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経済・政治・国際

2016年1月14日 (木)

包丁を研げば料理の味が旨くなるという妄想

昨年12月24日に開催された経済財政諮問会議に「平成28年度の経済見通しと経済財政運営の基本的態度(平成27年12月22日閣議了解)」なる資料が提出されている。

同資料は、平成28年度の主要な経済指標の見通しを数値で示したもので、実質GDP成長率1.7%程度、名目GDP成長率3.1%程度、消費者物価(総合)1.2%程度の上昇を見込んでいる。

無論、これらは、例のGDP統計方法の変更(研究開発費の計上)による“嵩上げ”を加味したものだろうが、これまでと違い、「アメリカの金融政策の正常化が進む中、中国を始めとする新興国等の景気の下振れ、金融資本・商品市場の動向、地政学的な不確実性等」を認めており、いわゆる“外需依存”から脱却した表現となっている。

ちなみに、実質経済成長率に対する外需の寄与度は▲0.1%程度と、早くも諦めムードを漂わせている。(その割にTPPの効果試算では、今後の外需効果をかなり過大に見込んでいるようだが…)

では、上記の嵩上げのほかに、何が成長を担保するのかといえば、
(ⅰ)民間最終消費支出
雇用・所得環境の改善により、緩やかに増加する。また、消費税率引上げ前の増加が見込まれる(対前年度比2.0%程度の増)。
(ⅱ)民間住宅投資
雇用・所得環境の改善により、緩やかに増加する。また、消費税率引上げ前の増加が見込まれる(対前年度比3.8%程度の増)。
(ⅲ)民間企業設備投資
企業収益の改善や各種政策の効果等もあり、緩やかに増加する(対前年度比4.5%程度の増)
と、根拠不明の“民需新三本の矢”を主軸に据えるつもりらしい。

しかし、政府が過大な期待をかける民需を取り巻く環境はかなり厳しいものになろう。

個人消費については、昨年末に公表されたとおり、家計消費支出や実収入は明らかに減少トレンドに入っている。
しかも、今年の1~11月の間で、実績値が前年を上回ったのは1世帯当たりの消費支出は5月と8月の2回だけ、勤労者世帯の実収入は4~8月の5回だけで、残りは全てマイナスという有り様だ。

また、新規住宅着工件数は昨年こそ90万戸を少し超える見通しにあり、一昨年を若干上回るペースを維持できたが、これとて比較対象になるのは、消費税増税後の反動減に見舞われた平成26年の数値である点に注意が必要である。

平成28年に着工件数のアクセルをフカすためには、文字通り消費税再引上げの断行に伴う駆け込み需要を発生させる必要があるだろうが、それによる翌年以降の反動減は避けられないし、個人消費の下落傾向が定着しつつある中で、ひょっとすると、個人消費の前倒し減に見舞われる可能性もある。

企業の設備投資については、2015年11月の機械受注統計(季節調整値)が公表され、中国経済をはじめ海外経済の先行き不透明感が強まる中、製造業、非製造業とも幅広い業種でマイナスとなり、民間設備投資の先行指標となる「船舶・電力を除く民需」の受注額が、前月比14.4%減の7738億円となり3カ月ぶりに縮小した、と報じられたばかりだ。

外需の先行きが極めて不透明感を増す中で、企業の設備投資は老朽化に起因するものが目立ち、とても、対前年度比4.5%UPするようなプラス材料を見出すことはできない。
(統計方法やデータの数値を弄るなら別だが…)

政府サイドは口では強気な発言を繰り返しているが、いまひとつ民需の盛り上がりに確信が持てないのか、会議の中で林経産大臣から、「各企業による積極的な設備投資と賃上げ、取引先企業に対する価格転嫁について、私を先頭に、経済産業省を挙げて200を超える業界団体に対して投資や賃上げを強くお願いする。これが言いっ放しとならないよう、東証一部上場企業と中小企業3万社に対してフォローアップ調査を実施していく」との発言もあった。

つまり、企業に投資や賃上げを丁重に要請するだけでは収まらず、追跡調査までセットして脅しをかけねばならぬほど追い詰められているわけだが、これなど、民需の自発的な拡大に自信を持てない何よりの証拠だろう。

また、経済財政諮問会議の議事録を見ると、相変わらず「生産性革命と働き方改革」、「賃金・所得の向上を引き出すサプライサイドの強化」、「多様な潜在ニーズを顕在化させること等を通じた消費等の喚起」といったサプライサイド振興にどっぷりハマっている様子が窺える。

