる売上不振”に苦しめられるだけで、大復活するのは一部の輸出型企業だけだろう。

彼は、円が国力に比べて高すぎるのは長年の経済政策の失敗のせいであり、経済政策を真剣に考えるべきと訴えるが、真剣に考えるべきは、彼の持論である「超円安への為替誘導」や「緊縮政策による財政再建」といったクソ政策ではない。

第一、緊縮財政を続けて実体経済を回る貨幣量(=円)を減らしてしまうと、円が希少化しますます通貨高を招くから、彼が大好きな超円安との大矛盾を惹き起こしてしまうが、藤巻氏は何十年も経済評論家を名乗っておいて、その程度のことも解らぬのか?

我が国が恒常的な円高に悩まされてきたのは、長年の緊縮財政により他国と比して貨幣流通量(※金融市場ではなく実体経済下の流通量)が相対的に減少し円の希少化を招いたこと、名目輸出額や海外での生産比率増加に伴う外国通貨の円への両替量増加によるものだろう。

要は、国内需要をほったらかしにして、海外への行商にばかり熱を上げたせいで、稼いだドルやユーロを円に換える際の円に対する需要が必要以上に増えただけのことだ。

藤巻氏は、ご紹介したFacebookで行き過ぎた円高是正のために“円を安くする方法はいくらでもある”と豪語しているが、彼が大好きな『聖域なき歳出カット・乱暴な構造改革・野放図な規制緩和や市場開放』という方法は、いずれも円の希少性や需要を高め、さらなる円高を招くだけのマイナス解答でしかない。

円安を熱望するポンコツ評論家には、「緊縮政策はさらなる円高を招くだけ」、「超円安はコスト暴騰を招き、日本経済は復どころか壊滅しかねない」と注意しておこう。

そのうえで、彼には、周回遅れの発想を転換するようアドバイスしたい。

為替を小手先だけで弄ったところで何の役にも立たない。
為替は経済活動の結果でしかないし、円安であれ、円高であれ、それがプラスに働く経済環境を創出しなければ意味がない。

これからは、平成不況をもたらした「緊縮・構造改悪・規制緩和」とは真反対、つまり、『積極財政・国内産業の保護・資本や人材移動の規制』といった政策を長期にわたり打ち続け、内需を刺激し、生産拠点の国内回帰、中小企業の競争力強化、国内人材の保護育成に取り組まねばならない。

国内に生産拠点や人材を集約して、大規模な財出により、それを刺激するための財源を供給してやれば内需は刺激され、実体経済下の資金流通量とスピードは飛躍的に高まり、海外からの原材料やエネルギー購入量も増加する。
また、国内経済の活性化で稼ぎ出された資金は、海外への投資にも向かうから、為替は自然と円安に向かうだろう。

積極財政委がもたらす内需の隆盛と適切な分配によって国内産業や家計の購買力も高まるから、円安に対するコスト許容余力も増し、それが輸出型産業へのアシストにもなる。

藤巻氏のようなアホな為替万能論者につける薬はないが、経済評論家を気取るなら、せめて現実をきちんと踏まえてモノを言うくらいの慎重さが欲しいものだ。

2019年1月18日 (金)

貨幣の資産性は国民の生産力によって保たれる〜貨幣負債論の嘘

筆者が隔週でコラム投稿の機会を頂戴している『進撃の庶民』では、MMT(現代貨幣理論)や、それに連なる貨幣論に関する議論が続いている。

MMTの詳細はWikipediaほかのサイトでご確認いただくとして、かの理論を信奉する者は、

①自国通貨と中央銀行を有する金融主権国家は、純粋な財政的予算制約に直面することはない(法定貨幣無限発行論)

②政府のバランスシートにおいて、あらゆる政府発行の貨幣性商品は資産として計上されない。政府自らは貨幣を所有せず、あらゆる政府発行の貨幣性商品は負債として計上される(貨幣負債論)

③法定不換貨幣に課税することは「強制力を持つ民間の納税義務」という形で貨幣そのものに対する需要を創出し、法定不換貨幣の流通を促す(租税貨幣論)

の三つを軸に、経済成長にためには負債(信用)の拡大が不可欠だと主張する。
【参照先】
https://ja.wikipedia.org/wiki/Modern_Monetary_Theory
http://econdays.net/

MMTに対する筆者の立場は次のとおりだ。

・「通貨発行権を有する政府は、将来の支払いに対する非制限的な支払い能力と他部門への非制限的な資金提供能力を有している以上、債務超過による財政破綻は起こりえない」というMMTの主張には大いに賛成する

・ただし、貨幣は国民全体の資産であり、それを発行する政府や日銀は貨幣の通用を保障はするものの、貨幣に対して何ら弁済義務を負わないから、貨幣に負債の定義を当てはめるのは不適切である

・また、貨幣の信用を担保するのは、“国家が定めた法廷貨幣であること”、“あらゆるモノやサービスとの交換能力を有すること”、“国家全体の社会機構や産業基盤などの強靭さ”等々といった事実や現実であり、納税制度はそうした要素のごく一部でしかなく、税制のみが貨幣価値を担保するかのような論は虚言でしかない

積極財政を支持する論者から、MMTの三要素のうち、政府は財政制約に囚われないという①の論に反論する声はほとんどない。

一方、③の租税貨幣論は、あまりにも現実離れしすぎた書生論や珍説の類ゆえ、これを信じる者は極端に少なく、「単なる妄想」という結論で決着済みだと理解している。

現在、MMTを巡り最も熱くなっているのは、②の貨幣負債論の是非に関する議論であり、「誰かの資産は、誰かの負債」という経済大原則を貨幣そのものに適用可能かどうかという点が大きなポイントになる。

「誰かの負債は、その対岸にいる者にとって資産である」という説は正しいのは、両者が債権(資産)=債務(負債)を有する関係にある場合に限られ、労働や企業活動を通じて得た所得や収益にまで適用するとおかしなことになる。

労働者が賃金を受け取る権利(賃金債権)や、使用者が賃金を支払う義務(賃金債務)になぞらえる者がいるかもしれないが、両者の関係は、使用者側から労働者へ給料が支払われた時点で権利関係は一旦終了となり、労働者が既に受け取った給料(貨幣)自体が何らかの負債性を帯びることはない。(使用者の義務(負債)は給料を支払った時点で終結)