彼らは、政府が企業に声掛けし、サプライサイドを強化すれば民需が熱を帯びるものだと信じ込んでいるようだ。

だが、「生産性革命と働き方改革」はコストカットによる下請けいじめの激化と雇用の流動化を、「賃金・所得の向上を引き出すサプライサイドの強化」は高齢者や女性活用による低賃金労働の常態化を、「多様な潜在ニーズを顕在化させること等を通じた消費等の喚起」は公的部門の産業化(=民間への切り売り)を体よく言い換えただけのことに過ぎず、そんなものを断行しても、家計や企業の所得や収益を増やすことにはならないから、民需の活性化につながるはずがない。

経済財政諮問会議なる如何わしい民間会議のメンバーは、経済政策の要点が、とっくの昔に、サプライサイドからディマンドサイドに移っていることに未だに気づいていない、というより、認められないと言った方が適切か。

ようやく、彼らも、外需の脆弱さや先行きの不透明さを認めざるを得なくなったようだが、今度は、賃上げ要請(経団連はベ・アを拒否しているが…)とサプライサイド強化で内需拡大を図るという“珍説”を持ち出して抵抗を試みている。

統計数値を誤魔化したり、でたらめなTPPの経済効果分析を提示して自己満足している場合ではないはずだ。
家計の収入や支出だけでなく、企業の設備投資まで減退のサインが出ていることに強い危機感を抱くべきだ。

いつまでも持説に固執して経済環境の変化に対応できず、的外れな政策ばかり打とうとする様は滑稽でしかない。
だが、このまま新自由主義者どもの改革ごっこを放置すれば、不況の最大要因である「需要不足への対策」が蔑ろにされ続け、経済の悪化に歯止めが掛からなくなる恐れがあろう。

大局を読めず環境の変化に対応する気のない愚か者には、早々に退出願いたい。

ところで、今回の経済財政諮問会議の資料に、金融緩和政策に関する記述はないものかと探したが、議事録には見当たらず、添付資料の末尾に『日本銀行には、経済・物価情勢を踏まえつつ、2%の物価安定目標を実現することを期待する』と申し訳程度に記されていた。
しかも、いつも同じセリフの定型文が貼り付けられているだけの雑な扱いである。

リフレ派の連中は、安倍政権に懸命に尻尾を振っているが、政権側は、金融緩和政策に大した関心を持っていないようだ。
これ以上、忠義を示しても、見返りや恩賞は期待できないものと心得て、見切りをつけるべき時期だろう。

2016年1月12日 (火)

環境の変化に対応しきれない(自称)経営者たち

『ユニクロ、大幅減益 暖冬で冬物不振 昨年9~11月』

“衣料品大手「ユニクロ」を展開するファーストリテイリングが、暖冬で大幅減益となった。7日に発表した20159~11月(第1四半期)の決算は、売上高は海外出店などで前年同期比8.5%増の5203億円だったが、営業利益は同16.9%減の759億円にとどまった。

 ユニクロの国内の既存店売上高は9,10月は前年を上回ったものの、平年より気温が高かった11月は8.9%減と大幅ダウン。保温機能のあるヒートテックやフリースなどの売れ行きが苦戦したという。世界的にも暖冬で、海外でも冬物衣料がふるわなかった。

 12月も暖かさは続き、国内の既存店売上高は前年より11.9%減だった。ファーストリテイリングは通期の業績予想を下方修正し、売上高を19千億円から18千億円に、営業利益を2千億円から1800億円に引き下げた。(201617日朝日新聞デジタル)“

 

 

国内衣料品販売大手のユニクロの経営が踊り場を迎えている。

 

上記の報道に関する東洋経済オンラインでは、最近の業績不振の要因を

“ユニクロは円安に伴う原価の上昇を理由に、秋冬商品から約2割の商品を平均1割値上げしている。2014年に続く2年連続の値上げとなり、割高感は強まっている。岡崎CFOは「値上げの影響は限定的」とするが、客離れが起きていることは否めない。

 国内大手証券のアナリストは「暖冬の影響が一番大きいが、値上げが消費者に十分支持されていないことも国内不振の背景にある」としたうえで、「たとえばウルトラライトダウンは3割近い値上げなっているが、それに消費者がおカネを払うか疑問だ」“