貨幣負債論を強弁する者は、貨幣を資産として仕分けする以上、会計学上の原則から、その対になる負債勘定に何かしら計上せねばならないと焦り、いろいろ探し回った挙句に、貨幣そのものを発行元の政府・日銀の負債だと言い繕うしかなくなったというのが実情だろう。

だが、所詮、『お金はお金(貨幣は貨幣)』でしかない。

貨幣がすべての国民や企業に資産として認められる理由は、国家が強制通用力を保障し、世の中にあるすべてのモノやサービスとの交換能力を有しているからにほかならず、貨幣が政府の負債である必要など微塵もない。

貨幣の資産価値を担保するのは、貨幣を負債勘定に計上する日銀のバランスシートではなく、ましてや、国民が大嫌いな税制などでもない。
貨幣が資産たり得るのは、それを使って入手できる数多のモノやサービスが無限に存在しているからであり、それらを生産・供給する国民の不断の努力のおかげであると言って差し支えない。

事実、一億円の札束が詰まったアタッシュケースを持ったまま、商店や食料もなく人影すら見当たらない荒涼とした雪原や砂漠に放り出されてしまえば、貨幣など何の役にも立つまい。そこでは、貨幣よりも一個のパンや一本の缶ジュースの方が遥かに高い資産性を持つだろう。

資産なんてものの尺度は、置かれた環境や状況によっていくらでも変化するものであり、誰もが欲しがる貨幣に、わざわざ“負債”という悪名をつける必要などない。

貨幣の資産性を担保する対義語(会計上の対科目)が必要なら、それは日銀のバランスシートの負債勘定にある日銀券ではなく、『国民の生産力』を以ってそれに充てるべきだ。
(そもそも、貨幣は負債ではなく発行益として計上すべきだし、日銀が決算書を作ること自体が無意味なのだが…)

また、「貨幣=負債(信用)」という大嘘もさることながら、「貨幣は借用書だ」と言いつつ、なぜか貨幣負債論を否定する一部の論者の支離滅裂な思考回路にも呆れている。

常人の感覚なら、負債も、その内容を記した借用書も、ほぼ同義だと思うはず(※筆者も両者は同一思想の範疇だと理解している)だが、当のご本人は、「負債は“借りた”という行為。その行為を証明する文書が“借用書”だ」と言い張り、ゴマ粒未満の些末な違いに拘っておられる。

負債論⇔借用書論の違いなんて、“坂本龍馬”と“坂本龍馬伝”の違いのようなもので、云わば、偉人気取りの偽物と、偽物の虚像を記したウソだらけの伝記程度の違いでしかない。
筆者に言わせれば、行為だろうが、実体だろうが、貨幣借用書論は貨幣負債論の派生に過ぎず、貨幣に要らぬ負債性を科すという危険性を孕んでおり、積極財政政策の足枷になりかねない。

“国の借金が~”と怯え、財政政策を忌み嫌う国民に「お金そのものが負債なんですから、お金を増やしたいならお負債を増やすしかないですよ」なんて入れ知恵しようものなら、たちまち、「貨幣は政府の負債なんだろ? つまり“借金”なんだよな。調子に乗って貨幣をばら撒くと取り返しのつかないことになるんじゃないの? 俺たちの子孫にツケを回していいのかよ(# ゚Д゚)」と逆ギレされ、収拾がつかなくなるだろう。

そもそも、借用書とは、お金を貸し借りする当事者の間で作成する文書であり、「貸主の名前、賃借する金額、金利、毎月の返済日、返済が遅れた場合の金利、返済開始日、返済期日
返済方式、契約日、借り手の署名と住所、印」などを明記するのが通常のやり方である。

では、上記項目のうち、実際に貨幣に記されているものはどれほどあるのか?
貨幣に記されているのは、発行元(紙幣、硬貨)、名称(紙幣)、金額(紙幣、硬貨)という情報だけで、そこには貸借関係を証する文言は一切書かれていない。

書かれてもいないものを、さも事実であるかのように言い募るのは、詐欺にも等しい下賤な行為でしかない。

言葉の定義を厳密に解釈する者なら、「貨幣は借用書である」なんて大嘘など間違っても口にできないはずだが…

貨幣負債論や貨幣借用書論、租税貨幣論の類は、いくら詭弁を重ねても証明のしようがなく、一般人の常識論に照らし合わせただけで、矛盾がボロボロ露呈するポンコツ論だ。

MMTを信奉する者には、現実を説明できない腐った枝葉を削ぎ落したうえで、国民生活の向上や産業基盤の強化に資する財政拡大論にシフトするよう望みたい。

2019年1月16日 (水)

時計の針を逆回転させる愚論

人々は、なぜ「お金(法定貨幣)」を欲しがるのか?

それは、お金さえあれば、自分の欲するモノやサービスを不自由なく買えるからに他ならない。
いつでも、何でも買うことができるという満足感や安心感は、個々人の人生に、何物にも代えがたい充足感をもたらすとともに、より強い労働意欲を掻き立てる。

だが、世の中には「お金(貨幣)は負債である」と信じて止まない人(貨幣負債論者)もいる。
誰もが貨幣を資産として欲する以上、それを発行する政府や日銀にとって負債でないと、会計的なバランスが取れないというのが主張の根本にあるようだ。

「誰かの負債は、その対岸にいる者にとって資産である」という説は正しい。
ただし、それが成り立つのは両者が債権=債務を有する関係にある場合に限られる。

まず、「資産」とは何か?

ネットで検索すると、「土地・家屋・金銭などの財産。法律で、資本にすることができる財産」との説明があるが、一般通念上は、現預金や株券、債券、不動産、貴金属、宝石、書画・骨とう品など貨幣額で合理的に換算できるものを指す。

例えば、、プラチナの価格相場はグラム3.100~3,200円ぐらいで、それを保有する者にとって間違いなく資産だろうが、この場合、プラチナという資産の向こう側にある負債とは何を指すのか?