と解説している。

 

今回の決算説明において、ユニクロの岡崎グループ上席執行役員CFOから、「想定を超える暖冬だったことに加え、暖冬でも売れる商品構成になっていなかった」、「品番数の増加により焦点がぼやけ、(テレビCMやチラシで)個々の商品の付加価値を伝えきれなかった」との説明があったが、要するに、企業の都合でコストプッシュ分の値上げを強行したが、それが商品自体の付加価値向上を伴わない一方的な値上げであったため、実質賃金が伸びていない消費者から敬遠されてしまった、ということだろう。

 

ユニクロ側は「暖冬という環境の変化」を言い訳にしたいようだが、それは、当社の柳井社長の経営哲学を否定する考え方ではないか。

 

当の柳井社長は、2010年に上梓した「ユニクロ・柳井正一 仕掛けて売り切るヒット力」(ぱる出版)の中で、次のように力説している。

<インタビュアー>

“ユニクロがよく売れるのはデフレやバブル崩壊と関係があるのか。

 

<柳井氏>

“「全く関係ない。日本国内以上に海外でよく売れている。景気が良い中国でも、ニューヨークやパリでも、韓国でもよく売れる。客単価も昨年より増えた。

私たちの名前を取り上げてデフレを合理化するのは受け入れられない。どこがデフレなのか。

私たちの看板商品のヒートテックセーターは1500円だ。ほとんどの競合他社の商品は1000円以下だ。それでも売れない。

私たちは05年、主要国内新聞の1面で‘ユニクロは低価格をやめる’と宣言した。価格に比べて良い商品という言葉は聞きたくない。ただ良い商品だと評価されたい」“

 

当のユニクロは、柳井社長の宣言どおり2年連続で商品価格を値上げし、文字通り“低価格を止めた”わけだが、結果はご覧のとおり惨憺たるものだった。

 

柳井氏の哲学が正解ならば、“商品力さえあればデフレなんて関係ない”はずだが、現実はそれほど甘くはない。

国内市場で大幅な減収減益に転落したばかりか、頼みの海外市場でも、中国以外の韓国、米国、台湾、香港では、景気低迷の影響を受けて計画を大きく下回ったり、大幅な減益を余儀なくされている。

 

同書のまえがきには、こう書かれている。

「小売りを取り巻く環境は常に激変している。複雑な要素が絡み合い、今日の小売り環境は昨日のそれとは一変している。小売りの経営者はそうした日々激変する環境にビビッドに対応しなければならない。」

 

この書籍では、山口の田舎のみすぼらしい衣料品店に過ぎなかったユニクロを、一代で国内を代表するトップメーカーに育て上げた柳井氏こそが、激変する経営環境を上手く乗り切ってきた真の成功者であるとヨイショしているのだが、果たして、激変する環境にビビッドに対応して値上げを強行した柳井氏の経営判断は正解だったのだろうか?

 

今回採り上げた書籍だけではなく、「環境の変化に適応した者こそが真の勝者」という言葉は、経営学を語るうえで、もはや定石の域に達していると言ってよいだろう。

 

しかし、本当に環境の変化を読み取れる経営者は、案外少ないものだ。

 

多くの経営者は、「実体経済の環境の変化」よりも、自社や自身の経営目標の方を優先させがちになる。

家計の実質所得は減り続けているにもかかわらず、ユニクロのように、自社のブランド力を過信して、原材料の高騰を消費者に押し付けて反発を食らい失着を重ねる事例は枚挙に暇がない。(マクドナルドも同じ失敗を繰り返している)

 

今回のような経営判断のミスが横行するのも、大手企業の経営者自身が、デフレや不況を直接的に体感できていないせいだろう。

 

経団連の連中のように、“アベノミクスと旺盛な外需の取り込みにより日本経済は着実に回復している(はず)という「物語」”を前提に経営判断しようとするバカ者が後を絶たないが、切迫する実体経済から目を背け、自分が勝手に創り上げたサクセスストーリーに溺れているだけだ。

 

彼らのような現実を読み切れない無能な経営者こそ、“環境の変化に対応しきれない絶滅危惧種”だと言ってよいだろう。

2016年1月 8日 (金)

豆を惜しんで熱気を萎ませる愚行

ついこの間、クリスマスや正月商品がスーパーの棚を埋め尽くしていたかと思えば、もう節分用の豆やお菓子が所狭しと並べられている。

節分といえば、成田山新勝寺の節分会が有名で、「国土安穏・万民豊楽・五穀豊穣・転禍為福」を祈願し、大相撲の力士や芸能人が境内の上から観衆に向かって豆まきする姿が、いつもTVで報じられている。

集まった観衆は、境内から大量にバラまかれる剣守や大豆、落花生などを拾おうと、右往左往しながら必死に手を伸ばして宙を舞うお守りや豆を何とか手にしようとし、会場は大変な熱気に包まれている。

筆者は、成田山に行ったことはないが、この映像を見るたびに、幼い頃に近所で行われた上棟式(棟上げ)の光景を思い出す。
上棟式は、家を建てるときに柱や梁など骨組みができて棟木を上げるに際して行う儀式で、施主や関係者が柱の上に上り、縁起物として、大小のお餅や5円玉などを撒く風習である。

そこには近隣の住民や子供らが集まり、上からバラまかれる餅や硬貨を拾おうと、エサを取り合う猿のように恥も外聞もなく餅拾いに熱狂していた。
(中には、開いた傘を逆さまに持ち、餅をキャッチしようとしていたツワモノもいた)

こうした光景は、経済活動の熱気に、どこか通ずるものがある。
バラまかれる豆や餅は、実体経済における商機や仕事の発注、雇用等に喩えられ、それを手にしようと群がる人々の動きや熱量は、投資や消費の活発度に模して考えられるだろう。

バラまかれる豆や餅の量が多ければ多いほど、また、その範囲が広ければ広いほど、群衆の熱気は高まって拾集を狙った活動量は多くなり、会場のボルテージも更に上がろうというものだ。

もし、撒かれる豆の量がほんの僅かで、撒く範囲も限定されていたり、はたまた、撒いた豆はレプリカだから後で返却するよう群衆に伝えたりしたなら、会場はどうなるだろうか。

今更会場に駆けつけても、もう自分が撒かれた豆を拾えるチャンスはないと諦めるか、どうせ返さなければならないのなら、面倒くさいから行くのを止めにしようと思うことだろう。
これでは、せっかく用意した会場も閑古鳥の群れに包まれるだけだ。

マクロ経済の仕組みも同じようなものだろう。

政界や財界の連中は、今年の景気回復を個人消費や企業の設備投資の活性化に託そうとしているが、出てくる政策はといえば、税制をチョコチョコ弄ったり、極めて限定的かつ一時的な給付金を撒いたりする程度で、消費や投資の活性化を促すには、圧倒的に力不足なものばかりだ。

あたかも、落花生の種を撒いて高級メロンの収穫を期待するような、まことに図々しい皮算用だと言えよう。
高級果実が欲しければ、それに見合った種を撒き、糖度を高めるための施肥や管理の手間を掛ける必要があることくらい小学生でも解かりそうなものだ。

長らく低迷した個人消費や設備投資に火を点けるには何が必要か、常識で判断すべきだろう。
家計や企業は、「改革」とか「再建」という“きれいごと”にカネを使うことはない。

バラマキによるモラル低下を懸念する向きもあるだろうが、清貧に甘んじて冬眠させられるよりも、多少の混沌や秩序の乱れの中でも旺盛なエネルギーを発していられる社会の方が遥かにマシだ。

彼らの欲求を大いに刺激し、実需を動かすためには、彼らが最も欲するものを提供してやらねばなるまい。
それは、「(収益の取れる)仕事」であり「(まともな条件の)雇用」であろう。
つまり、最終的な売上や所得(=消費や投資に直接的に使えるお金)の獲得に直結する機会の提供である。

仕事や雇用を介して技術力やサービス提供力の維持向上を図るのも良いし、急を要する部分には給付の形で直接分配するのも良い。(分配オンリーというバカは論外だが…)

こうした機会や商機を、どんどんバラまく(きれいな言葉で修飾するなら「創出する」)ことが、家計や企業の意欲を刺激し、経済の善循環につながるのだ。

家計が増税で苦しんでいるなら、減税や社保料負担の軽減などで対応すればよい。
企業が受注不足で苦しんでいるなら、公共事業量の拡大と受注条件緩和で商機を提供すればよい。

突き詰めていけば、家計も企業も、最終的には“消費や投資に直接的に使えるお金”が欲しいだけのことだから、何も難しく考える必要はないはずだろう。

2011年6月 8日 (水)