貨幣負債論者なら、プラチナが資産と化すにはそれを換金する必要があり、受け取った貨幣が資産、その貨幣を発行した政府や日銀が負債を抱えることになる、とでも説明するのだろう。

では、食料も水もないサハラ砂漠のど真ん中ではどうなるか。

行き交う人もラクダもいない荒涼たる砂漠で、何億円持っていても資産としての価値はない。
そこでは、貨幣や宝石よりもパン(フルーツの方がいいかも…)や水の方が遥かに高い資産価値を持つだろうが、そこでも貨幣負債論者は、砂漠の中心で「パンは負債だ、水は負債だ」と叫ぶつもりなのか?

債権・債務の延長線上での取引には、必ず資産と負債が対になっているはずだが、世の事象すべてがそうなっている訳ではない。

貨幣負債論という発想は、すべての取引を会計学の枠組みでしか捉えられぬ者の“早とちり”でしかない。

筆者は、貨幣負債論者に対して、これまで何度も自ブログや進撃の庶民へのエントリーで、
①貨幣という負債の清算(返済)義務を負う者は誰なのか
②負債の清算にあたり、持ち込まれた貨幣の対価として何を以って支払うのか
③負債の清算期限は何時なのか
と問いかけてきたが、質問に対して正面から具体的な回答を得たことは一度もない。

貨幣は負債であると言い張る以上、普通の国民が抱くであろう上記の疑問に対して、ひとつひとつきちんと答えられるはずだ

だが、残念ながら、貨幣負債論者から返ってくるのは、予想の斜め下からのビーンボールばかりで、ストライクゾーンを掠る気すらしない。

そもそも、彼らの回答が「そもそも貨幣は発行者にとって必ず負債になります」という、まったく答えにもなっていない一文から始まることにげんなりさせられる。

貨幣の負債性を疑わせるエビデンスを付したうえで「貨幣は本当に負債なのか?」と質問しているのに、疑問を氷解させる答えや事例を全く示すことなく、「そもそも貨幣は負債です」という結論を主張し始めるようでは、常識を疑われても仕方あるまい。

また、「「負債」とは、言うまでもなく「信用」の対概念であり、AのBに対する負債は、BのAに対する信用である。貨幣とは信用であり、信用以外の何物でもない。Aの貨幣はBのAに対する負債であり、Bが負債を支払えば、Aの貨幣は消滅する。これが貨幣理論のすべてである」なる説明も、まったく的を外している。

A・Bの二者が、債権・債務や賃貸借の関係なら、なんとなく当てはまりそうだが、ここでも「貨幣」の二文字を使うのは適切ではなく、「債権」という文字を使うべきだろう。
なにせ、BがAに負債(債務)を返済しても、この世から貨幣が消滅することはないのだから…

A・B間で発生・消滅するのは、あくまで「債権と債務」という取引概念であり、貨幣はそれを具現化するための道具でしかない。

確かに、「負債=信用」という言い方も理解できぬわけじゃないが、通常、金融取引の現場では、抱えている負債の少ない者(=無借金経営)の方が、より高い信用を得ていると言い張ることも可能だ。

無借金経営者に対して、「より多額の負債を抱えられる余地がある」と捉えるか、「負債を抱えていない身綺麗な身体」と捉えるかによって、信用の抱き方が違ってくる。

将来の多額の負債吸収力を信用力と評価することも可能だが、それも初めのうちだけで、負債額が徐々に増えるにつれ、信用力は逆に降下し始めるのが世の常だ。

つまり、信用の定義なんて、切り口次第で何とでもなる程度の曖昧なものだ。

まぁ、貨幣とは信用に違いないが、その根源にあるのが、「国家が無限に負債を膨張させることができる」という貨幣負債論か、「国家は国民の資産である貨幣を無限に造り出し続けることができる」という真逆の論なのかによって、議論が分かれるところだろう。
信用を裏付けるのは、負債(負債に対する耐久力)なのか、資産なのか、というわけだ。

先の一文にあるAを国民に、Bを政府に置き換えると、「貨幣とは信用であり、信用以外の何物でもない。A(国民)の貨幣はB(政府)のA(国民)に対する負債であり、B(政府)が負債を支払えば、A(国民)の貨幣は消滅する。これが貨幣理論のすべてである」と言い換えられる。

果たして、B(政府)は何を以って負債を支払うのか? そして、A(国民)が持つ貨幣はどこに消えてしまうのか? まったく意味不明である。

また、貨幣負債論者は、「リフレ派を含むネオリベ経済学は、お金を自明な存在と捉えて論考せず、お金はお金という発想は新自由主義的な価値観に通じる」と批判する。

リフレ派の貨幣観をよく知らぬが、彼らの貨幣に対する期待感は、どちらかと言えば貨幣負債論者に近似しているのではないか。

リフレ派の連中は、金融政策による実質金利の抑制が投資や借入(金融機関にとっての貸出)を促すと考え、実体経済に富や資産の源となる貨幣を供給する財政政策を毛嫌いする。

彼らは、投資や借入という負債の拡大を経済成長の起爆剤とする、つまり、「負債=信用」の膨張が景気を動かすと信じ込んでおり、貨幣をその道具(所得や売上にはつながらない貸出原資)として位置付けている。

リフレ派の連中が財政政策を忌み嫌うのは、負債拡大が経済成長を促すと言っておきながら、それはあくまで民間経済主体による負債拡大であって、政府の負債である貨幣を野放図に膨張させると財政問題が悪化して金利上昇圧力が掛かり、金融緩和政策の邪魔になるからだ、という矛盾した態度によるものだ。

こうして見ると、リフレ派特有の「お金(貨幣)は負債だけから生まれるもの」、「貨幣が飛び交う好景気にするためには負債の拡大や過熱が不可欠だ」という腐った書生論は、貨幣負債論と瓜二つではないか。

貨幣が負債でないと不都合なのは、貨幣負債論者だけではなく、財政政策を忌み嫌う緊縮主義者や新自由主義者、リフレ派の連中の方だろう。

貨幣が負債なら、借金恐怖症に毒された国民に対して「貨幣は政府や日銀の負債、つまり“借金”なんですよ。調子に乗って貨幣をばら撒くと取り返しのつかないことになります。皆さんの子孫にツケを回していいのですか?」と脅しつけるのに格好の材料になる。