日本はこれからも経済成長できる

 先日、ある経営者と話をする機会があり、その経営者は「この間、日本は人口が減って構造的な問題を抱えているからずっとデフレが続くんだっていうベストセラー本を読んだよ。俺もそのとおりだと思ったね。なにせ日本は少子高齢化社会を迎えるんだから、もう右肩上がりなんて無理だよ。これからは皆の意識を変えていかないとね。」などと得意げに語っていた。

 彼の言う“皆の意識を変える”とは、何を指すのか。右肩上がり(の経済成長)は望めないなんて言うくらいだから、デフレによる経済の縮小均衡を前提に、これから先は企業の売上増加は望めないという意味なのだろう。随分と軽薄な経営者である。

 売上増加が見込めないなら残る手段はコスト削減しかないが、コストカットのやり過ぎは社内の人材やモチベーション・モラルの劣化に直結するため、自ずと限界がある。ただでさえ、20年もの間デフレ不況に怯えてコストカットに邁進してきた日本企業には、厭戦ムードが蔓延しており、コストカットみたいな空襲から逃げ回るような消極的手法をこれ以上続ければ、経営基盤そのものが崩壊しかねない。

 雇用条件の悪化や若者の雇用機会の消失といった大きな犠牲の上にやっとこさ捻出した収益も、労働者へ分配されることなく企業の内部留保に積み上がるばかりだ。このため、雇用者報酬も減少の一途を辿り、それが消費の低迷や企業業績の悪化を引き起こし、結果として税収の低下や社会保障財源の危機につながっている。

 こういった一連の社会構造の経済連関に目を向けず、やれデフレだ、グローバル化だのとマスコミに乗せられて経済成長をいとも簡単に諦めてしまう輩が企業経営をやっていること自体おこがましい。“皆の意識を変える=経済成長を諦める”なんて経営者が本気で信じているのなら、日本の経済活動は早晩終わりを迎えるだろう。

 件の経営者も、口ではマクロな経済成長など望めないと言いながら、その同じ口から社内では今期の売り上げは前年比プラス●%必達だなんてハッパを掛けて社員をウンザリさせていることだろう。意識を変えろと偉そうに言う当人の意識が全く変わっていないのだから、社員が気の毒である。

 デフレが長期化するにつれ、構造問題や人口減少、少子高齢化、グローバル化、国債問題などあらゆるキーワードを駆使してデフレを受け入れよとか経済成長を諦めよといった類の幼稚な論調が後を絶たない。こういった意見は、財政支出を嫌う知識層(マスコミ、政治家、官僚、エコノミスト、経営者、コンサルなど)に非常に強く支持されているばかりではなく、浪費や贅沢な生活習慣や様式を忌避(もしくは反省)する主婦層やスローライフ的な隠遁生活が好きな層(原発も嫌い)にも受け入れられ、いまや多くの国民がこれを支持していると言っても過言ではない。

 だが、経済成長を諦めるということは、給与の削減や生活レベルの低下、雇用とりわけ若者層の雇用機会が大きく棄損されることを意味するが、彼らはそういうことを理解して言っているとは思えない。おそらく、自分の生活や雇用はさておき、世の中の流れがこうだから多少の犠牲はやむを得ないなんて無責任な考えしか持っていないだろう。こんな軽い気持ちで未来の日本の行く末を悪い方向に先導されてはたまらない。人口減少だといったところで、そのペースは緩やかで、この先の経済成長によりいくらでも取り返しのつくものである。下図のとおり2005-2009年の日本の人口減少率は0.2%に過ぎず、誤差の範囲と言ってもよい。この程度なら、きちんと財政金融政策を行ったうえで労働分配率を適切な水準に維持すれば、一人ひとりがいつもの買い物の際にチョコレートや缶ジュースを一つ余計に買うだけで十分に経済成長を実現できる。

 問題なのは人口減少そのものではなく、財政政策を嫌うあまりに、国民個々人が消費支出を伸ばせないような素人じみた経済運営を長らく放置してきたことに尽きる。日本と同時期に人口減少に見舞われたドイツやロシアでは立派に経済成長(実質ではなく名目で)を果たしている。人口がとか少子高齢化がなんていうのは、単なる言い訳に過ぎない。