経世済民を推進する立場の論者が、「国債は政府の負債であり、内国債である以上何の問題もない」、「自国通貨発行権のある我が国に財政問題は存在しない」と、いくら主張したところで、貨幣負債論者に知恵を借りた緊縮主義者の連中が、にんまりして、「国民の皆さん、騙されないでください。日本には財政問題が無いなんて大嘘ですよ。お金は政府の負債なんです。負債である以上、いつかは返済しなければなりません。いったい誰が負債を返すのですか? これ以上税負担が重くなってもいいのですか?」と国民を脅しつければ、即試合終了だ。

「貨幣が負債ではないのなら、国の借金に怯えて政府債務を全額返せ!と主張する国民に何と説明するのか」との意見もあるが、上述のとおり、貨幣が負債であるなら、借金恐怖症の国民を重篤化させるだけで、説得する手立てなどない。

いくら、貨幣は特殊な負債であり、通常の負債とは違って永遠に返さなくてもよい負債だと言い張っても、国民から、「返さなくてもよいなら、そもそも負債じゃないだろっ(# ゚Д゚)」、「政府だけ返す必要のない借金ができるなんていい加減なことを言う奴を信用できるか‼」と逆ギレされ、それこそ“信用”を失うだけだ。

おまけに、「お金そのものが負債だから、お金を増やそうと思ったら負債を増やすしかないですよ?」なんて言った日には、「これ以上借金を増やすなんてとんでもない‼ 借金を増やすくらいなら、お金なんて要らない」とケツを捲られて終了だろう。

積極的な財政政策を打ち続けるための原資として、国債増発や日銀による国債引き受けを訴えるのは、筆者も大いに賛成だ。

“国の借金が~”とブーたれる愚か者には、
「日銀買い取り分は実質的な債務にはカウントされない」
「国民にとっての資産である国債が増えるのは喜ばしいこと(国債は政府の債務だが、国民全体の資産である貨幣で財源は確保済みであり問題なし)」
「内国債がどれだけ積みあがっても、通貨発行権で処理(財源確保)できる」
「政府が通貨発行権という国民全体を利する最強資産を保有する以上、財政問題など端から存在しない」
「借金問題に怯えるよりも、国債や通貨発行による果実を得て経済成長する方が遥かに有用だ」
と説明すれば十分だし、それで解らぬようなら貨幣を使う資格なしとみて、日本から出て行ってもらうしかあるまい。

貨幣負債論は、国債だけでなく、貨幣そのものに“負債+借金+増やすべきではないもの”といったマイナスイメージを植えつけ、人々から貨幣を増やしたり使ったりする意欲を削いでしまい、積極財政策にとっては足枷にしかならぬ非常に筋の悪い発想であろう。

貨幣負債論に脳内を侵された者は、まず「そもそも貨幣は負債なんです」という固定観念や雑念を取り払い、貨幣は本当に負債なのかと自問自答したうえで、
①貨幣という負債の清算(返済)義務を負う者は誰なのか
②負債の清算にあたり、持ち込まれた貨幣の対価として何を以って支払うのか
③負債の清算期限は何時なのか
という素朴な問いに箇条書きで具体的に答えるべきだ。

お金(貨幣)を商品貨幣論か、新表券主義・表券主義かという二元論でしか理解できないのは、あまりにも世の中の仕組みを知らなすぎる。

いまや商品貨幣論を唱える者などおらず、表券主義がメインストリームを成しているが、貨幣を負債と見做す発想は、商品(財貨)自体を貨幣とする商品貨幣論に通じるものがある。

せっかく、貨幣を貴金属のくびきから解き放ったのに、またもや貨幣を負債という鎖でがんじがらめにするなんて、本当に馬鹿げたことではないか。

2019年1月14日 (月)

お金はお金

Q.「銀行券が日本銀行のバランスシートにおいて負債に計上されているのはなぜですか?」
A.「日本銀行は銀行券の発行を1885年に開始しました。当初、日本銀行の発行する銀行券は、銀との交換が保証された兌換銀行券でした。その後、金本位制度の採用を経て、金との交換が保証されました。こうした制度の下で、日本銀行は、銀行券の保有者からの金や銀への交換依頼にいつでも対応できるよう、銀行券発行高に相当する金や銀を準備として保有しておくことが義務付けられていました。
このような銀行券は、いわば日本銀行が振り出す「債務証書」のようなものだと言えます。このため、日本銀行は、金や銀をバランスシートの資産に計上し、発行した銀行券を負債として計上しました。
その後、金や銀の保有義務は撤廃されましたが、一方で、銀行券の価値の安定については、「日本銀行の保有資産から直接導かれるものではなく、むしろ日本銀行の金融政策の適切な遂行によって確保されるべき」という考え方がとられるようになってきました。こうした意味で、銀行券は、日本銀行が信認を確保しなければならない「債務証書」のようなものであるという性格に変わりはなく、現在も負債として計上しています。」
(日銀㏋『教えて!にちぎん』より)

“お金(貨幣)とは何か”という疑問に答えるのは容易ではないが、筆者は少なくとも「貨幣は貴金属的価値のある財貨(主にゴールド等)に裏打ちされるべき(金本位制)」とか、「貨幣は負債である(貨幣負債論や貨幣借用書論)」といった愚論を容認する気はさらさらない。

一般的には、日銀(正確には国立印刷局)が発行する日本銀行券(紙幣)や、政府(造幣局)が製造する政府紙幣(硬貨)を総称して、“貨幣や通貨(法定通貨)”と呼ぶのが常識だが、世の中には、国家が製造する法定通貨を捕まえて、「お前の価値を担保するのは何なのか?」とやたらと貨幣に担保を要求したがる者がいる。

それほど貨幣(円)価値の担保が気になるなら、ドルやユーロ、元にでも両替すればいいのだが、こういうめんどくさい奴に限って、平気な顔して毎日のように円で買い物しているからややこしい。

冒頭にご紹介した日銀のQ&Aのとおり、中央銀行は発行した貨幣(日銀券)をB/S上の「負債勘定」に計上しているが、そうした事実が、貨幣の使用に足枷を嵌めたがる緊縮派のバカどもや、貨幣負債論を信じる者の拠り所となっている。

だが、貨幣が負債であるなら、その負債をどうやって清算するつもりなのか、明確な回答を提示した者は誰もいない。

「負債」とは『他から金銭や物品を借りて、返済の義務を負うこと。(デジタル大辞泉)』と解説される。
ここで重要なのは、“負債=返済の義務を負うこと”であり、負債である以上、債権者が存在し、決められた期日までに相応の対価を以って清算せねばならない。

貨幣負債論を信じる者は、最低でも、
①貨幣という負債の清算(返済)義務を負う者は誰なのか
②負債の清算にあたり、持ち込まれた貨幣の対価として何を以って支払うのか
③負債の清算期限は何時なのか
という疑問に対して、具体的に箇条書きで答える必要がある。

念のために言っておくが、持ち込まれた貨幣を別の貨幣と交換することを負債とは呼べない。それは単なる“両替”である。

それから、「負債の定義」を一般人が理解できない特殊な言葉で修飾したり、一部のコミュニティでしか通じない暗号で定義づけしたりするのは明確なルール違反である。

まぁ、貨幣という負債を返済する対価として使われるのが“貨幣”である時点で、貨幣が負債ではないことが明白なのだが…

貨幣が負債であって欲しいと願うのは、「預貯金や債券などの金融資産の価値を裏付けるためには、その対岸に負債の存在が必要になる」という原則論を慮ってのことだろう。

だが、「誰かの資産は誰かの負債」という原則は、あくまで債権債務や貸借関係の線上で成立するものであり、売買や贈与のような行為にまで及ぶものではない。

通常、負債や債務を清算するにあたり、貨幣が使われる(無銭飲食の罰としての皿洗いは別…)が、そうした場合の貨幣の役割は、「負債の総量を円という金額単位で可視化すること」と、「可視化した負債量をゼロにするための清算に使われる道具」であり、負債そのものを意味しない。

冒頭のQ&Aで日銀は、『銀行券の価値の安定については、「日本銀行の保有資産から直接導かれるものではなく、むしろ日本銀行の金融政策の適切な遂行によって確保されるべき」という考え方がとられるようになってきました』と口を滑らせている。

これを額面通りに受け取れば、貨幣(銀行券=紙幣)の価値を担保するのは、日銀のB/Sの資産勘定にある国債や有価証券ではないという意味になる。

つまり、国債や有価証券という金融資産を資産化するには、それらを売却して“貨幣”に換金する必要があり、換金された貨幣を以って、負債勘定にある貨幣の価値を担保することはできないという事実を暗に認めているのだ。

積極財政を主張する者たちは、これまで、世間に流布する「1,000兆円もの国債を抱える日本は財政危機」という緊縮財政派の大嘘に対して、「国債は政府の債務であって国民にとっての資産。政府債務は経済規模の拡大に伴い永久に増え続けるのが当たり前。国内には日銀や民間金融機関をはじめ国債の買い手はいくらでもおり、政府債務の拡大に懸念はない。債務がいくら増えても、政府が貨幣発行権という大権を有する以上、内国債の債務不履行など起こり得ない」という論で厳しく批判してきた。

しかし、貨幣が負債となると、“政府の負債は国民の資産”まではよいが、その先の“貨幣発行権発動による政府債務解消”の段階で躓いてしまう。

借金恐怖症に駆られた国民の多くは、「お金が負債だって?じゃあ、国債をどうするんだ!借金で借金を返すのか??いい加減なことを言いやがって(# ゚Д゚)」とヒステリーを起こして暴走し、緊縮病が重篤化するだけだろう。

緊縮思想に汚染された無知な国民に、「負債には返すべき負債と返さなくともよい負債がある」という理屈は通じない。
一般的な常識では、返さなくてよいものを負債とは呼ばないからだ。

返さなくてもよいのなら、むしろそれは負債ではなく、政府による硬貨発行が「貨幣造幣益」であるのと同じく「資産や収益」と呼ぶべきだろう。

貨幣負債論は、国民の借金恐怖症をいたずらに刺激し、経済政策における貨幣活用のハードルを自ら上げるだけの愚策でしかない。

また、『財政政策は、政府が負債や借用書である円を刷って、国民からモノやサービスを借りるのと同義』という論もあるが、これも“借りる”ではなく、“買う”と表現すべきで、政府はサービス提供者に対する対価(貨幣)の支払いを個々に清算済みだから、借りっぱなしというわけじゃないし、ましてや対価として支払われる貨幣そのものが負債になるわけでもない。

貨幣とは、『国家が定める法律によって保障された強制的な通用力を持ち、あらゆるモノやサービスと交換できるこの世で最も便利なツール』である。

貨幣が負債に見えてしまうのは、会計至上主義に囚われ、資産の対義語を欲する者の“早とちり”であろう。

誰もがお金(貨幣)を欲しがるのは、日本政府がその通用を保障しているからであり、通用の保障と負債とは同義語ではない。

貨幣の価値に疑問を持った馬鹿者が、政府に対して、「俺の持っている一万円札はあんたの負債なんだろ?いますぐ借金を返せよ!」とゴネたところで、誰も相手にはしない。
せいぜい、「両替ならお近くの金融機関でどうぞ」、「お金の価値に疑問を持つのは勝手ですが、万札が気に入らないなら、豪勢にお寿司でも召し上がってはいかがですか」と追い払われるのがオチだろう。

ありもしない貨幣負債論をいくら唱えても、その負債とやらを返済してくれる者はどこにもいない。
当たり前だ。そもそも、貨幣は誰の負債でもないのだから。

2019年1月10日 (木)

奴隷不足を美談にするな!