 将来的に人口の下降カーブを止めて上昇カーブを描かせるためには経済成長が欠かせないのは当然のこと。国債は将来世代へのツケ送りなんて嘘を巻き散らして、縮小均衡する社会を放置すれば、必ずや後世の日本人からなんて情けない祖先であったかと厳しく批判されることだろう。

 我々には、経済成長を基礎にした強固な社会基盤を後世に残していく責務がある。斜に構えて勝手に成長を諦めてしまうような役立たずは、日本人である必要がない。

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2011年5月29日 (日)

本当のモラルとは

 先日、出張先で読んだ地元紙に、地震や津波災害への原発の安全対策について千年に一度の規模の大地震や大津波に備えるべきという専門家の意見が掲載されていた。当地で江戸時代に起こった巨大地震により多数の被害者が出たという記録(古文書の走り書き)があったことを基に、国内の原発の安全対策の甘さを指摘するという趣旨の記事だった。
 世間的に東電や原子力保安院に文句が言いやすいためか、こういった後講釈的、あるいは片手落ちの批判が新聞や雑誌に氾濫している。
 この手の幼稚な批判をする者は、あらゆる災害を想定した万全の安全対策がもたらす莫大なコストを誰が負担するのかという現実問題が見えていない。そういったコストは、当然、財政負担か電気料金上乗せで広く国民が負担することになるが、実際には今回の東電叩き騒ぎでも判るように、電気料金値上げなどもってのほかという雰囲気で、ましてや財政支出なんて、いつものように国の借金云々にブロックされて到底やれるはずがない。
 訳知り顔で、想定外なんて言い訳だなどと東電に言いがかりをつける輩は、安全対策の想定基準(震度●、津波の高さ●mまで)を具体的に示すこと。それに必要な負担の支出(財政支出を含む)に文句をつけないことだ。いちゃもんばかり付けられたうえに、必要なカネは出さないと来ては電力各社も手の打ちようがない。
 そもそも、毎日のように度を越したレベルで原発への安全対策は口やかましく言われるが、実際に今回の震災で原発事故による直接の死者はいない。
 一方、津波や地震による直接の被害は、3万人近くの死者・行方不明者、10万人もの避難者、20-30兆円ともいわれる損害額など、件の原発とは比べものにならないくらい莫大だ。なのに、政府もマスコミも多くの国民も、関心を寄せたり非難の矛先を向けたりするのはなぜか原発に絡むことばかり。
 今回の大震災の被害を痛み、心底から今後の震災や津波対策を講じようとするならば、防波堤の強化や避難所の増設、海岸沿いにあるあらゆる施設の移設、通信設備の増強、食料の確保、避難マニュアルの策定、被災者に対する公的支援、都市計画そのものの見直しなど莫大な公共投資を必要とする作業に心血を注ぐことこそが対策の本丸と言えるだろう。だが、マスコミをはじめとしてこういった投資がぜひ必要だという声が一向に出てこないのはなぜか。
 原発問題なんて本当の被害はせいぜい風評被害等に過ぎず、直接的な被害の大半は大津波によるものであることは明白だ。ならば、原発云々よりも津波や地震対策により多くの資源や資金を投じることこそが重要になる。これらに必要な公共投資は実際に起きた被害に基づく対策であり極めて有意性が高い。
 マスコミや政府、それに多くの国民が原発対策を声高に叫んだり、その結果として放射能絡みの風評被害を巻き散らかしたりしているのは、単に原発が嫌いだからという単純なイデオロギーの問題だ。彼らは、自分が嫌いな公共事業を誘発するようなものは、たとえそれが必要な対策であっても敢えて触れようとはしない。だからこそ、たまたま起こった原発問題に対して、これ幸いとばかりにヒステリックな非難を浴びせて、復興事業から目を逸らそうとしている。
 いま重要なのは、今回の災害を無駄にせず次に起こる同様の災害に対して具体的な対策を講じることだ。それは原発問題に後講釈で文句をつけるという低レベルなことではなく、津波や地震の被害を最小限に抑えるにはどうすべきかといった当たり前かつ具体的な対策を実行することだ。復興事業に伴う公共事業を避ける逃げ道として東電をスケープゴートにすることは、被災者の生活再建から目を逸らそうとする卑しい行為である。
 被災者への財政支援を、過去の被災者とのバランスを欠きモラルハザードを招くものと批判する珍妙な意見も多くあるようだが、被災者の生活基盤を何とかしたい、救援の手を差し伸べようという人間としてごく当たり前の感情を持ち合わせていないような輩こそ“モラルハザード”そのものなのではないか。

2011年5月25日 (水)

『冷房』は控えめに!

 東日本大震災の被災地の復興をそっちのけにしたバカバカしい議論が熱を帯びている。TVや新聞・雑誌に溢れ返っている “復興財源ねん出のための増税”、“国家公務員給与の削減”、“原発の稼働停止”の三バカ議論のことである。
 このうち公務員の給与削減は、5-10%の削減で組合も了承し既に決着済みで、公務員に異常な嫉妬心を持つマスコミや多くの国民にとってまさに溜飲が下がる思いだろう。国家公務員の給与総額は年額で60兆円(みなし公務員含む)とも言われているが、今回の給与削減により単純計算で3-6兆円の消費抑制圧力がかかることになり、需要不足に更に拍車がかかることになろう。この莫大な消費や需要の消失を一体誰が補填するのだろうか。これは日本経済にとって全くの逆噴射政策と言え、デフレ脱却を目指す国家が採るべき手段とは到底思えない。
 こういった給与引き下げや諸手当の削減、復興財源確保のための増税論議などといった「痛みの分かち合い型」の行動は、いかにも日本人が好きそうな行動だが、実際の支援に役立たないばかりか支援を邪魔する結果にしかならない。
 今回の大震災により、被災地の住民は「人命」、「財産(ストック)」、「雇用(フロー)」という3つ大きな命綱を失った。「人命」ばかりは如何ともしがたいが、少なくとも「財産」の原状回復くらいは国家の資力で問題なく補償できる。一世帯当たり家屋や家財・車両などの補償費および当面の生活費として3,500~4,000万円程度の補償を早急に行うべきだ。阪神大震災で被災者を見殺しにした愚行を繰り返してはならない。そのために管理通貨制度という柔軟な通貨供給制度が整備されているのではないか。「雇用」の回復についても被災企業の債務補填や内需拡大策の実行による取引の優先斡旋などによってある程度は下支え可能で、それでも手に余る場合は公務員として雇用する手もある。大切なのは、復興という「目的」をいかに早期に達成するかであり、手段の清濁などは些細な問題である。
 TVや雑誌、あるいは街頭のあちこちで“がんばろう東北”とか“東北を応援しよう”といった文字を見かけるが、いつの間にか「がんばろう」や「応援しよう」が『我慢しよう』にすり替わっていないか。掛け声だけで資金を出さなければ被災者は永久に救われない。本当に困っている被災者にとって、他の国民が自分たちに同情して消費を控えたり節電をしたりして困窮生活を送られても決して空腹が満たされることはない。病気に罹った時に、横で他人が一緒にうなされていても自分の病気が治るわけではないのと同じこと。単に鬱陶しいだけである。外国人のアーティストならいざしらず、日本人が“被災者の皆さんとともに祈りましょう”的な態度では被災地は救われない。
 復興支援の名目で給与を削り、増税によって国民全体の消費が抑制されてしまっては、復興どころか、ただでさえ下がり気味のGDPがさらに落ち込み、新たに多くの“経済被災者”を生み出す結果になろう。GDPを増やすのは消費の伸びが絶対に必要であり、消費が所得の内数である以上、健全な経済成長には所得の伸びが欠かせない。
 原発に関しても、相変わらず常軌を逸した意見が罷り通っている。新聞の投書欄に目を通しても、将来的なエネルギー政策の転換を議論すべきというならまだしも、いますぐ全ての原発を止めろ、とか、生活水準を下げてでも節電に耐えようなどといった現実離れした扇情的な意見が目につく。
 実際にドイツでは、国内にある旧式の原発を一時停止させ、フランスから電力を輸入せざるを得ない事態となり国内で大きな議論を呼んでいる。衆知のようにフランスは世界有数の原発大国であり、自国の原発はNOだが隣国の原発が作った電力はOKというドイツの矛盾した態度に厳しい批判がある。そもそもエネルギーや食糧という国家運営の根幹に関わる問題を安易に海外に依存しようとする姿勢がいただけない。原発問題に過剰反応するあまり、誠に拙速な政策判断をしてしまったと言えよう。そもそもドイツは、自然エネルギーが国内発電の電源シェアの11%に達しクリーンエネルギーの優等生として持ち上げられているが、一方で、環境負荷低減や温暖化防止の先導国を自認しているくせに、石炭による発電が電源シェアの50%近くを占めるCO2排出大国といった矛盾も抱えている。