昨年、与党や安倍政権から改正入管法が提出された際には、“事実上の移民解禁だ”、“人手不足じゃない、単なる奴隷不足だ”、“人手不足は雇用条件改善のチャンスなのに、それを潰す気か”と方々から非難の嵐が起きた。

しかし、いまやマスコミの論調は、「移民の人権をいかに保護すべきか」、「移民に選択されるために日本はどう変わるべきか」という具合に変化し、移民受け入れは当然という前提の下で、日本人に多文化共生社会という害悪しかない腐れ文化を押し付ける気マンマンだ。

『東北でさえ「低賃金」の外国人に頼り切る現実~企業や社会の維持に手前勝手はもう通じない』(1/8 東洋経済ONLINE)
https://toyokeizai.net/articles/-/258918?page=1
「「あんな不毛な論争をやっていたんじゃ、日本には誰も来てくれなくなる。質問する野党議員も、取り繕って答弁するばかりの政府も、地方の窮状がまるでわかっていない」
宮城県気仙沼市でワカメやコンブの加工業を営む「かわむら」の川村賢壽会長は、昨年秋の国会で審議された入管法(出入国管理法)改正案の審議を見ながら、いら立ちが収まらなかった。「外国人を最低賃金以下で使い倒すとかパスポートを没収するとか、そんなことをやっている会社がなぜ生き残れている。国は何をやってきたんだ。法律違反を犯す会社があれば2度と外国人労働者を雇えなくなるくらいのペナルティーを与えるくらいのつもりで制度運用すべきだ」
外国人労働者の人権をないがしろにする会社の蔓延に、川村会長が危機感を募らせるのは、技能実習生の存在なくして現場が回らないことを、ここ数年で痛いほど感じてきたからだ。(略)」

東洋経済の記事に紹介された㈱かわむら(宮城県気仙沼市)の川村社長は、外国人労働者を最低賃金以下で扱き使おうとする悪徳事業者に憤り、心の通った指導や交流の大切さを説いている。

筆者は、そうした態度に文句を言う気はない。

ただ、彼が、「3K職場には誰も来てくれない」、「外国人技能実習生の存在なくして現場は回らない」、「移民反対云々とグズっていると、外国人労働者が誰も来てくれなくなる」といった趣旨の発言を繰り返していることを本当に情けなく思う。

こういった低収益労働の常態化を前提とした移民不可避論により、不況下で苦しい経営を強いられる経営者や貧困脱出を目指す出稼ぎ労働者が悲劇の主人公に祭り上げられ、移民推進派や、経済政策を放棄し貧民輸出を企てる後進国の為政者らに都合よく利用される。

“人手が足りない”、“募集をかけても応募がない”、“日本で少しでも稼ぎたい”という現実に直面する悲劇サイドの人間たちは、目の前の苦境から逃れるために移民解禁に賛成して互いを利用しようとする。

だが、「国内労働条件悪化の放置→国民所得の長期低迷→需要不足による長期不況」という構造問題を解決せぬ限り、間違いなく10年後も、彼らは悩みの淵に沈んだまま同じような愚痴をこぼし続けているだろう。

川村氏は、外国人労働者の雇用に人一倍気を配っているかのように美談仕立てで語っているが、最低賃金を守るなんて至極当然であり、別段自慢するほどのことでもない。

ちなみに、宮城県の最低賃金は時給798円と、8時間/月25日労働でも総支給ベースで月額16万円ほどにしかならず、実家住まいでもないと到底自活できるレベルじゃない。

しかも、件の㈱かわむらの募集条件をネットの求人情報(正社員)で拾ってみると、作業内容はわかめ・サケなどの加工現場での作業、1日9時間、月時間外26時間、休日:日祝のみ、年間休日87日で月給13.8~18.1万円、つまり、ほぼ最低賃金ギリギリの給与水準という体たらくだ。

こんな劣悪な条件で募集をかけておいて“一生懸命やっていますヅラ”されても困る。
日本人どころか、そのうちベトナム人やインドネシア人にもそっぽを向かれるだろう。

学生バイト以下の低賃金を堂々と提示しておいて、人が来ないと嘆くバカ者には、「お前なら、こんなところで働くの?」と問うてみたい。

事実、東洋経済のコメント欄にも、
「日本政府はブラック企業に対して甘すぎる」、
「外国人でなく職探しをしている人は多いです。高齢者の職探しはとても多い。主婦も仕事探しをしている人は多いです。ニートは60万人以上いる。日本人から人手を確保する仕組みが必要だと思います。適正な給料を払い、適正な労働環境にすると人は集まると思います」、
「外国人を入れなくても失業者はいっぱいいる。ブラック企業を淘汰して、安心して働ける社会を作るのが先。ブラック企業の延命策は要らない」
等々、手厳しいコメントが寄せられている。

筆者が業務上で支援する中小零細企業の多くは、その財務内容を見ると経常赤字や営業赤字を余儀なくされる先も目立ち、最終黒字を計上してもたったの数十万円ほど(実態は赤字経営)のところがほとんどであり、川村氏の嘆きもよく解る。
時給を上げたくとも、数十円上げただけでたちまち赤字に陥り、資金繰りに窮してしまうのは目に見えている。

だが、そうした苦境を解っていながらも、本稿では、移民なくして仕事が回らないと弱音を吐く経営者を敢えて厳しく批判する。

彼らは、外国人労働者に逃げられぬよう何かと気配りし、心を砕いているようだが、果たして日本人労働者にも同じような配慮をしているのか?
移民優遇にばかり目が行き、肝心の日本人の待遇改善への努力はなされているのか?

経営者が“不況下で価格転嫁不能→赤字受注ばかりで収益低下→人件費捻出不能→労働待遇低下→人材流出→求人不発→移民頼み→外国人への媚び諂い”という衰退へのスパイラルを断ち切る努力をせぬままだと、やがてベトナム人やインドネシア人を中国に取られ、イエメン人やザイール人を探しに行かざるを得なくなるだろう。

現況の人手不足は、数百万人規模で存在する国内労働人材に十分な雇用条件を提示できぬまま無駄に腐らすだけで、“奴隷並みの悪条件で大人しく働く奴がいない”と嘆く「奴隷不足(=エア人手不足)」であり、低賃金労働を常態化させたいだけの経営サイドの我が儘やだだ捏ねレベルの話でしかない。

この指摘に文句がある経営者には、奴隷が足りないと国民に甘える前に、問題の根本である不況脱出への具体策に目を向け、その解決を図るよう政治家に文句をつけて来いと言っておく。

緊縮主義に押されて、“財政支出は無駄遣い”、“消費税は不可避”だのと逆噴射政策を呑み、“モノが売れない”、“給料を払えない”、“奴隷がいない”と愚痴をこぼすバカ者には、経営者たる資格がない。

「給料を上げたくとも不況で価格を上げられない」と嘆くのなら、自社製品に十分な付加価値を付けられる(=値段が高くても売れる)ような経済環境の実現にこそ汗をかくべきであり、積極的な財政金融政策の実行による所得UPと消費活性化に賛成すべきだ。

それも出来ぬのなら、雇用の受け皿がなくなるのは残念だが、奴隷労働並みの雇用条件しか提示できぬ以上、もはや企業としての使命を終えていると言うべきで、大人しく退場してもらいたい。

2019年1月 7日 (月)

自立型経済に向けた改革を‼︎

『日経平均終値、1010円安 トランプ政権混乱が飛び火』(H30/12/25 朝日新聞)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181225-00000050-asahi-brf
「連休明け25日の東京株式市場で日経平均株価は急落し、終値は前週末より1010円45銭安い1万9155円74銭。日経平均が今年1千円超の値下がりとなったのは2月以来2回目。終値で2万円の大台を割ったのは昨年9月以来1年3カ月ぶり(略)
 前日の米ニューヨーク株式市場ではトランプ政権の混乱が市場不安につながりダウ工業株平均が約650ドルも急落。この流れで日経平均も全面安となった。(略)
 SMBC日興証券の太田千尋氏は「市場心理が悪化に傾き、海外勢の売りが株価を押し下げているのに対し、有力な買い手が不在の状況だ」と話す。」

朝日新聞をはじめとするバカマスコミは、トランプ大統領の足を引っ張りたいがために、日本市場の株価急落までトランプ氏のせいだと責任転嫁している。

だが、ヤフーニュースのコメ欄には、
「トランプ政権の混乱が飛び火したことだけが原因ではない。安倍首相・黒田総裁ラインが行ってきた不景気対策が、もうすでに手詰まりになっていることを如実に示している」、
「日本の報道は、株価下落の理由を、世界景気減速にしているけど国内も景気良くないし、外部要因だけを理由にするのは無理がある」、
「何故、上がると安倍のおかげで、下がると外的要因というご都合主義なのかな?真摯に判断すれば安部の経済運営の手詰まりだが原因なのが明らかだが」
と、マスコミの幼稚な分析に対する手厳しい意見が踊っている。

また、ニュースの中でSMBC太田氏は株価急落を海外勢の売りのせいだとコメントしているが、当日、外国人投資家の多くはクリスマス休暇中で売買に不参加だったらしい…
コメントする前にカレンダーをよく確認しておいた方がよかろう。

さて、これまでも何度か述べてきたとおり、筆者は株価が急落しようが急騰しようが、実体経済に与える影響は軽微にすぎないという立場であり、昨年末に起きた株価大暴落に一喜一憂する気もない。
昨年10月11日にも日経平均が前日比915円安まで暴落したが、それで日本経済がクラッシュしたわけでもなかった。

我が国の個人金融資産に占める株式の割合は、せいぜい一割になるかならぬかという程度でしかなく、株価上昇による“資産効果”など大したことはない。

日本証券協会の調査(H28/9)によると、個人投資家の証券商品保有額は“300万円未満”の少額保有者が46.7%を占めるそうだから、株価上昇による儲けなどほんの小遣い程度に過ぎない。
また、証券の購入目的も、「配当金、分配金、利子を得るため」(53.5%)、「(使い道は決めて
いないが、)長期の資産運用のため」(42.0%)の割合が高く、値上がり益をタイムリーに収益化する短期売買を行う者は少ないことからも、資産効果による経済波及効果は微々たるものでしかないだろう。

むしろ、宝くじや競馬、パチンコなどのギャンブルで一発当てた方が、消費への影響は大きいのではないか。(ギャンブル負け組によるマイナス消費効果と相殺すれば、大した効果ではなかろうが…)

そもそも、株価の急落・急騰を、いまだに海外要因(主にアメリカ経済)に求めたがるマスコミや株屋の連中の不見識ぶりこそおかしいのではないか?
世界第3位の経済大国が、アメリカに風邪をうつされ肺炎を拗らすなんてあってはなるまい。

野放図なフリートレードや資本移動の自由を正そうとするトランプ大統領の経済政策は、国内産業の育成保護や雇用の質向上の点から理に適うものであり、これを「保護貿易」だの「ブロック経済」だのと批判する方がどうかしている。
我が国もこれに倣い、国内産業の衰退と低賃金労働の常態化につながるバカげた開放政策を見直すべきだ。

また、外需を過度に持ち上げ、輸出産業や外国人観光客誘致を神聖視する風潮のいかがわしさにも気づかねばならない。
なにせ、日本の実質純輸出は2011年以降ずっとマイナス続きだったのだから、“輸出こそ経済を牽引するメインエンジン”という大嘘を吹聴すべきではなかろう。
【参照先】https://www.nippon-num.com/gdp/actual-ix.html

我が国の経済構成は、これまでもこの先も「内需主導型」であることに変わりはない。

日本の経済政策が及ばぬ海外の経済要因につられて体調を崩すようなことがないよう、個人消費や政府消費といった内需が経済のメインエンジンであることを国民がしっかり理解し、内需刺激型の持続的経済成長を目指すべきだ。

自国の意志に基づき経済政策のコントロールが効く内需中心の“自立型経済構造”こそ大切にせねばならない。

外需頼みの経済構造は、需要コントロールが不能で貿易摩擦を生み、通貨高圧力にも晒さやすい。
何より、需要の見通しを立てるのが極めて難解なだけでなく、輸出先国の意図的な政策や法令変更のターゲットとなり国内産業が振り回され、かえって弱体化してしまう。

外需はあくまでおまけみたいなものと割り切り、儲けの大半は内需で稼ぐのが賢いやり方で、少子高齢化で人口減が免れないとはいえ、国民の所得を増やし、一人当たりの消費支出をもっと増やしてやれば、人口減のマイナス要素を補うのは別段難しいことではなく、経済成長は十二分に可能だ。

我が国では、政官財から民に至るまで、経済を主導的にコントロールし、発展させようとする強い意志がまったく欠けている。
物乞いみたいに外需を当てにし、海外の政策変更に怯え、マナーも知らぬ迷惑観光客にペコつくだけの“外尊内卑”の負け犬根性が染みついており、その無様さには目も当てられない。

内需縮小論セットで外需信仰を支えてきた“構造改革、緊縮財政、規制緩和、金融政策万能論”などといったクズ理論は、不況脱却どころか症状を悪化させるだけで悉く結果を出せず、効き目の無い偽薬でしかなかった事実が露呈している。