 資源エネルギー庁によると、2010年時点で日本国内の原発は54基、総発電量は4,884万KWに達している(電源シェアの約2割)。一方、自然エネルギーはと言えば、2008年時点で風力発電は1,517基/185万KW、太陽光発電は214万KWに過ぎない。気の早い原発廃止派の意見どおり直ちに、あるいは段階的に国内にある全ての原発を止めたとして、いったいどうやって電力を賄うつもりなのか。仮に全てを自然エネルギーで賄う(施設建設の問題から無理なのだが)として、現在の12-13倍の発電能力を備える必要があるが、誰が莫大な投資資金を負担するのか。中国企業にでも門戸を開くつもりなのか。
 風力発電や太陽光発電設備の拡大に政府が大規模な資金投資をするというなら賛成するが、未曽有の大震災にさえ金を出し渋るような政府にそんなことができるはずもなかろう。風力や太陽光は発電の安定さに欠ける(風力発電の稼働率は平均40%ほど)うえに、巨大な風車が海岸線に多数林立させたり、広大な面積の太陽光パネルの設置が必要になったりと漁業や海運、景観に与える影響が多大であることを考慮すると、自然エネルギーはあくまで補完的な位置づけと理解すべきだ。原発廃止云々でオダを上げてエネルギー政策の大転換なんて偉そうにご高説を垂れるくらいなら、現在のタービンによる発電方法ではない新たな実用レベルに耐えうる発電方法を開発するようなチャレンジをこそすべきだろう。
 デフレと震災のダブルパンチを受けたにもかかわらず、政府やマスコミから出てくるのは的外れな対策ばかりだ。いまこそ小泉政権以降の経済逆噴射政策により大きく毀損した社会基盤の再整備を実行するべきだ。個別の産業政策ではなく、教育・医療・治安・公共施設・食糧・防衛など国民が幅広くそのベネフィットを享受できる社会基盤の再整備を行い、長期にわたり大規模な資金を投じることが重要だ。バラマキだなんていう次元の低い批判を気にする必要はない。公共事業を通じて官から民へ供給される資金は、民間企業に安定的なビジネスチャンスを与える役割を果たし、民間の投資を活発化させ、実体経済や金融市場に十分な資金循環をもたらすだろう。何のかんのと言っても、民-民のビジネスだけでは十分な資金循環や雇用の確保が難しく、現実には官-民あるいは官-民-民のビジネスによる下支えが欠かせないことはこの20年にも及ぶデフレ不況で実証済みだ。きれいごとでは経済は回らない。
 政府の経済運営は、基本的に民間とは逆張りの経済運営が必要になる。民間の投資や消費が活発な時は政府の支出を抑制し、逆の状態なら支出を増やして実体経済を支える必要がある。ところが、現実にはバブル期に支出を増やしてデフレ期に公共事業を減らすようなトンチンカンな経済運営が罷り通っている。その結果、バブルを膨張させたり、デフレを深刻化させたりといったダッチロール状態に陥り、最後はどうしようもなくなって倫理観の欠如などといった精神論や根性論しか言えない輩の台頭を許すことになる。
 これは日本のみならず先進諸国も同様である。いつの時代にも、洋の東西を問わず『部屋を暖めようとして冷房のスイッチを押したがる』間抜けな人間がいるものだ。そういう輩に限って中途半端な倫理観を振りかざすから始末が悪い。
 “入るを量りて出ずるを為す”なんていうのは民間企業がやることで政府のやるべきことではない。政府に求められるのは、チマチマと税金を掻き集めることではなく、国家の進むべき前向きなグランドデザインを国民に示すことだ。そのうえで、管理通貨制度の下で国債発行や政府紙幣などの手段を講じて実現に必要な資金を間断なく投じるとともに、研究開発や技術開発の高度化や発展を促すべきだ。国内の需給バランスの調整や需給レベルそのものを向上させることによって経済を安定的に成長させることができ、国家としての信用力の維持向上にもつながる。国債残高や金の保有量なんていうケチな指標が国家の信用力を担保する訳ではない。
 政府やマスコミ、識者や財界、官僚などが大所高所の立場で神学論争している間にも、被災者の生活は刻一刻と苦しくなる。先ずは被災者個人の生活立て直しのために補償金の支払いなど復興に向けた具体的な努力をすべきだろう。
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