くだらぬ緊縮ごっこや改革ごっこはもう止めよう。

日本が世界経済において再び主導的地位を占め、国民が「明日は今日より豊かになれるはず」と希望を持てる社会にするためには、外的経済変動に対して強靭性を持つ自立型の経済構造を創らねばならず、それには積極的な財政金融政策とそれを支える適切な分配政策を実現するための経済改革が必要だ。

“縮小(緊縮)と破壊(構造改革&規制緩和)”に明け暮れた平成不況期を一日も早く脱却するには、国民を豊かにできる真の経済改革こそ求められる。

2019年1月 2日 (水)

「カネが無い」はバカの始まり

読者の皆様、新年明けましておめでとうございます。
本年が、皆様にとって実り多き一年となるようご祈念申し上げます。

さて、昨年12月21日に閣議決定された平成31年度政府予算案が過去最高の101兆円に上ったことに対して、マスコミや緊縮主義者のバカどもが「バラマキ予算だ」、「財政再建が遠のく」と噛みついている。

筆者に言わせれば、バラマキどころか、不況脱却の意思を微塵も感じない「超緊縮型予算」だ。

周回遅れの緊縮脳たちは、消費増税に備えた2兆円規模の経済対策という“異例の景気対策”のせいで、当初予算が初めて100兆円を超えてしまったと嘆いているが、本来なら、国債費(23兆円)抜きで120兆円(国債費込なら145兆円くらい)規模の歳出であっておかしくない。

緊縮脳にバカどもは、口先では不況を憂いているくせに、カネの供給無しでどうやって不況を脱出するつもりなのか、具体論を以って答えるべきだ。

将来の見通しが立たず、企業も家計もカネの支出を渋り続ける状態で、国内の実体経済に所得や売上に直結するカネをバラ撒けるのは政府しかなかろう。

“我慢”と“改革”という安っぽい行為は不況を悪化させるだけだし、海外頼み(輸出増+観光客増)も所詮は小遣い稼ぎの域を出ないことは、20年も続いた平成不況で十分学んだはずだが?

『財政にもトリアージ(優先順位付け)の発想を』(12/18 藤巻健史(経済評論家・参議院議員)のFacebookより)
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=339616723499028&id=100023521096911
「本日は各省庁を呼んで党として来年度予算の概算要求を聞いた。あいかわらず各省庁とも予算獲得競争の体。民間のように支出を収入内に収めるとの意識がほとんどない。お金が余剰の時には正当化される予算でも財政がこれだけ悪化している時にこんなことに予算つけていいの?と思う案件が山ほど出てくる。これではまちがいなく将来赤字のツケを払わされる。それも甚大なツケを。(略)
災害時、トリアージを認めてもらうにはお医者様の数が足りないことを理解してもらう必要がある。それと同様、財政トリアージでも国にはお金が無いことを理解してもらう必要がある。(略)」

緊縮主義者という輩は、本当にざんねんで愚かないきものだと改めて感じる。

まず、“国にお金が無い”という発想そのものが、経済評論家とも思えぬ『最低のジャンク』であり、金本位制の時代ならいざ知らず、いまどきこんな周回遅れの妄想を口にするなら、政治家失格だ。
これほどレベルの低い阿呆を税金で喰わせるのは、カネを溝に捨てるのと同じくらいもったいない。

先進国随一の供給力を誇る我が国にはカネ(を実体経済に供給する余地)なら幾らでもある。
10年物の国債金利は0.05%前後と“超々々低金利”を彷徨い続けているし、国内産業の設備稼働指数も低位なままだ。

これらは、国債発行量の不足や能力を持て余す生産設備からの“不満のサイン”にほかならず、政府はもっと大胆に国債を発行し、余剰気味の生産設備に稼働のきっかけを与えねばならない。

大規模な国債発行→積極的財政支出により民間の事業量が増えれば、企業業績は上向き、長期にわたる成長期待も高まるし、景気過熱がもたらす資金の取り合いから金利が上向けば、資金運用に悩む地方銀行や信金・信組の収益改善にも役立つ。

国債発行で足りなければ、政府が別に貨幣を発行(製造)すれば済むだけの話であり、国にお金が無いなどと口にするのは、国家と家計の財布とを混同する素人未満の“うすのろ”でしかなかろう。

無いのはお金ではなく、“やる気”と“能力”の問題だ。

災害時のトリアージなんて、ふつうは後進国の話であり、日本でこうした議論をせざるを得ないのはまことに恥ずべきことだし、そもそも、医者が足りない事態を招いたのは、間違った緊縮思想の下で大学などの研究機関への科学研究予算をケチり、地方交付税を削減して地域医療機関の予算を削りまくったせいではないか。

財政トリアージなどまったく無用かつ不要であり、国民生活を向上させるためには、優先順位どころか、“聖域なきバラマキ”こそ必要なのだ。

社会保障、科学技術、防衛、防災、国土開発、農業、文教、産業育成、医療高度化等々、あらゆる分野にふんだんにバラまかれた予算をめぐり、民間事業者がしのぎを削り合い潤沢な収益を上げる経済環境こそ「常態」とすべきなのだ。

いくらでも造り出せるカネ(貨幣)を出し惜しみ、トリアージ云々を騙るのは、企業や家計の投資意欲や消費心理を冷え込ませるだけの愚策でしかない。

藤巻氏は、緊縮を賛美し、民間の競争とか自助努力をやたらと強調するが、政府がカネを出し渋る超緊縮経済下で、積極的にカネを使おうとする者などおらず、いくら競争や自助努力を強要しても、すべて死屍累々のゴミの山と化すだろう。

競争や自助努力が報われるには、それらにカネ(貨幣)という対価が十分に支払われなければならず、カネ無きところに付加価値は生まれない。
緊縮バカは、“カネ抜きの努力・根性・工夫だけ”で経済が好転することは絶対にないことを肝に銘ずべきだろう。

経済は結果がすべてであり、無限に製造可能で誰の負債にもならぬカネ(貨幣)を神聖視し、ケチっているうちは不況が終わることはない。

以上、藤巻氏のような緊縮バカの大嘘を批判し、緊縮思想に平伏す国民が一人でも減るよう、今年も努力してまいりますので、ご愛読のほど、どうぞ宜しくお願いいたします。

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